ダイバーシティ&インクルージョンを、社会学の視点で構想する
こんにちは、D&Iアワード運営事務局の堀川です。
先月からスタートした本連載では、ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)に関連した社会学などの学術文献を紹介いたします。
前回の記事はこちら。
社会学では、ある現象を考察対象とするとき、人々の社会関係の中でその現象を捉えます。
たとえば差別という現象を社会関係の中で捉えると、「差異」があるから差別が生じるのではなく、差別の正当化のために「差異」があとから「発見」されるのだという視点を持つことができます。
このようなものの見方や発想の仕方が、D&Iをめぐる社会現象の何を明らかにしてきたかを、いくつか例を挙げてこのあと紹介していきます。
連載第2回である今回は、山根純佳先生、小宮友根先生、石川准先生による「特集「多様性と包摂 diversity and inclusion」によせて」を取りあげます。
これは論文ではなく、学術雑誌『社会学評論』で「多様性と包摂 diversity and inclusion」という特集が組まれた際に、各論文を概観する位置づけで書かれた記事です。
前回紹介したアンケート調査の性別欄についての文献も、この特集に含まれる論文の1本です。
社会学という学問がD&Iをどのように論じ、社会変革を構想しうるかを、短いながらも示唆に富む整理によって提起したこの文献をとおして、社会学的な発想によるD&Iについて考えてみたいと思います。
1. 「特集「多様性と包摂 diversity and inclusion」によせて」の概要
本節では、典拠を明記していない引用箇所の丸括弧内は山根・小宮・石川(2024)からの引用ページを示します。
「排除」をどう捉えるか
「包摂」を考察対象とするとき、まず問いとなるのは「何をもって「包摂」とみなせるか」というものです。
この問いは「「多様性(差異)」がどう考慮に入れられるべきなのか」という問いと切り離せないものです(590)。
上記どちらの問いも単純に答えが出せるものではなく、「何のためにどんな差異を見いだし、またいつ誰がどのようにそれらを考慮に入れる(べきな)のかという問いをめぐる包摂と排除の緊張関係」の複雑さ、そしてその緊張関係が「翻って新たなカテゴリーのもとでの経験を生み出すというダイナミクス」の複雑さが指摘されます(590)。
そこで、まず「包摂」の対概念である「排除」が、「差異」との関係において考察されます。
重要なこととして最初に述べられるのは、「差異と排除は、「異質なものがその異質さゆえに排除される」という単純な関係にあるわけではない」ということです(591)。
別の言い方をするなら、「カテゴリーに基づく異なった取扱い(差別)の正当化のため」に「差異」が見いだされることがある、ということです(591)。
よって、社会学の重要な役割として「差異がどのように見いだされているのか」に着目し、「「差異を見いだす」実践が、いかにしてカテゴリーにもとづく排除としておこなわれ、またそれを正当化しているかを捉えること」が挙げられます(591-2)。
ただ、「差異」は「排除」と結びつくというマイナスの面のみを持つのではなく、「差異」を見いだすことがマイノリティにとって重要である場合もあります。
たとえば、あるマイノリティ・カテゴリーに属する人々が共通の経験を持つ場合や、その経験とアイデンティティが結びつく場合に、
それらが「排除に対する抵抗の根拠として重視される」(592)なら、「差異」がプラスの面を見せます。
しかし、マイノリティ・カテゴリーに「共通の経験」を想定することは、「今度は当該カテゴリー内の差異を等閑視することで新たな「排除」」につながることもありえます(592)。
例としてあげられているのは、性的マイノリティをめぐるカテゴリーの「増殖」です。
「性的マイノリティ」と一口に言っても、その内部にはまた様々な「差異」があります。
「LGBTという枠からこぼれ落ちてしまうマイノリティ」、たとえばノンバイナリーやエイセクシュアルなど、「性的マイノリティ」というカテゴリー内部のカテゴリーが生じます(592)。
このような状況において社会学にとって問題となるのは、「どのようなカテゴリーにもとづいて包摂なり排除なりを考えるべきなのか」ということです(592)。
そこでもやはり「何のために差異が見いだされているのか」という文脈が重要になります。
つまり、「際限なく細かいカテゴリーをあらかじめ用意しておくという事実上不可能な」設定をすることが「包摂的」なのではなく、
研究対象として捉え、解決すべき対象によって、適切なカテゴリーはいくつで、それは何なのかが決められるということです(592-3)。
「包摂」をどう捉えるか
以上のとおり「差異」と「排除」との関係は複雑であるため、その裏返しとして、「差異」と「包摂」との関係もまた複雑です。
「特定のカテゴリーへと差異を帰属することを控えるのではなく、むしろ帰属した上で適切にその差異を考慮に入れること」(593)の正当化は、「包摂」を制度的に実装する際には、特に難しい問題として浮かび上がります。
「カテゴリーへと差異を帰属する」というのは、ある「差異」を特定のカテゴリーに関連づけることを意味します。
ある人物がもつ「差異」を、その人自身の個性ではなく、たとえば「女性だから」という仕方で解釈するとき、「差異」を「女性」というカテゴリーへ帰属しているといえます。
「むしろ帰属した上で適切にその差異を考慮に入れること」については、例としてポジティブ・アクションや合理的配慮が挙げられています。
これらは「何らかの点で差異があることを前提に、特定のカテゴリーに属する者を異なって取り扱うことを求める」ものですが、そのことがどのような意味で「包摂」と見なせるのか、その答えは単純には求められません(593)。
その一方で、「差異」の意味を捉え直すことでめざされる「包摂」もあります。
「差異」の意味の捉え直しとは、「マジョリティ集団の特徴を標準としてマイノリティ集団にネガティブな差異を見いだすような捉え方から、フラットなばらつきとしての「差異」への捉え方の転換」と説明されます(593)。
典型的には、「障害の社会モデル」をめぐる議論が挙げられます。
障害の社会モデルとは、「障害者の不利や困難はその人の心身機能の障害によってではなく、社会的障壁によって生じる」という考え方です(飯野 2019: 153)。
障害の社会モデルの議論では、「健常」との対比で「障害」や「病理」という「差異」を見いだす捉え方を批判し、「標準」の社会デザインやコミュニケーション様式によって生じるディスアビリティを問題化しています(593)。
このような「差異」の意味の捉え直しや、特定のカテゴリーに基づいた制度の実装は、それが再び「差異」の認識に影響を与えるといった「ループ効果」(Hacking 2002=2012)を引き起こすこともありえます(593-4)。
障害の社会モデルを再び例に取ると、バリアフリーやユニバーサル・デザインのような「「標準」の書き換えによる「包摂」」がなされると、
たとえば「本当に困っている人」が「誰でもトイレ」を優先的に使えるべきではないのか、というように、「再び「フラットではない差異」への認識が要求される」こともあります(593-4)。
ループ効果の他の例として、制度的に設定されたカテゴリーが、用法の議論や新たな意味の生成につながる場合が挙げられます(594)。
たとえば「性同一性障害特例法」は、「性同一性障害(gender identity disorder)」という形でトランスジェンダーを「病理化」し、「治療」による「正常化」を要請する性格を持つものとして批判されていますが(三橋 2006: 74-5)、
「性同一性障害」の語が病理というカテゴリーを離れ、ある種のアイデンティティカテゴリーとしての用法を持つ場合(鶴田 2017)が、ループ効果の例です。
なお世界的には、国際疾病分類の改定案(2019年5月採択)で「gender identity disorder」という項目がなくなるなど、トランスジェンダーの「脱病理化」が進んでいます。
日本で「性同一性障害」の語が現行の法令で未だに使用されていることの問題性は、引き続き指摘していく必要があります。
多様な生の「包摂」に向けて
では「包摂」という課題に社会学がどう貢献できるかというと、「その「解」は読者に開かれたもの」であるとしつつ、暫定的な例として次の3点が挙げられています。
第1に、「排除」の実態を明らかにすることで、「包摂」の条件を考察できるようにすること(603)。
「差異」とは「社会関係の中で作られ、またその境界線も社会の中で更新されていく」ものです。
「差異をめぐる実践のダイナミクス」を論じるために、人々の日常的な実践のうちに社会構造を捉えるという社会学的なアプローチは有効です。
第2に、「差別」や「排除」をもたらす構造を特定すること(603)。
「社会的包摂」を実現するためには、どのように「差別」や「排除」が生じているか、その構造を明らかにする必要があります。
社会学的な実証研究はその構造を特定し、制度設計の際に役立てられます。
第3に、異なる社会集団間の対話を促し、理解と共感を深めるためのプラットフォームを提供すること(603)。
社会学が提供する理論研究および実証研究の知見は、「社会的包摂を実現するための具体的かつ実行可能な戦略」を策定し、合意形成に導くことを可能にします。
2. 「差異」も「排除」も「包摂」も、社会の中に存在している
以上が山根・小宮・石川(2024)の概要です。
これをふまえて本節では、D&Iをめぐる社会学的発想とはどのようなものかを、①「差異」が固定的なものではないこと、②「排除」と「差異」の関係が自明ではないこと、③「包摂」と「差異」の関係が一方向ではないこと、の3点に整理します。
①「差異」が固定的なものではないこと
D&Iを考えるにあたり、多様性を構成する「差異」について、まず考えることになります。
「差異」は社会の外側に、自然に存在しているものと考えることが可能でしょうか?
そうではない、という立場から、社会学的な「差異」の考察はスタートします。
本文中では「多様なカテゴリーについて、カテゴリー間あるいはカテゴリー内に、何のためにどんな差異を見いだし、またいつ誰がどのようにそれらを考慮に入れる(べきな)のか」(山根・小宮・石川 2024: 590)というように複数の角度から問いが挙げられています。
これらの問いは、「差異」が社会関係の中に存在しており、それゆえに固定的なものではないのだという発想に基づいています。
「差異」が社会関係の中から複雑に立ち現れるものだということは、「差異」と関係する「排除」や「包摂」も同じように複雑だということです。
ですから「排除」や「包摂」についても、自覚的に問いを立てて考察しようとすることが、D&Iをめぐる社会学の議論に共通する基本的な姿勢だと考えられます。
②「排除」と「差異」の関係が自明ではないこと
社会学には差別研究やマイノリティ研究の蓄積があり、その知見のひとつとして、「差異」は「排除」を正当化するために見いだされているというものがあります(山根・小宮・石川 2024: 591)。
それはつまり「差異」より「排除」が先にあるという指摘であり、「差異ゆえに排除する(される)」という「自然」な順番ではないのだということです。
具体的な例としては、植民地時代の朝鮮人と日本人との「差異」を朴沙羅(2024)が論じています。
日本人とは異なるものとして朝鮮人が見いだされたとき、朝鮮人とはどのような人種・民族かという知識は、朝鮮人を潜在的な脅威と見なしていた警察が取り締まりの必要性から生み出したものであったというのが朴の指摘です。
朴の議論で特に重要なのは、朝鮮人と日本人の「差異」を決定することができるのは、常に日本人の側であったということです(朴 2024: 620)。
これは先に①で述べた、「差異」が社会関係の中に存在しているということと関係します。
日本人が朝鮮人を支配するという不平等な関係性が、「排除」のための「差異」の存在を支えていたのです。
朴が論じた事例と同様のことは、今日でも「レイシャル・プロファイリング」として問題化されています。
レイシャル・プロファイリングとは、警察や法執行機関がその活動において、個人が犯罪行動に関わったかどうかを人種などに基づいて判断することをさします(宮下・明戸 2023: 10-11)。
レイシャル・プロファイリングは個々の警察官が持つ偏見のみが問題なのではなく、「社会に埋め込まれた人種主義が警察官の不当な職務質問という1つの形として現われた結果」と考える必要があります(下地 2023: 240)。
これをふまえると、あるカテゴリー(上記では「朝鮮人」)を「排除」するために、そのカテゴリーに「差異」を帰属させる行為は、警察だけでなく私たちの日常的な実践にも存在しうるものだといえます。
③「包摂」と「差異」の関係が一方向ではないこと
「包摂」と「差異」の関係の複雑性を考えるために、すでに第1節で引用した「特定のカテゴリーへと差異を帰属することを控えるのではなく、むしろ帰属した上で適切にその差異を考慮に入れること」という箇所を、改めて読んでみたいと思います。
「特定のカテゴリーへと差異を帰属する」というのは、先の②で述べたように、「排除」の正当化につながりうるものです。
しかし「包摂」の実現をめざすならば、そのカテゴリーがマジョリティ集団との間に「差異」を有することを、まず認識しなければなりません。
ではどのような「差異」を認識すれば、「包摂」が実現できるのでしょうか?
ここでもまた①で述べた、「差異」についての複数の問いが立ち上がってきます。
そして第1節で「ループ効果」として紹介したとおり、「包摂」のための制度が「差異」の意味に変容をもたらすこともあります。
ですから何をもって「包摂」とみなせるかという問いは、ある結論が出たら終わりというものではなく、反省的に考え続けなければならないものなのです。
3. 結び
D&Iが本当の意味で実現している社会とは、どのような状態をさすのでしょうか?
ここまで説明したような視点をもって、社会に存在するものとして「差異」や「包摂」を考えるのであれば、100%の実現を構想することは恐ろしく困難な道のりかもしれません。
しかしだからこそ、何をもって「包摂」とみなせるかという、今回の文献紹介の最初に掲げた問いを繰り返し考えることが、D&Iの実現に少しでも近づくために不可欠です。
社会学の特徴のひとつに、自己反省性$${^{\textsf{*1}}}$$を持つ学問だというものがあります。
自己反省的な考え方は学術研究のためだけではなく、D&Iを実現するための取り組みにとっても、推進力になる可能性を持ちます。
$${\scriptsize{\textsf{\text{*1 reflexivityの訳で、再帰性ともいいます。}}}}$$
本連載で研究内容とあわせて社会学的な考え方をお伝えすることが、読者の皆さまがD&Iについて考えるときの助けになるよう、引き続き論文紹介をしてまいります。
D&Iを社会の「あたりまえ」に。
4. 書誌情報
$${\textsf{\underline{\text{今回紹介した文献:}}}}$$
山根純佳・小宮友根・石川准、2024、「特集「多様性と包摂 diversity and inclusion」によせて」『社会学評論』第74巻第4号: p590-604。
$${\textsf{\underline{\text{本ページで引用・参照した文献:}}}}$$
Hacking, Ian, 2002, $${\textsf{\textit{Historical Ontology}}}$$, Cambridge, MA: Harvard University Press.(出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘訳、2012、『知の歴史学』岩波書店)
飯野由里子、2019、「「思いやり」を超えて――合理的配慮に関わるコンプライアンスの新たな理解」『現代思想 2019年10月号』第47巻第13号: p153-62。
三橋順子、2006、「往還するジェンダーと身体――トランスジェンダーを生きる」鷲田清一編『夢みる身体 身体をめぐるレッスン1』岩波書店、p53-80。
宮下萌・明戸隆浩、2023、「序論」宮下萌編『レイシャル・プロファイリング――警察による人種差別を問う』大月書店、p7-26。
朴沙羅、2024、「差異を見出す――植民地朝鮮における朝鮮人の識別と排除としての差別」『社会学評論』第74巻第4号: p605-22。
下地ローレンス吉孝、2023、「「ハーフ」「ミックス」の人々とレイシャル・プロファイリング」宮下萌編『レイシャル・プロファイリング――警察による人種差別を問う』大月書店、p237-60。
鶴田幸恵、2017、「水と油を乳化する――性同一性障害とトランスジェンダーの対立を無効化する実践」『社会学年報』第46号: p17-31。
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