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廃墟からの視程 | 『揺れる水のカノン』金川宏
1993年の冬、私は第三歌集出版を目論んで書き溜めていた三百首余りの未発表作品を、半ば投げ捨てるように散文とも自由詩ともつかない破片に完膚なきまで解体したうえ、「廃墟」と名付けた一冊のノートに書きとどめ、抽斗の奥深く仕舞った。一昨年の暮、私は抽斗の底から件のノート「廃墟」を引っ張り出していた。ノートのなかの言葉は、二十数年を経て黴や苔に蝕まれてはいたが、不思議ななつかしさを湛え、密やかに息づいていた。それらは揺れる水のうえで微かに響き合った。最初の一行が生まれた。そして私は、歌い始めた。
フリーペーパーで死を歌う寡作の人
本作は、第一歌集『火の麒麟』、第二歌集『天球図譜』から30年の沈黙の後に出版された、短歌と詩が織り交ぜられた作品集だ。第三歌集のための未発表作品を「廃墟」と名付けられたノートに書きとめていたものを、20数年の時を経て紐解き、ひとつの作品集にまとめあげたという。
第一・第二歌集も知らなければ作者の名前も聞いたことがなかった私が金川のことを知ったのは、2023年1月に閉店した某書店に置かれていた一冊のフリーペーパーを読んだときだ。冊子の名前は忘れてしまったが、短歌が主で、エッセイなども含まれていたとは思う。おそらく書肆侃侃房か左右社の手によるもので、そこで金川の作品に触れた。当時の日記(2022年2月19日)に、作品と作者の名前を控えていた。
死はまず言葉を断ちてみづのなかに枯葉のやうなこゑを繁らす
夕闇へ手を差し入れて汲み上げる南無観世音父の臓物
一首目、死人に口なしという慣用表現の構造に分け入るような作品。死者は話すことはできないけれどもその心中にただならぬものを抱えており、絶えず何かを喋っているのだが、それは枯葉色をしていて、当人にとってもノイズにしか聞こえない。二首目、おそらく荼毘に付されて実体のなくなった父の臓物は、白昼に商業音楽を聞いていても汲み上げることができない。直接目に映るものを見て悲しいだとか寂しいだとかを言うのではなく、その事実の惹起するものを見通してイメージを作り出していく詩法を持つ作家として、強く印象に残った。
主題に死を据える短歌は、斎藤茂吉「死にたまふ母」など珍しくないが、そのフリーペーパー全体の雰囲気の中では明らかに異彩を放っており(記憶が確かではないが、金川と比較すると直情的・諧謔的な作風である鈴木晴香や木下龍也なども寄稿していたように思う)、記憶に残った。そこで作者紹介において近著として掲載されていた『揺れる水のカノン』を、時を隔てること2年、ようやく通読する機会を得た。
「廃墟」よりの幻視
著者が20数年の時を経て再び短歌を作ろうとしたきっかけは何だったのか。「あとがき」で語られているとおり、60代にさしかかったある夏のこと、高校時代の友人から突然手紙が届き、その中には自作の短歌12首が添えられていた。それに感想を書いて返信したところ、再びその友人から短歌の便りが届いた。そうしたやりとりの後に、金川は再び作歌を始めるため、抽斗の奥底にある「廃墟」と名付けたノートを取り出す。友人とのやりとりがきっかけだ。
しかし、直接の原因はそうかもしれないが、突然の友人からの手紙が届いたのにも、なにか理由があるだろう。あとがきにあるように、2018年1月時点で、65年間和歌山に在住し、43年間務めた会社で定年を迎えるという時期的な問題も理由もあるかもしれない。作中に定年を歌うものもある。ただ、詩と短歌の間の時系的関係が明かされていないため、単なる推測に過ぎないが、作者は友人からの手紙を受け取る少し前に、ごく親しい間柄の対象を喪失した経験を持っているように思う。たとえば、以下のような歌がある。
風の記譜終へしあなたの黒髪に夕暮れの雲つながりやまず
花花しき遺骸よおまへ雪の岸にうちあげられて誰の声待つ
たましひがここを去るまで眼をひらきこの世のきみをみておくことの
かつてフリーペーパーで見た金川から地続きの短歌だ。やはり中心には「おまへ」や「きみ」の喪失があり、それを基にイメージを膨らませている。常にそれらの対象はこの世において最期を迎えている。作歌の直接の契機は友人の手紙かもしれないが、やはりなにか喪失の体験があったと考えられる。そして、そうした時こそ金川の視線は詩情への鋭さを持つ。
喪失の体験の後に到来するのは、失った対象への回顧だ。
ほとほとに夜の時間さびし砂の上の卵をめぐる砂男われ
うちそよぐ月の辺の雲さびしかり憧憬事もほのか過ぎゆく
しかし、眼前に存在しないものを認知しようとする回顧には、常に限界がつきまとう。既に文脈を失いつつある「廃墟」をとおしてしか見ることのできない地平を見晴かす金川は、自らの死による終焉も含めて、絶えず果てや忘却を意識している。
記憶中枢に欝然と夜の白雲 世界全くほろびしのちも
うづめゆくはるなつあきふゆその果てに墓あり永遠の風にふかれて
果てしなきわが水の旅ふかき夜をほたるび草に溺れてねむれ
きみとよべばほろほろほろとこぼれゆく海風よその破片を運べ
ゆくへなき秋のはたてにひるがへるきみありし日の銀のうろくづ
当然といえば当然だ。短歌を解体して書きとめたのは20数年前のことであり、喪失した対象を蘇らせるにしても、当人との間で共有されていたコンテクストは古び、記憶は薄れてしまう。とはいえ、過去の自分が残したノートしか頼れるものがない。そうであればこそ、金川は見えないものに目を凝らし(時には閉ざし)ながら歌い続ける。
失ったものについて歌う上で、もの自体ではなく、「廃墟」に残された文脈を失った語彙から想起されるものによって対象へとアプローチするという方法において、特に心惹かれた歌がある。
たれのゆめのきりぎしひとり藻はゆらぎゆらぎてはるかきみへなだれつ
とぴぷるるさへづるみづのうすあかり目瞑りて聴く蝶のはばたき
一首目は、非常に幻想性が強い。きりぎし(切岸)は人工的に山地を削った斜面のことであり、本来、藻が揺らぐような場所(つまり水中)にはなく、人為的なものが滅びた後の世界(廃墟)を示唆しているように思う。しかもそれは、誰のものかも判然としない夢の中であり、水中の藻のゆらぎを追っていった先に、「きみ」がいる。「廃墟」と「きみ」をモチーフに、水が持つ豊穣なイメージを最大限まで膨らませた、本書のテーマが収斂された作品のように思う。
二首目は感覚に訴える作品で、視覚、聴覚、触覚に心地よい。水や蝶のはばたきに寄せる親密さが何に向けられたものかは、作品全体を考慮すれば明らかだろう。喪失の後、目を瞑ることでしか触れ得ないものへの憧憬、そして、触れることができないものと交渉を持つ方法としての積極的沈黙と読んだ。
再び逢わしむるもの
フリーペーパーで一読したときに感じた死への親密さは、本作品でも一貫しており、金川の作品を特徴づけているように思う。その考えは今も変わらない。
しかし、歌集全体を読み終えたときに、悲しみや絶望感などに苛まれるかというと、決してそうではない。これが金川の内心の吐露という形で一つの作品になっているのであれば、そうした読後感もあり得ただろう。ところが、金川の生活の中に絶えず根差し続けたのだろう詩的な感覚が、時を経た今も、喪失感を単なる喪失感に押し止めるのではなく、むしろ伸びやかなものにしている。金川の歌には閉塞感と呼べるものがまったくない。悲しみを介して幻想の中に隔てられた対象に接近しようとする指先の、なんとしなやかなことだろう。その力強さに、若松英輔『生きる哲学』に引かれていた、柳宗悦の文章を思い出す。
おお、悲みよ、吾れ等にふりかかりし淋しさよ、今にして私はその意味を解き得たのである。おお、悲みよ、汝がなかったなら、こうも私は妹を想わないであろう。悲みに於て妹に逢い得るならば、せめても私は悲みを傍ら近くに呼ぼう。悲みこそは愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾れに燃やすものが何処にあろう。悲みのみが悲みを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒やしてくれる。涙よ、尊き涙よ、吾れ御身に感謝す。吾れをして再び妹に逢わしむるものは御身の力である。
永字八法的な一首?
最後に、本文で触れることのできなかった作品を紹介したい。
風をよび樹をねむらせて八月のひとみを潜るみづの上の雲
とにかく、教科書的、優等生的、横綱相撲的というべきか、お手本のような短歌だ。表現や着想、構成の上で、なるほどこういうものが上手な短歌なのだなと妙な説得力がある。順を追って説明する。
まず、表現の上ですぐに目につくのが比喩だ。「樹をねむらせ」るというのはつまり、「雲」の影が樹を覆ったということだろう。「八月のひとみ」は「みづの上の雲」の解釈に依るだろうが、水上を行く「雲」を言うのであれば、それが潜るものは太陽しかない。直喩だけではない。「風をよび樹をねむらせる」ものが「雲」だとすれば、ここには二重に擬人法がある(「雲」は「風をよ」ぶわけでもなく「樹をねむらせ」るわけでもないし、「樹はねむら」ない)。
また、着想の上では、「雲」が「風をよ」ぶというのが、非常に詩的な着眼だ。「風」という目に見えないもの、実体がなく他のものへの働きかけという形でしか表象しない消極的な存在を、雲が押されて移動するという事象の中に見出すという発想は、本書における「廃墟」をとおして現出する「きみ」とつながっているように思う。
そして構成は、これぞ短歌的というもので、少ない言葉の中で直接言及をせずに雰囲気を描き出す(「八月」という言葉によって、「雲」は単なる雲ではなく積乱雲の形を取る。そこに「みづ」を添えるとぐっと夏らしくなる)、解釈の余地を残す(先ほど触れた「八月のひとみ」を太陽と捉えず、たとえば夏休みの子供の無邪気な瞳を想定してもよい。大きな入道雲が川に反射しているのを桟橋から見ているのだろうか。日に灼けた子供を観察している歌となる)、時間の流れを表現する(「風をよび」は雲の移動を示しているし、太陽を潜った後に水の上に留まる雲の間にもダイナミックな時間の動きがある)など、実作の上で参考になる要素てんこ盛りの永字八法のような作品だ。
反省点
非常に楽しく読めた歌集だが、感傷的に傾きすぎた恣意的な読解(非常にメロドラマ的なコードだ)になってしまったきらいがある。最新作の『アステリズム』を読めば、また新たな感慨も湧いてくるかもしれない。近く、また触れたい。