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選んだ道を正解にする

高校1.2年生の頃、僕は人生のどん底にいた。

彼女と別れた、親が離婚した、新卒の仕事で病んだ、公園でポケモンをやっていたら友達のサッカーボールが激突してきてDSが粉砕されたなど…
二十数年の人生でも大小様々な辛いことがあったが、高校生のあの頃は中でも最も辛く暗闇にいた時期だった。

この記事では、そんな人生の暗黒期にあった僕が元の高校を辞めて通信制高校に転学し、もう一度笑顔になるまでの道のりについてまとめます。

1年目

僕は地元の商業高校に入学した。

A〜Eでランク付けするならC+かB-くらい、進学校ではないが就職率が高く、部活動が盛んでどの部も強い上、小中の友達もたくさんいる。

合格発表の日に中学の担任の先生とハイタッチをした記憶もあるし、周りも「頑張ったね!」と言ってくれる程度の学校ではあったので、胸を張って入学できた。

4月のうちは小学校時代の友達との再会を楽しんだり、席の近い初めましての子と友達になったりして、個人的には順調な滑り出しだった。

しかし、5月まで時間が進んだある日「あれ…?」と妙な不安感を覚えた。

部活が始まったあたりから段々と友達グループが固定化してきて、みんなが"合うヤツ"と"そうでもないヤツ"の選別をし始めたのだ(もう選別後だったのかもしれない)。

最初はクラスの男子全員で机を並べて食べていた昼食も、ある時2グループに分かれ、気付けば4.5グループにまで細かく分かれていた。

そんな中で僕は人見知りな性格が災いして、この時点でガッチリと固まった交友関係を持てていなかった。

お弁当は僕と同じような大人しめの男子2人と3人で食べていたが、その2人が揃ってバドミントン部へ入部、テニス部に入部した僕とは少しずつ距離ができて、一度も2人の会話に入れないままご飯を食べ終えてしまうこともあった。

その空気に耐え切れず、ある日僕の方から2人のもとに行かなくなり、いわゆるぼっち飯をやるようになった。

こちらが1人で良いやと割り切っていても、高校生になるとみんな変に自分の
ポジションを意識し始めて、陰キャと陽キャの区別を付けたがったりする。

そんな環境下でぼっち飯をしていると、一瞬で「友達がいない陰キャ」認定を食らう。

僕の学校ではそういった同調圧力の風潮が特に酷く、男子ですら移動教室やトイレは2人以上で行くのが普通、連れを付ける能力が無い奴には人権が無かった。

本当にくだらない風潮なのだが、当時の高校という世界においてはこれが世論であり、これに順応できないやつが淘汰されていく。

2年目

そんな生活を1年続けていると、いじめに近い行為に見舞われたりもして、どんどん僕の気持ちは沈んでいき、2年生の2週目から登校拒否を始めた。

初週は「クラス替えでメンツが変わればもしかしたら…」と思って登校したのだが、僕に対する陰キャ認定は学年全体に波及していたのだ…(泣)

「これはもう無理だ」と判断した僕は、2週目の月曜日、いつも通り登校するふりをして家を出てしばらく物陰に隠れ、親が仕事に行ったのを確認してから家の中に戻った。

そして、無断欠席の罪悪感とこれからの人生に対する不安を感じながら、ソファに倒れ込んで死んだ目で天井を眺めていた。

天気の良い日だったのに、部屋の中が異常に暗く感じた。

昼には学校から親の携帯に連絡が行って無断欠席がバレ、昼休みに母親が血相を変えて家に帰ってきた。

「あんたどうしたん?!」
「いや・・・実は・・・・・この1年さ・・・・・・・・・・・・」

1年生の間は学校での状況をひた隠しにしてきた僕だったが、ここでようやくこれまでの全てを打ち明けた。

同時に、もう学校には行きたくないと思っていることも伝えた。

まぁ当然そんなワガママが容認されるわけもなく、担任の先生にも出席日数と留年の危険性などを諭され、ひとまず別室登校をすることになった。

最初は使っていない会議室や事務室に入らせてもらっていたが、最終的には保健室登校をすることに。

保健室の隅に机と椅子を置いて勉強スペースを作ってもらい、そこを病室のようにカーテンで仕切って、部屋に入ってきた他の人や廊下からは僕が見えないようにしてもらっていた。

ありがたいが、申し訳ない気持ちと罪悪感でいっぱいだった…。

他の子が保健室に入ってくるたびに「カーテンめくられないかな…」「早く出てってくれよ…」とビクビクしていた。

放課後になると同時に、僕は他の子にすれ違わないように早足で部室へ向かう。

そう…変な話だが、授業はボイコットしつつ部活動は続けていた。

登校拒否宣言をした時はもちろん部活も辞めるつもりでいたが、テニス部の同級生とは馴染めていたし、テニス自体は好きだったので続けることができた。

先輩・後輩ともに僕の事情をうっすら把握していたようだが、特に触れることなくフラットに接してくれていた。

顧問の先生も何度か僕の自宅にまで来て話を聞きに来てくれたりと、本当にテニス部のメンバーには助けてもらった…感謝してもしきれない。

また、定期試験の時には教室で試験を受けていた。

これも最初は断固拒否していたが、別室で受けると点数が八掛けになってしまうということで非常に勿体ないので、身体を少し震わせながら教室に顔を出していた。

「テスト受けて部活にも出れるなら教室復帰できるんじゃ?」と言われてしまいそうだが、いつしか教室に行くと手がプルプルと震えるようになり、その身体の反応を自覚してなおさら教室に行くのが怖くなっていた。

教室に行った日は短い時間でもどっと身体が疲れてしまうし、いつまでも現状を変えられない自分に嫌気が差して、ベランダや歩道橋から飛び降りようかと考えたり、自◯の方法を検索したこともあった。

そんなこんなで保健室登校を続けていたある日、保健室の先生からスクールカウンセリングという制度を紹介してもらった。

非常勤のスクールカウンセラーの先生が毎週火曜日に来るので、希望すれば1コマ30分のカウンセリングを受けられるとのこと。

自分自身、現状を打破したいという気持ちはあったので、藁にもすがる気持ちでカウンセリングを受けることにした。

放課後、部活が始まる前の30分ほどのスキマ時間に予約を入れてカウンセリングルームへ。

そこで、スクールカウンセラーのS先生に出会う。

S先生は陽気なおばさんという感じで、フランクに接してくださったので気付けば緊張がほぐれて話しやすい関係になった。

カウンセリングと言っても堅苦しいものではなく、今日何があったのか、この前の試合はどうだったのか、最近何か映画を見たか、そのような質問を混じえた雑談をするのがメイン。

9割の時間を雑談に費やし、最後に少しだけ教室への復帰やこれからどうしたいかについて話し、僕の気持ちを確認してもらっていた。

3年目

S先生のおかげもあって、2年後期には授業に復帰できた時期もあったが、3年のクラス替えでまた気持ちがリセットされ、1年前と同じ別室登校をしていた。

そんな3年次のある日、僕はS先生に大きな"選択肢"をもらう。

「県内にいくつか通信制の高校があるんだけど知ってる?」

中退して働くか、いっそのこと自◯してしまうかという極端な考えしか持てていなかった当時の僕にとって、この選択肢は視界をパッと広げてくれる救いそのものだった。

この選択肢を前にして、僕は2つの未来を想像した。

  • A.通信制に移って心機一転、前を向いて頑張る自分

  • B.足を引きずって教室復帰、下を向いたまま今の高校で卒業を目指す自分

通信制に行けば、自分の行動次第でAの自分になれる。

S先生と何度か話し合い、県内に通信制が何校あるのか、各校にどのような特色があるのかなどを聞き、今後少しずつ転学先の候補を絞っていくことにした。

しかし、帰宅して家族に通信制の話をすると猛反対された。

世間的に"通信制=レールを外れる"というイメージがどうしてもあるし、今の高校で教室復帰できるならそれが最善、というのが家族の意見だった。

だが、上記2つの未来を示した上で僕は折れずに説得を続けた。

家族と僕の説得VS説得の話し合いは、何日にも渡って毎晩のように続いた。

母も僕もうつむき、時にはお互い一言も話さないまま何時間もソファに座るだけ。

あの日々は21時〜0時までの3時間が永遠のように長く感じられた。

それでも譲らずに説得を続けていると、僕が折れないことを察してか、やがて家族は僕の意思を尊重してくれるようになった。

そして、ついに通信制に転学することを認めてもらうことができた。

家族に認めてもらえたことを先生方にも伝えて皆で話し合った結果、僕は隣町にあるM高校の通信制に転学することを決めた。

学校にもよるそうなのだが、僕が転学したM学校はこれまで全日制で取得してきた単位をそのまま持って転学できるとのこと。

なので、転学後に卒業に必要な残りの単位を取りさえすれば、留年せずに3年目で卒業することができる。

転学の準備は早い段階で完了したが、テニス部の最後の夏の大会が6月に控えていたので、大会終了をもってM高校に転学した。

僕はM高校に転学するにあたって、心の中で一つ、固い決意をしていた。

それは、先述"A"の自分になるべく、過去の自分を引きずらないことだ。

確かに通信制は全日制に比べると、学歴の面で不利になることがあるかもしれない。

しかし、僕はそんなことよりも、精神的に下を向いたまま時間を過ごしていくことの方が何倍も怖かった。

通信制か全日制の選択は重要ではなく、より自分が前を向いて笑顔になる為に通信制を選んだのだから、この道を正解にできるように行動しようと考えた。

M高校の通信制では登校日は月2回(第2・第4日曜)のみ。

生徒それぞれで卒業に必要な単位が異なるので、クラスが定められているわけでもなく、自分が必要な単位が取れる授業を行っている教室に行って授業を受ける大学スタイル。

バリアを張っている雰囲気の人が多いし、固定のクラスも無い、年齢もバラバラということで友達を作るのは困難かと思われたが、僕は幸運にも初めての授業で友達ができた。

僕と同い年で同じ6月入学、転学理由も似た男の子(T君)と席が隣になったので話してみたところ意気投合したのだ。

おかげで、以後はT君と共に授業を受けたりお弁当を食べることができ、登校日を迎えるのが楽しみになっていた。

全日制の時には感じたことの無い気持ちだった。

通信制に移ってからはアルバイトを始めたり、好きなバンドのライブに初めて行ってみたりと、学校以外の場所にもたくさんのコミュニティを持った。

アルバイト先ではプライベートでもご飯に行く先輩と出会えたし、ライブは今でも一番の趣味になっている。

僕の場合は通信制高校自体も楽しめたが、学校以外にも自分の居場所を作ることはできるのだと学んだ。

卒業

そうやって充実した時間を過ごしていると、あっという間に高校卒業の時期がやってきた。

母や姉と朝から玄関先で写真を撮り、担任の先生にも挨拶をして、とても満ち足りた気持ちで卒業式を終えることができた。

T君は僕の一年後に卒業を迎えるとのことで、卒業当日には会えなかったがLINEで連絡を取った。

そして、卒業式後に僕は全日制高校時代のテニス部メンバーにもグループLINEでメッセージを送った。

卒業式の日程が違ったので直接会うことはできなかったが、お互いに卒業を祝い合うことができて涙が出た。

さらに、当時の担任の先生、テニス部顧問の先生、スクールカウンセラーのS先生には直接ご挨拶をしようと、卒業式を終えたその足でかつての全日制高校へ向かった。

学校に着いて車を降りると、当時僕たちの学年主任を務めていた野球部顧問のK先生に会い、少しお話することができた。

無事卒業できた旨と感謝の言葉を伝えると、K先生は祝福してくれると共に
「お前、よく笑うようになったやんか!」
と言ってくださった。

今でもその瞬間を鮮明に覚えている、何よりも嬉しい言葉だった。

他の先生方にも無事にご挨拶でき、大学への展望などをお伝えしたり、通信制での出来事を話したりと、とても幸福な時間を過ごすことができた。

帰宅して母親にも感謝を伝えつつ「色々あったね〜」なんて話していると、母にも「笑顔が増えたよね」と言ってもらえた。

自覚はあまり無かったが、自然とあの頃よりもよく笑うようになっていたらしい。

この道を選択した一番の成果だったと思う。

まとめ

その後の人生でも色々なことがあったし、あっちに行ったりこっちに行ったりと不安定な僕だが、今は自分の人生がとても楽しい。

人生は選択の連続だと言われるし、これからの人生でも僕の前にはたくさんの選択が立ちはだかることだろう。

もしかしたら、時には自分が望む"A"の道に、思うように進めないこともあるかもしれない。

しかし、重要なのはAとBのどちらを選んだかではないと思う。

通信制に転学することは"逃げ"の選択にもなりうるし、当時の僕の選択にも逃げの側面はあった。

転学してから人と関わることを避け、新たなコミュニティに向かうことも恐れていたら、僕の選択は恐らく"間違い"になっていただろう。

だが、周りの支えもあってポジティブな行動を取ることができたので、結果的にこの道はとても楽しいものになった。

「どちらに進めば良いんだ…」「こっちに進んで上手くいかなかったらどうしよう…」と怖くなることはあるが、真剣に悩んだ末に下した決断なら、その道はきっと正解になりうる。

本当に大事なのは、選んだ道の先でどのような行動をするかだ。

僕はこれからも、分岐点に立った時は自分の心にまっすぐに従って進んでいこうと思う。

選んだ道を正解にする為に四苦八苦するのは、きっと楽しく面白いはずだ。

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