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Dialogue_vol1|はるか遠い未来を思いやり、今を生きるとは

本記事は元記事からアカウントの統合・整理のため転載しております。

先日Deep Care Lab主催の初イベント、Deep Care Dialogueの第一弾を実施しました。

はじめてのイベントに参加する人なんかいるのか...とどきどきでしたが、小さく試しにやってみようと人数も小規模で試しにやってみました。

いまのわたしたちは、日々の忙しさや目の前の必要性に追われて、不安でままならないような、大変な社会に生きています。だから、本当に重要なことへ想像をめぐらし、分かち合うような場が足りていない、そう感じます。Deep Care Dialogueは「いまここ」の外側にひろがる豊かさに想像を馳せるための窓のような場にしたい、という経緯ではじめました。

実際に、当日あつまってくださった方も、会社や大学ではたらくなかで、自分ばかりに向く視点の枠組みを外したい、というもやもやをもっている方も見受けられました。

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その第一回は、はるか遠い未来を思いやり、今を生きるとは?という問いをもとに、未来や未来世代のケアをテーマに設定しました。

ネイティブアメリカンは7代先の子孫のことを考えて意思決定していたと言います。目先のわたしだけの欲望に従うだけでなく、わたしたちの子供、孫、それより遠い子孫のことを考えて未来を紡いでいく。
長期的な思考や想像力をもって、未来をケアする。
そんな生き方を、わたしたちもできないものでしょうか。
でも、未来をケアした生き方ってどんな生き方だろう?
ーイベント開催文より

チェックインから入り、次に僭越ながらわたしからのインスピレーショントークとして、

・なぜこのテーマに至ったのか
・短期的な考えに落ちいている現代のあり方
・なぜ未来世代を思いやることが必要か
・未来をケアするためのヒントや先進事例

などなどを、まずお話しました。

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当日のスライドの一部

それを受けて、ふたつのグループにわかれておしゃべりを開始します。以下、その話の中で浮かび上がってきた重要なお話を少しだけ、共有します。

過去にもどる、ではなく、受け止めて先へすすむ

参加者のひとりは、「自然という幻想」を引いて、こんなことをお話ししてくれました。

未来世代に禍根を残さないと考えたときに、人間が自然に対してもう手を下さない、大昔のような狩猟採集民的な自然の一部の中で生きていく生き方が美しいのではないか、という考え方があるが、実は数多くの先住民族もアイヌも、江戸時代の人々も自然を大きく破壊して生きてきた。なので、元に戻ることを理想とするのではなく、積み重ねてきた歴史や自然と人間の営みすべてをひっくるめて互いに影響しあっていることを自覚して何ができるか考え、継いでいく必要がある

近代化や経済成長のため、現代のわたしたちはむかしはよかったのではないか、という自然幻想をもってしまいがちです。しかし、実は過去の祖先たちも、自然と生きているようにみえる先住民も、これまで自然への暴力をおこなってきたとのことです。

つまり、「もどるべき過去」などないのだ、という話です。だからこそ、過去をユートピアにして嘆くのではなく、これまでしてきたこと・歴史に向き合って、人間の暴力性をみとめ、そこから自ずとわいてくる気持ちをもとに、今をいきる必要があるのではないか。というお話しでした。

これを受けて、過去を受け止めてこそはじめて「責任」を背負うことができるのではないか、と思いました。ここでいう責任は、応答する能力(Response-ability)という意味ですが、「責任」の生成では、わたしたちは責任をもつというよりは、責任を抱くように成るのだ(Becoming responsible)とあります。この、過去を知っていくプロセスがわきたつ責任をうみ、現状に対して・自分の生活のあり方に対して、未来の世代に対して、応答していくのだろうか、と思いました。

ケアとはtheyではなく、you。生々しい"あなた性"の想像

参加者であったデザイン研究者の上平先生は、こんな記事をかいています。

当日も、デザインとケアの違いについて、ケアとは拡散できる第三者に対してではなくて、「生身のあなた」に対してではないか、とお話をしていました。

その後、ぼくがファシリテーションをつとめたおしゃべりグループでは、6世代をさかのぼり家系図をつくった方が、

会ったことのない祖先なのに、バイネームになった瞬間、ありありと意識するようになった

とお話をしていました。また、昨年、姪っ子ができてから「その子が100歳生きるとしたら2120年が身近になった」というぼくの体験談や、自分より歳のはなれた弟のほうが大事だとおもう時がある、という経験がシェアされたり。

つまり、具体性をともなう「あなた」が意識できることが、とても重要なのでしょう。そういえば、と思いました。ぼくは過去の実験で、微生物に感謝の手紙を書いてみたり、未来の子供達から手紙がとどくワークを行ったり、イオマンテワークショップでもモノや道具に手紙を充てたりしていました。これが非常に効果的だったのですが、これは宛先があることで、「あなた性」が立ち現れるからなのでしょう。

これを応用すれば、身近な他者だけでなく一見は遠くみられたいのちも生々しい"あなた"になり、「いまここ」のわたしと「いまでもない、ここでもない」いのちとのあいだに線が結ばれるのではないか、とDeep Care Labにとって大きなヒントになりました (じつはこういうヒントを得るのが、このイベントの趣旨なのです。喜んでもらえて自分も学べる、すばらしい)。

すでにある関係を再発見すること

また、何かに「関わりをもつ」ことが大事なのでは、という話もでてきました。例えば、土地への愛着。それは、その地域に深く関わってきたことに由来します。一方で、新しく関わりをつくるというより、「すでに関わっていることに気づく」という、関係性の再発見がだいじなのでは、とおしゃべりを通して感じました。

じつは、ぼくたちはすでにいろんなものに深く関わっていて、でも、そうでないように見過ごしていることが、どれだけ多いことか。イオマンテ・ワークショップで起こったのは、まさにこの関係の再発見でした。身の回りにある道具も、何気なく使っているのだけど、それに支えられているという関係が見出されれば、そのモノへのまなざしは変わってきます。

また、「ケアされている」原体験が重要ではないかという話もありました。しかしこれも、個人的にはすでに多様なケアを受けていることに気付けるかが、重要ではないかとおもうのです。贈与と言い換えてもいいかもしれません。母親からは生まれてすぐに母乳を与えられるというケアであり贈与を受けています。すでに、あらゆるケア関係の中にいるのだと、見つめ直す機会が、想像力が、必要なのかもしれません。

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参加者のみなさま

今回、人生はじめておしゃべりイベント?なるものをやってみたのですが、ぼく自身ファシリテーションと参加者の中間のような立ち位置でゆるやかにおしゃべりできたのは、とても楽しかったです。やはり、こういうことに想像をめぐらす場は社会に必要なのです。はじめてということもあり、人数を絞らせていただきましたが、もし興味を持っていただけたら今後ぜひご参加ください!次回は「継承や遺産」をテーマに4月末の開催を予定しています。


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