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【Weのがっこうレポート】モジュール1_わたしたちと自然・いきもの:他種に生かされて巡る生きもの 共生圏としてのわたしと自然を考える(ゲスト・大小島真木さん)

前回(2021/10/15)は、身近にある「他種」について考え、人間の行いが他種を阻んでいないか?という視点でオンラインワークショップを行いました。

それを経て今回は、モジュール1「わたしたちと自然・いきもの」対話の回として、ゲストに現代美術家の大小島真木さんをお迎えします。大小島さんの作品の制作過程と、その源にある体験を伺いながら、人間と他種のあいだにあるもの、かかわりあいについて考えていきたいと思います。

大小島真木(おおこじま まき)さん
現代美術家。異なるものたちの環世界、その「あいだ」にたち、絡まり合う生と死の諸相を描くことを追求している。インド、ポーランド、中国、メキシコ、フランスなどで滞在制作。2017年には海洋調査船タラ号のプロジェクトに参加。プラネタリウム、学校や神社、海外での展示やプロジェクトに関わるなど、多様なフォールドでアート活動を展開。
ホームページ: http://www.ohkojima.com/top.htm

※ 当記事内のすべての絵・画像の転載はご遠慮ください。


2枚の写真(生きている自然、共生する人間)

まずはじめに、大小島さんは1枚の写真を見せてくれました。

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インドのメガラヤ州で出会った、大きなゴムの木。生きた根が、川の上を橋のように渡っています。人間が、ちょっとずつ手を加え、這わせていって、ゴムの木の根を橋のようにしていったというのです。木は生きていて、人間もこの木に助けられて生きている。この風景は、人間と自然との目指すべき関係性のひとつのかたちなのではないか、と話してくださいました。

そして、もう一枚。

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割れたアスファルトを押しのけて、植物が新しい芽を出している様子。東日本大震災の直後のボランティアに参加した時に見つけたものだといいます。

人間が区画して整理したアスファルトの下には土があり、植物たちはただ生命力にしたがい、育っていきます。人間が勝手に決めた区切りも、彼らには関係ありません。小さな植物がただ生きようとするエネルギーへ、畏敬の念が溢れたと教えてくださいました。

人間は、人間以外の生き物たちから独立して生きていくことはできません。人間は他種と共にあり、一部を使わせてもらい、生かしてもらっているのだと思います。しかし、そのことを忘れがちになり、いまだに環境破壊を食い止められないいま、人間は自然をどう捉え、また自然にどう捉えてもらうのか。循環とはどういうことなのか。この問いに軸を置きながら、大小島さんの作品の源について、それぞれの体験を振り返りながらお話ししていただきました。


屋久島の森のまなざし

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大学時代、ひとり屋久島へ行き、森を歩いていた大小島さん。道を見失ってしまって少しずつ暗くなる森の中で、周りに茂る大きな木たちの存在におそれを抱き、「木々や周りの生き物たちが、こちらを見ている」と感じたと言います。もし自分がここで死んだら、肉体はここで朽ちて、森に食べられていくだろう、と。そのときの感覚を、大小島さんはいくつかのドローイングに落とし込みました。ある生き物が死んで、森に食べられていくようすと、食べられて骸になったあとも、そこから何かが発芽していく、その過程の美しいイメージたち。亡骸からもまた、新しい生命がめぐり、芽吹いていきます。この作品を通して、「他種に食べられる」ということを強くイメージしたとお話してくれました。(掲載しているのは、ドローイングのごく一部です。)

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「鳥よ、僕の骨で大地の歌を鳴らして。」 ラダックの大地のまなざし

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続いて、インドの北部、ラダック地方に行ったときのお話。ここはチベット仏教信仰が息づく、標高5000mの世界。降水量は非常に少なく乾燥した土地で、人は雪解け水を使って生活していますが、植物は育ちません。この乾いたむき出しの大地にも、大小島さんは「見られている」感覚があったといいます。環境が、人間たちを見ている。
ここは「鳥葬」の文化圏でした。空がすぐそこにあって、大きな鳥も近くを飛んでいるような環境です。人が死んだら、肉体は大地に置かれ、そのまま鳥についばまれていきます。人間が「他種に食べられる」関係性が、ある意味必然にも思えた場所でした。
このときの経験が、2015年「鳥よ、僕の骨で大地の歌を鳴らして。」という制作・個展につながっていったといいます。

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「自分が動かされるような、その感触を、わからないことを、考えたいことを、どうやったら作品に持ち込めるだろうかと、作品を作ることで考えていっています」


続いて、民族の文化に根付く「循環」の感覚、あるいは人間の世界の外にある「循環」についての体験について教えていただきました。

Baby Tree 亡くなった赤子の木のお墓

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インドネシア・アルクトドロ族との出会いの中で、「Baby Tree」という木のお墓の文化を知りました。これは、乳歯が生える前に亡くなってしまった赤子の遺体を大きな木の幹をくり抜いたところに納める葬法です。木には、いくつもの穴が上下左右に空いており、木そのものは生き続けています。人間の死んだ肉体が、他種の中に宿り、一緒に生きて、一緒に朽ちて、大地に還っていく。アルクトドロ族の死生観、生命の循環に対する感じ方、自然観がここにあわられていると言えます。

しかしこの地域の宗教も、一部はアルクトドロ教からキリスト教へと変わってきてしまっていると言います。宗教の変化は、一概には言えませんが、死生観や自然観の変化だと言えるでしょう。BabyTreeの文化も、宗教の変化にともなってなくなっていってしまうかもしれません。


Tara号から見た白い鯨の遺体

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もうひとつ、「死」との大きな出会いがありました。2017年、アーティスト・イン・レジデンスの一環でフランスの海洋探査船のTara号へ乗船中、大小島さんは海に浮かんだ鯨の死体に遭遇します。表皮が溶けて、身体の脂肪があらわになって、海に浮かんだ白い鯨。周りの鳥たちや、サメや、いろんな生き物が、その大きな躯体をついばんで食べていました。

「そのようすは衝撃的で、白い鯨の遺体が神様のように見えた」「海は、生命のスープみたいだと感じました」

死んだ鯨と、それによって生かされるあらゆる生命たち。この経験から、お大小島さんは2018年から2019年にかけて、鯨の目/Eye of Whale というシリーズを制作されました。


ゴレムとウェヌス Golem and Venus

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人間の体に焦点を当てた作品について。人間の体とは、私たちの身体は私たちだけのものではありません。私たちの身体には、皮膚ではない、別の境界線があるのではないか。私たちが食べるものも道具も、私たちを生かしている他の生き物も、自分の身体の拡張だと捉えていきます。

humanの語源は、「humus(土・腐植土)」。私たちはhumusでできている。これにすごく腑に落ちる感触があったといいます。あらゆる生きものが、生きて死んで分解されてきた寄せ集め=土で、人間の体ができている。その体にも、たくさんの生きものが住み着いている。「身体」を一つの独立した存在としてではなく、「共生圏」としてイメージすることが、このゴレムには落とし込まれています。


ケアcareとセキュアsecure  ケアするということについて

2021年に発表された最新の作品「綻びの螺旋 Perforated Spiral」は、パンデミックやアマビエからも着想を得ています。ここで大小島さんが考えていたのは、「ケア」するということについて、だと教えてくれました。

「care」の語源には「karo」(悲しみ)、や「curare」(世話をする、痛みを伴う治癒、心配、悲しみ、介護、保護など)という言葉があります。つまり「ケア」という言葉には、「他者の痛みを自分のものとして感じる」ことが含まれているのです。
私たちはパンデミック下において、他者と距離を取ることで自分たちを守ってきました。またパンデミック以前からも、自分と他者の距離をとって「security」=安全を保ってきたとも言えます。securityの語源は、se(否定の意味)+curareから来ています。自分以外と距離を保つことを「安全」としてきた価値観があるのです。

またこの作品には、大きな「手」のモチーフも含まれています。これは日本語の「手当て」に着想を得ています。「手当て」は、患部に直接手を当てて、他人の痛みや温度を感じて、寄り添うことがケアになる、という行為です。自分以外と距離を取りながら安全を保つ「secure」の価値観とは相反しています。

自らのからだやこころが痛みを伴いながらも、相手と分かち合いながら生きていくこと。これが「ケア」の核心だとするならば、白い鯨の遺体も、赤子の遺体を宿す大きな木も、鳥葬されて朽ちていく肉体も、存在そのものが「ケア」に満ちているのではないでしょうか。
大小島さんの作品たちの背景には、ただ生きようとする自然と人間の平等な関係性があったように思います。私たちは、与えたり与えられたり、共に生きたり死んだりしている。当たり前のように残酷な自然の世界で、それでも互いの「ケア」に満ちた在り方を、見つめなおすきっかけをいただきました。


ここから、参加者でチームに分かれ、感想や質問の共有に入ります。

参加者からの質問1

Q:大小島さんの作品を見て、祈りというキーワードが浮かび、自分自身の境界線がなくなっていくようなイメージだと感じました。大小島さんにとっての「祈り」という行為はどんなことですか。

大小島さんより
A:「祈り」みたいなものは、人間にとって必要なものだと思っています。人間は、個では生きられない。そのことを自覚する方法として、祈りがあるのでは。いのりという行為をj含めて宗教を大きく考えると、人間は宗教と切り離されて生きられるでしょうか?
生きていると、個では乗り越えられない悲しみや痛みがある。祈りを通じて、自分以外とつながることができると思う。神かもしれないし、周りの人かもしれない。祈りを通じたコミュニティみたいなものによって悲しみを乗り越えていけるなら、人間は祈りなしには生きられない存在なのではないでしょうか。

芸術のはじまりは芸術ではありません。芸術のはじまりは、生きるための、歌や祈りでした。例えば獲物をとらえたり、食物を得たり、喜んだり。生きていくための祈り。この祈りは、宗教を超えた、原始的ななにか。
もしかしたらいまは、「科学」が信仰された時代なんじゃないかと思う。科学は、ものごとや人々を、「secure」のように、分類し、区別し、認識しようとしている。名前を与えようとしている。科学そのものを否定しようとは思わない、なぜなら自分の生命をも否定することになりかねないから。でも、科学によって解明されたその先にも、未知のもの、未知の感触があるんじゃないかと思っている。

参加者からの質問2

人間以外をケアしていきたい気持ちと、自然をこわしてきた罪悪感、このギャップにどう折り合いをつけたらいいのでしょうか。(直視するとつらいし、ニヒリズムに陥りそう。)
また、作品を拝見して「境界線」というキーワードが心に残りました。境界を引くということと、あいまいにするということ、どんなバランスで考えてらっしゃるのでしょうか。

大小島さんより
A:まず境界線について。外の世界へ「開けっ放し」じゃ、だめだとおもっています。開けたり閉じたりしたい。人間と他種の境界線を、溶かすだけ溶かしたらいいというわけでもない。

わたしたちは、現実的に、自分の身体で生きるしかない。人間以上の存在=More than humanと境界線を溶かしながらも、また自分の境界線に戻ってくるというのがとても大事。人間の存在についても、肯定だけもできないし否定だけもできない。絡まり合ったり分離したりしながら、一緒に生きていくイメージが大事なのではないでしょうか。

人間の罪悪について考えると、ニヒリズムに陥ってしまうこともわかります。すごく複雑な問題。それでも私たちの肉体が生きているとはどういうことなのかを考えたいというか…。ピュアな生命と、人間の罪悪は混在していると思います。人間が減ったらいい、死んでしまえばいいというわけではないな、と思います。

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人間と他種とのかかわりあい、共生のかたちについてさまざまな作品と体験から考えさせられた今回。人間以上の存在=More than humanへのケアを考えると、どうしても、いまの人間の在り方を否定するしかないような気持ちになったり、突き詰めると八方塞がりのように思えたりします。
この問題はこれ以降の各モジュールでも共通した話題になっていくのですが、「境界線を溶かしたり離したりしながら」の姿勢と、「それでも生きている肉体がここにある」という事実が、通底する希望、覚悟のように思えました。


大小島真木さん、貴重な対話の時間をありがとうございました!

次回は、アイヌ民族文化から考える「わたしと人工物・モノ」のモジュールです。


書いた人:三浦真央子(みうらまおこ) Weのがっこう0期生。 @maokomiura

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