見出し画像

「死」・「死者」とともにあるってどういうこと?|インタビュー:若手僧侶団体ワカゾー

Deep Care Labがお届けする、未来や過去、動植物やモノ、垣根を超えたあらゆる「いのちのワンダー」をめぐるクリエイティブマガジン『WONDER』では、これからインタビューシリーズを開始します!
あらゆるいのちへの驚きや想像をめぐらせる気づきを得るために、創造的な実践・活動をされている方にお話を聞いていきます。

インタビュー企画の第1弾となる今回は、お寺で死についてカジュアルに語り合う「Death Cafe」の開催や、ゲームをしながら死について語り合える「死生観光トランプ」を作成・配布している若い僧侶の有志団体であるワカゾーの皆さんにお話を伺いました。

「死」をカジュアルに扱う活動や、通底にある仏教の考え方を通じて、「死」や「死者」とともにあるとはどういうことなのか、皆さんと一緒にのぞいてみたいと思います!

今回のインタビューのお相手

ワカゾー 
霍野廣由(つるのこうゆう)さん
藤井一葉(ふじいかずは)さん
藤田圭子(ふじたけいこ)さん

画像1

上段右:藤井一葉さん
 下段左:藤田圭子さん、右:霍野廣由さん



「死をもっと身近に」ワカゾーのみなさんの活動と想い

――今日はみなさんどうぞよろしくお願いいたします。まずそれぞれの自己紹介からお願いします。

霍野:3人とも同じ龍谷大学の大学院で一緒になり、卒業後ワカゾーを立ち上げてDeath Cafeを始めました。僕自身は、他には自殺に関わるNPOにずっと携わっているのと、2年ほど前にお坊さん四人で電力会社を立ち上げて、今はそちらの仕事をメインにしています。今年の2月に福岡と大分の県境にある実家のお寺に帰ってきました。

藤井:私はみんなと同じ大学院を出た後に、お経や儀式儀礼の作法を学ぶ学校に1年間通っていました。今は京都と兵庫を行き来し、兵庫のお寺でお参りや法事をしつつ、京都では廣由がやっている電力会社のお手伝いもしています。

藤田:私はみんなと同じ京都の大学院を出て、今は横浜にいます。大学生のときに生物学を勉強する中で科学の世界に触れて、科学の世界の面白さや必要性に気づいた一方で、死や老いなどどうやっても逃れられないものにも向き合いたくて二人と同じ大学院に入り、ワカゾーで色々なことをさせてもらっています。私たち三人とも浄土真宗本願寺派の僧侶です。


――みなさんは僧侶として仏教のど真ん中に携わりつつ、Death Cafeの活動を中心に、少し真ん中から外れた活動もされているのがおもしろいですよね。Death Cafeは2015年にスタートされて、ワカゾーもそのときにスタートされたんですか?

霍野:そうですね。大学院を修了し、みんなそれぞれお経の専門学校にいったり、自殺のNPOに関わったり、グリーフケアに関わったりと活動がバラバラになったんですが、せっかくだったらみんなでお坊さんならではの活動がしたいと話をしていました。「生きづらさ」や「死」をテーマとして扱おうか、と話している中で、たまたまメンバーの一人がDeath Cafeの記事を見つけて教えてくれたんです。僕たちだったら友達のお寺も借りられるし、ワークショップの運営経験もあったので、とりあえずやってみようか、とはじまったのがきっかけです。


――今はどんな活動をされているんですか?

藤井:去年、Death Cafeの活動がきっかけになって「死生観光トランプ」を作りました。5年くらい活動をやってきた中で、死をカジュアルに語る機会であるDeath Cafeでも、まだ死を日常に持ってくるのはハードルが高いと感じており、死をもっと身近に引き寄せられないかとトランプを1年かけて作りました。
(経緯については死生観光トランプのクラウドファンディングに詳しく記載)

今はコロナの影響でオフラインでのイベントがしづらいこともあり、Death Cafeはあまりできていませんが、オンラインで死生観光トランプを使ったイベントや、弔辞のワークをやらせてもらうことが多いです。

死生観光トランプも「死を語る」ことが広まって欲しいと作ったものなので、みなさんが自由に遊び方を開発してもらえたらと思っています。トランプは無料でダウンロードもできますし、実物のトランプがほしい方には販売もさせていただいています。飾るだけでも良いし、この間お会いした方はお財布に気に入ったものを入れているとおっしゃっていました。

画像2

死生観光トランプ
世界各国の死生観をイラストとキャッチコピーで紹介


――みなさんには「死をもっと身近に」という問題意識があると思うのですが、そこに注目された理由を教えてください。

霍野:これまで僕たちは自殺のことに携わったりホスピスにボランティアに行ったりしてきたのですが、どうしても医療は「死は敗北だ」という風潮があるんです。一方で葬儀屋さんみたいに、死で儲けてる人たちもいる。自分たちも葬送儀礼でお布施をいただいて生活させてもらっている身ではあるんですが、死を否定も肯定もしていないんです。そういうフラットな立ち位置だからこそ作れるプログラムがあるんじゃないかと思いました。

「私たちはいつか死ぬのに死を遠ざけている」という問題意識もありました。ホスピスにボランティアで伺ったときに、当時30代の余命1ヶ月の方とお話したのですが、家族にも言えないっておっしゃっていたんです。これだけ死が目前に迫ったときでも自分自身の中でも消化できなかったり、家族にも向き合えなかったりするんだ、と印象に残っています。

仏教では「人のいのちはろうそくの炎みたいなものだ」と言うんです。灯された瞬間から終わりに近づいていて、いつ死ぬかわからないから早めに死について考えておかないといけない、と。そう言いつつも、なかなかそういう場面は少ないと思ったので向き合える場所と時間を作りたいと思っていました。

藤井:お寺自体、長い歴史の中でいろんな死者を弔ってきた空間です。浄土真宗の文脈で言うと、お寺の伽藍とか柱にこれまで亡くなった方の念仏が染み付いているという話もあるんです。私自身もお寺という空間・伽藍も含めて日常的に死に想いを寄せていたように思います。


――みなさんの問題意識や活動は、僧侶としての日常や空間・環境、その他の活動全てのつながりから出てきたものなのですね。Death Cafeを実際にやってみてどうでしたか?

藤井: Death Cafe自体はワカゾー以外でも実施されているのですが、ワカゾーのDeath Cafeの参加者は20代30代の若い層が比較的に多い、と他のDeath Cafe運営の方から言われたことがあります。

属性で言うと僧侶の方、いのちの現場に関わる看護師さんや葬儀会社の方、親子、身内を亡くされたご遺族の方、転職を控えて自分のいのちのことや人生を振り返りたいと参加された方、いろいろいらっしゃいました。

実は最初はすごく怖かったんです。お寺も独特の空間なので死を扱うことで重くなったり、みんな辛くなってしてしまうんじゃないかと。でも実際に会が終わり帰るときにはみなさん笑顔でスッキリされて、「日頃から考えてはいたけれど話す場面がこれまでなかったから具体的に話せてよかった」、「(親子参加で)子供の普段聞けない考えを聞けて良かった」など感想を寄せてくださいました。この場は自分の出したことは否定されないので、自分が持ってる想いをしっかり聞いてもらえたのがよかったようです。

画像3

Death Cafeの様子

――皆さんと同じように死が身近な看護師さんや葬儀屋さんもDeath Cafeに参加されるんですね。意外でした。

藤井:自分の現場でもそういうことがしたい、ということで参加してくださった方が多かったですね。また、看護師さんは目の前で患者さんが亡くなられることがあっても、1つ1つの死に対して悲嘆に暮れてしまうと次の患者さんを看ることができなくなってしまうから、実は現場では話す場面がないんだ、とおっしゃっていました。

私も含めて、嫌なことに”フタ”をすることって多いですよね。死についてわざわざ考えなくても生きていけるんですけど、実は気になっていたりもやもやや違和感を抱えていたりもする。だとしたら、少しでも言語化してもらって気持ちをほぐしてもらえればと思っています。

ワカゾーがDeath Cafeをするときに、お坊さんの話をしないのかけっこう聞かれるんですが、お坊さんが話すと仏教の教えを説くみたいになってしまうし、Death Cafeは参加者のかたの感覚の方を優先してもらう場だと思っているのであえてしていないんです。もちろん、ご要望があればさせていただくこともあります。



仏教における「死」とは: 生きていることも死んでいることもすべてひっくるめて「いのち」である

――では、Death Cafeであえてしていない僧侶としての皆さんのお話をお伺いしたいのですが、仏教では「死」と「死者」はどう捉えられているのでしょうか?

藤田:「死」は切り離せないものであり、予想できないもの、でしょうか。
「いのち」というと、「生きていることがいのち」、「いのちが終わるから死ぬんだ」と捉えられがちだと思います。でも仏教では、生きていることも死んでいることもすべてひっくるめて「いのち」と捉えるので、「死」を切り離すことはしません。生きていることが尊いように、命を終えていくことも尊いという受け止め方になるんです。

なので死をなるべく見ないようにすると、実は、生きていること自体も見えなくなってしまうのでは、と思っています。

私たちはこれからも変わらずに生きていくつもりでも、死はいつ訪れるか分からなくて、もしかしたら次の瞬間死んでしまうかもしれない。そんな危うさを持っています。でも、私もですが、スケジュール帳を開くと1週間後1ヶ月後1年後の予定が普通に入っているんですよね。「死」を常日頃から意識するのはやはりなかなか難しいです。

霍野:自分はこの言葉に集約されていると思っています。

「生は偶然、死は必然」

さっきの問いでぱっとこの言葉が浮かびました。意味としてはいま言ってくれたことがまさに当てはまるかな、と。

あと、死者ですよね。

宗教とは何かを考えるときにいろんな切り口があると思うのですが、「死後の物語をもっている」のは宗教ならではだと思っています。キリスト教だったらキリスト教の、浄土真宗だったら浄土真宗の死では終わらない物語があって、死者と言われたときには、死では終わらない物語の中に生きてるというのが浮かびます。

また、最近、僕らは死者とともに生きてるとすごく感じています。どうしても僕たちは生きてる人たちの中での関係性に想いを馳せがちなんですが、今生きてる人だけじゃなくて死者の想いもインプットして生きてるんだ、と。

たとえば、いま僕を形作っているものの一つに、もう十何年前に死んだじいちゃんが言った言葉があって、じいちゃんも自分の親の言葉や想いを受けてそれを僕に伝えてくれたと想像すると、生きてる人はもちろん、死者も含めた途方もない関係性の中で僕は生きているんだろうと思います。死者の想いに叶うような人生というか、想いを歩んでいきたいと思いますね。



死者の想いもふまえて、今を生きる。「死」・「死者」にも、役割がある

――死者の想いを歩んでいきたいというのはどういう感じかもう少しお話いただけますか?

霍野:寺に帰ってきて、この寺をこれからどうしていきたいかすごく自問自答するんです。田舎の集落の寺なので、人口減少がどんどん進んでいっていて、自分の代はどうにか切り抜けられるかもしれないけど、次の世代にどうバトン渡していくかかなり危機意識を持っています。

そうしたときに、たとえば納骨堂をすごくおしゃれに造ってその収益で寺を維持していく方法もあるだろうし、地域のおじちゃんおばちゃんたちと金になるかどうかわからないようなことをしながら寺を維持していく方法もあるだろうし、いろんなバリエーションがあると思うんです。

でもやっぱり、自分がこの寺をどうしたいのか、次にどう残していきたいのかを考えるときには、先祖や代々寺を受け継いできた人たちの想いに立ち返らざるを得ないと思うんです。そういう感覚です。

――今の先祖の話は先代、先先代くらいの実際に関係がある人たちの想いのことを意識されているように感じました。一方で、仏教では三十三回忌で故人が祖先の仲間に集合していく、という考え方もあると聞いたことがあるのですが、集合体として祖先の想いを感じることもありますか?

霍野:うちは僕で20代目なんです。ずっと昔から寺としてあるんだろうと想像はしますが、具体的に振り返るのは話を聞ける先代、先先代くらいです。

でも直感的に個人も集合体もどっちもあるな、と思いました。集合体としての祖先は、「個人」というより「仏教の思想」というところになるかと思います。2500年くらいの仏教の歴史の中で脈々と受け継がれて大切にされている教えに立ち返るのかな、と思います。

藤田:全然知らない方への想像力を働かせるのはなかなか難しくて、やっぱり身近な方や大切な方、そういった方の死を通じていろんなことを学ばせてもらうんじゃないかと思います。

浄土真宗では亡き方は仏様になると説いていて、その方のお葬式や死というものは最初のご説法だとも言われます。「あなたもいのちを終えていく存在なんだよ」ということを身をもって教えてくれている、と。そうやって身近なところを考えてみるなかで「集合体としての祖先の想い」にも思いを馳せられるかもしれないな、と思います。


――「死」や「死者」がもたらす”生きる中での役割”もあるということなんですね。

霍野:そうですね。宗教の話をすると、僕は宗教はタイタニックみたいなものだと思っているんです。タイタニックの物語は多くの人が感動すると思うんですけど、実は僕はあまり感動できなくて。多分宗教もそういうもので、ある物語にどっぷりはまれたり、救われたり、生きる指針になる人もいれば、自分には合わないと感じる人もいるのと同じように、この宗教は正しい、正しくないというのがあるわけではなく、自分に合うような死後の物語や宗教の教えに出会ってもらえたらいいと思うんです。

その上で、死では終わらない物語を自分の中に持っていることの心強さ・力強さというのがあると思います。身近な人が死んだり、自分自身が大きな病気にかかったとき、絶望の淵に追いやられたときに、「なんで生きてるんだろう」という問いがでてくると思うんです。そうしたときに自分の軸となる宗教に出会っていて、死後の安心も不安も解消されることによって、与えられた人生をよりまっとうできるのではないかと。

“宗教の物語”という1つのツールを使いながら生きたり死んだりする軸が定まるとしなやかな人生を送れるのではないかと思います。

画像4


生者と死者をつなぐファシリテーターとしての僧侶と、媒介装置としての仏壇・儀式儀礼、そして現代のあり方

――次に、「死」や「死者」に向き合うときの道具や儀式についてお伺いしたいと思います。たとえば「仏壇」というのは目の前に物理的にあるから日常の中で死や死者に向き合う機会を作る「装置」のような役割もあるのではないかと思います。仏教では儀式や道具を通じて死を身近にしていくことをどう捉えているのでしょうか。死生観光トランプも装置の1つだと思ったのですが、今後の可能性についても伺いたいです。

霍野:まずお坊さんというのは死者と生者をつなぐための場作りをしているファシリテーター的な役割があると思います。お仏壇というツールもありますが、そこだけだと味わいきれないものとして、たとえば法事とか、月参り(月々の命日のお参り)などで死者との対話、先祖との対話、死者や先祖に手を合わせる場作りやファシリテーションをしてる感覚があります。

宗教が遠のいている理由の1つに、死が遠のいていることが関係していると思っています。地方だと30年くらい前は、自宅でおじいちゃんおばあちゃんが老いていく姿を見て、家で葬儀をして、縁側から送り出していた。その中で自分もこうやって死んでいくんだとか、死に対する恐怖心や温かく送り出してもらえる安心感も得ていたんじゃないかと思うんです。今はそういうのはあまりないですよね。

翻ってお寺がどうしたらこれからも檀家さんに足を運んでもらえるか考えたときに、そもそも死に対しての問題意識や恐怖心がないところに阿弥陀さんの救いの話ばっかりしても、けっこう上滑ってる感覚があるんです。まずは死に対する問題意識から始めないといけないんじゃないかと。Death Cafeも1つですが、他にも現代ならではの死に向き合う装置は考えてみたいです。

藤田:お仏壇というのは私たちが手を合わせるための「場作り」だと思うんです。本当はどこで手を合わせてもいい、どこで亡くなったかたのことを思ってもいい、24時間やってもいいんだけど、あえてそれをできる場所を作ってるのがお仏壇ではないかと思います。

一方で、ご飯を食べるときに手を合わせていただきますをするだけでも、そこにはいろんないのちのつながりをみる仏教性があるとも思うんです。わたしはなんで食べるんだろう、これはどこからきたんだろうとか、思いを馳せてみると、実はあらゆるところにいのちに向き合うきっかけがあって、そこに自分が気付けるかどうか、かと思います。

藤井:お墓とか仏壇の意義は僧侶仲間ではけっこう議論するんです。死や生についていつでもどこでも考えることはできるはずなんですが、実際はタイミングとか場がないとなかなかやれないですよね。お仏壇とかお墓はそのきっかけを作ってくれる役割があると思います。

また、自分の行き場のない感情を整理する方法は色々あると思いますが、それができる安心安全な場所、自分が心地よい場所というのは、多いようで実は少ないような気がしています。その安心できる空間の1つが仏壇なんじゃないか、少なくとも昔はそうだったんだろう、と思います。私はお寺で育ってるからかもしれないですが、お寺でお参りして仏様の前に座ると、何が解決するわけでもないんですけど「座るだけでいい」感じになるんですね。あの「座るだけでいい」を担保してくれるのが仏様、もっといえばこれまでの亡くなった方達で、存在を無意識に認識してるんだろうと思います。

霍野:"習慣化"は大事だと思っていて、仏壇も手を合わせないとなぜか後ろめたかったり居心地悪かったりするという檀家さんのお話を聞いたことがあります。それって習慣になってるということですよね。いまの若いZ世代の子たちはリアルな生活とオンラインの世界が曖昧になっていると思うのですが、たとえばそういう世代に対して死生観を育むような習慣を作れるといいな、と思います。あまりテックやオンラインにいきすぎてしまうと表現しきれない世界観があるとは思うのですが。

ーー先日話をしていた友人の15歳のいとこが、会ったことのない祖父母の遺影をスマホで撮ってまばたきしたり頬を上げる加工をしてシェアしたそうで、友人は罰当たりと思いつつ、祖父母が生きていたらこんな感じかもしれないと思いを馳せられたと言っていました。テクノロジーを活用することで死や死者が身近になる可能性はあるのかもしれないですね。

藤野:死とテックでいうと前にNHKで美空ひばりさんをAIで蘇らせるという企画がありましたよね。私も自分の亡くなった祖父が蘇ってしゃべれたら幸せだと思うのですが、やっぱりリアルな人との関係とは違いますよね。いのちを終えられたことを受け入れて新しい関係性をまた結んでいくのも大事になってくるんじゃないでしょうか。会いたい気持ちもわかるしその気持ちは否定しないけれど、人間のエゴだということを見つめていく必要がある気がします。

――以前のイベントで、テクノロジーで死者が身近になる例として、Amazonプライムビデオのオリジナル作品で死者がVRの世界で生き続けて、生きている人たちが会いに行けるSFドラマ「UPLOAD」を紹介しました。これが実現したら死者とともにある感覚は得られやすいけど、逆に自分が死ぬ感覚も薄れそうだ、という意見が出ていました。テクノロジーの発展で死者との関係性、死への意識、両方に作用するのかもしれないですね。

霍野:今のお話を聞いて「想像力を働かせる」がちょうどいいかもしれない、と思いました。(死者がバーチャル化して)身近すぎると、どうしても”つかまえに”いってしまう感じがあると思うんです。

藤井:"つかむ"は仏教の話とも重なってくる気がします。仏教の教えには固執して”つかんでいたもの”をぱっと離したときに見えてくるものがある、というのがあります。死者を手放すことでみえてくるものがあるのかもしれないです。

藤田:死とかいのちとか、見えないものものを見ようとするときに、私たちの技能で見える部分だけをとらえてしまうことがあると思うのですが、人智を超えたものをどう見つめていくかというところには想像力が必要で、それが大事なのかもしれないですね。

――捉えきれないからこそ、自分なりに想像するしかないし、逆に想像する余白もたくさんあるということですね。
では最後に、僧侶として今後未来に担っていきたい役割、ワカゾーとしてやっていきたい実践の展望などお聞かせいただけたらと思います。

霍野:お寺に500年の歴史があって、ここにあり続けてきた中で育まれてきた信頼と文化があるので、それを1つのトリガーにしながら、自然やこの地域の人たちと共にどう歩いていくかを考えたいと思っています。その中で、先人たちの想いや大切にしてきたことを紐解いていきたいとも思います。

また、いまは「自分のやりたいことをやりなさい」と言われる時代ですが、やりたいことがわからない人も多い。死から逆算することによって自分のやりたいことやありたい姿が見えてくると思っているので、トランプを使ってなのか、Death Cafeを継続することでなのかはまだわかりませんが、それに向けた問いかけをしていきたいと思っています。

藤井:僧侶として、ですと話の中にも出ていた死や死者と生者をつなぐファシリテーターの役割は大事にしたいと思っています。それが言葉を使ってなのか、ゲームやワークショップを使ってなのかはなんでもいいと思うのですが、私自身もかつてそこのつなぎ役として僧侶の先生や先輩の存在を大きく感じたので、大事な存在であり役割だと思っています。

自分の軸という話も出てましたが、それぞれみなさんが安心できる軸に出会ってほしいと思っています。私がお伝えできるのは浄土真宗だけなのでそれしかおすすめはできないのですが、自分に合うものに出会うお手伝いができたら嬉しいです。

藤田:ワカゾーとして今後ですと、自分の中の気づきを後押しできる場をこれからも作っていきたいと思っています。これまでの活動も続けていけたら良いとも思っていますし、オンラインのDeath Cafeツールのようなものも作っていけたらおもしろいですね。
ぜひ今後コラボなどできたらと思います。

――このインタビューをきっかけにみなさんとのご縁が続いていくことを願いつつ、この場を締めたいと思います。ありがとうございました。

おわりに

ワカゾーのみなさんの対話を軸に活動されていることもあり、対話的にインタビューが進み、それぞれがそれぞれの発言に触発されながら言葉が紡ぎ出されていくのが印象的なインタビューとなりました。

死や死者というのは、本来であればいつでもどこでも向き合おうと思えば向き合える性質のものです。でも、慌ただしく流れていく日常の中で向き合っていくのはなかなか難しい。私たちはいつかは必ず死ぬ。生と死が一体である「いのち」を生きていて、生きることと同じくらい死ぬということも尊いものなのに、生きることに向き合えても死ぬことにはなかなか向き合えない。

死者も同様です。いま目の前にいる存在との関係性には腐心するけれど、確実に自分を形づくっている今は亡き存在にはゆっくりと祈りを捧げる余裕も持てていません。

生と生者に固執すると、やがて自分に訪れる死にも自分を支えてくれている死者にも向き合えなくなってしまいます。

そこに助け舟をくれるのが、宗教であり、それが持つ物語であり、様々なツールや儀式儀礼であり、ファシリテーターである宗教者なのだと今回のインタビューで教えていただきました。
それらの武器を手に入れることで、私たちは想像力と習慣を身につけ、生活の中に生と生者だけでなく、自分を囲んでいる死と死者も受け入れることができるようになるのだと思います。

同様の機能の持つものであれば、既存の宗教でなくてもなんでも構わないのだと思います。
自分にとって信じられる物語とともにいのちに向き合えるようになることが自分の人生を力強く押し出してくれる。死と死者に向き合いともにあるということにはそんな可能性と豊かさがあるのではないかと感じました。

ワカゾー の皆さん、どうもありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?