三世代先の吉野の森を見つめて: 山守&吉野町長から学ぶ「継承」意識|インタビュー:中井章太さん
Deep Care Labがお届けする、サスティナブルな未来をひらくクリエイティブマガジン『WONDER』では、持続可能性につながるビジネスやプロジェクト、気候危機時代の生き方のヒントになる創造的な実践や活動をされている方にお話を聞くインタビューシリーズを連載しています。
今回は、奈良県吉野の林業を支える山守として、現在は吉野町長としてもご活躍の中井章太さんにお話を伺いました。
吉野林業と山守について
吉野林業は極端な密植と弱度の間伐を数多く繰り返し、長い時間をかけて1本の木を育てることに特徴があります。植栽本数は全国的に見ると1ha当たり3,000本程度ですが、吉野林業では1ha当たり8,000 - 10,000本という超密植。そして5年~10年周期で間伐を繰り返して、長伐期施業により100年・200年以上の大径木をつくりだす。そのように3世代育った木は細かい木目で完満通直(木の根元から先まで太さが均一で真っすぐであるという意味)で節の無いものが多く質の良い用材として重宝されてきました。元禄年間(1700年)頃からは吉野では借地林が発生、外部の山林所有者が現地の住民に山林の管理を委ねる山守制度が発達し、森林管理が行われてきました。山守とは、所有者に代わって森林の管理、保護をする人のことを言います。
今回のインタビューのお相手
左:中井章太さん
今回のインタビューは田島が吉野にお伺いし、川地がオンラインで参加させていただきました。
※写真撮影のときだけマスクを外しています。
中井章太(なかい・あきもと)
林業家。中神木材(山守7代目)。吉野町長。
山から街まで、川上から川下までを考えた林業経営を模索し、吉野林業の再生を目指す。
「つながり」を感じることで生まれる「つなぐ」意識
ーー今日はどうぞよろしくお願いいたします。吉野林業の中で山守という仕事は三世代先を見据えて木や森を管理するお仕事だと伺いました。今、中井さんは山守から吉野町長というお立場に変わられていますが、長期スパンで物事を捉えるお仕事である点では同じだと思います。山守時代も含めてどういった意識でお仕事に向き合っていらっしゃいますか。
吉野は林業のためにつくられた人工林が500年以上続いてきた土地です。これは日本全国の中でも最も古い部類に入ります。生きている間に森に関われる年数はせいぜい50年程度ですから、500年のスパンの中のたったひとときです。自分が植えた木を自分の手で伐るのは40年生木材でできるかどうかで、ほとんどは最低3世代かけて木を育てていきます。今切っている木はおじいちゃんが植えたり、父親が植えたり、枝打ちや草刈りの育林作業は地域の林業従事者のおっちゃんがやってくれたものです。そうやって世代を超えて親族だけでなくいろんな人の手がかけられたものがやっと自分の代で出荷できる。そうやって受け継いできた木はなんとか活かしていきたい、少しでも誰かに届けたいという想いが生まれてくるので、木に対して持つ愛情が全然違ってくるんです。
昭和の戦後復興から平成になるくらいまでは木材価格が今よりも高かったんですよね。山に行って木を切って原木市場と呼ばれる市場に持っていくんですが、その時代は市場の先で木がどう使われているか、消費者がどこにいるかなんて正直あまり気にしなかった。他の商売でもそうだと思いますが、お金が回ってる分には自分の役目だけをしっかりやっていればよかったんです。でも木材価格の下落とともに風向きも変わって、町からどんどん人も出て行ってしまって事業承継や後継者問題も出てきました。時代背景の中で林業が自然淘汰的になってしまうのは仕方ない面もあると思いますが、そうなったときにいかに火を消さないか、これが大事なんです。木に関わっていない人も含めて多様な人とのつながりを作ることができれば、形が変わったとしても地域の産業をつないでいくことができますから。
地方にいるからこそ身近なところで自然を感じられて、地域の歴史や文化を受け継ぐ意識も出てくる。自分はいま山守としても、まちづくりに関わる立場としても、現在・過去・未来の関わり合いが一番感じられるポジションにいると思っています。
ーー中井さんご自身が過去から受け継ぎ、未来につなぐという意識を持つようになられたのは、もちろんそういうお仕事だからというのも大きいと思いますが、何か具体的なきっかけがありますか。
もちろん小さい時はそんなこと思ってなかったですよ。家が山守という商売をしていて、社会人になって地域に戻ってきて山を継いで。山仕事だけじゃなくて地域の経済団体とかの活動もしながら商売をしていたんですけど、そういう意識を持った一つのきっかけは山の怖さを知ったことにあります。平成10年に台風があり、風倒木の作業をしていたときにおっちゃんが大きな事故に遭ったんです。意識はないし死を覚悟しないといけないような状態で。幸い命は助かったものの、そのときに山への向き合い方、山に入るときの心構え、人生観的なことも含めてすごく考えさせられたのを覚えています。そこから目の前のことだけではなく、日々の積み重ねや人との関係性、時間の使い方についても考え行動に移すようになった。その延長で、山守ってなんだ、吉野の林業ってなんだ、ということも考えるようになりました。そうしたら、吉野の歴史、修験道やその総本山である金峰山寺、山岳信仰や木の文化など、いろんなものが自分の中でつながってきたんです。そこからですね。吉野で山守をしていなかったらここまで考えていなかったと思います。
ーー山の怖さを知ったことから、ご自身が向き合っておられることに思いを馳せ、様々なつながりに気付いても気づかれたんですね。とはいえ、中井さんと同じようなお仕事や体験は誰もができるわけではありません。様々なつながりに気づき、過去から未来への継承の意識を持つためにはどうしたらいいか、何か私たちにもできるヒントはありますか。
今はあまりできてないですが、以前は山守ツアーをずっとやっていたんです。河瀬直美監督が吉野の森と山守を描いた「VISION」という映画の撮影の舞台となった森まで一緒に行って、お弁当を食べたりいろんなことをお話させてもらうツアーです。山が生まれた歴史的な背景や、今の状況、課題感、山守ツアーへの想いなど事実だけをお話して、こうして欲しいとかああして欲しいとかは絶対言わないようにしていました。多分同じ話を東京で話しても伝わらない。山の中に身を置いて話を聞きながらいろいろなことを自分で感じてもらうのが一番早いし大事なことだと思うんです。それに、僕自身はこれは森とつながるきっかけのひとつでいいと思っていて。参加者が10人いたら2人くらいの意識が変われば十分だと思っています。
きっかけは何でもいいと思うんです。吉野の山の木は杉や桧なんですが、家を建てるときに建築材として使ってもらってもいいし。吉野杉の歴史をたどると実は原点はお酒にあるんです。酒樽の材料として使われていて。2011年に酒蔵の杜氏や製材所の人達と一緒になって60年ぶりに木桶仕込みのお酒を復活させたんです。そうすると今度はお酒好きな人が興味を持ってくれてつながることができる。それもきっかけのひとつだと思います。
インタビュー中の中井さん
「つなぐ」ために「つながり」を作る
ーーいろいろなところに用意していただいている森とつながる入り口のうち、自分の興味のあるところから少しずつ深く入っていくといいんですね。そうやって多様な入り口があるのは産業が衰退していくときに炎を消さないとおっしゃっていたことにもつながりますね。
そうですね。つながりでいうと、木桶の復活によってそれを使う醤油屋さんともつながることができました。酒造りで役目を終えた樽はそのあと醤油屋さんの醸造の樽として再利用されてきた歴史があるんです。木桶の復活がなかったら歴史は知ってても実際に醤油屋さんとつながることはなかったと思います。
あとこれも5、6年続けてるんですが、30年〜50年生くらいの吉野桧の小径木を鳥羽の牡蠣の養殖イカダとして使ってもらっています。これは海と山のつながりですね。漁師の人たちにも山に来てもらって作業もしてもらいました。日本の人口も少子高齢化が進んでいますが、実は山もあまり植林がされておらず少子高齢化が進んでいて、このように筏丸太として使われる若くて細い木が減ってるのも事実なんです。それでも使ってもらえるんだったら活かして欲しいと思ってつないでいます。
健康に関するところでいうと、製材所から出てくる桧のおがくずを活用して、酵素浴に使っています。酵素と米糠とおがくずを混ぜると、電気もガスも使わないで75度くらいまで自然発酵するんです。これが身体の免疫力を高めると言われていて健康にいいんですよ。扱う店舗も広がってきています。
葉っぱも自分たちで採集して使っていますよ。山にある資源はすべて使い切るつもりでね。
ーー本当にたくさんのつながりを作っていらっしゃるんですね。過去から受け継いだものをそのまま継いでいくのではなく、現在だからこそできるアレンジや中井さんならではの変革を加えていくことを意識されているように感じました。
そこはけっこう意識しています。これまでのように、木を育てて切って市場で売るという林業のベースはもちろん残りつつも、できることをやって次の時代につないでいけたらと思っています。つながりをたくさん作って吉野のことを伝えていくことによって、今まで全く関係なかった人たちが吉野にきて、山に入ってくれて、発信もしてくれるような、そういう関係作りをしっかり行っていきたいですね。
ーー中井さんは受け継いだものの変革を模索されていますが、次の世代への期待についてはいかがでしょうか。同じようにやって欲しい、など何か次の世代に意識して欲しいことはありますか。
人と自然が培ってきた吉野の木に対する愛着心は持って山に向き合ってもらいたいというのはありますが、やり方をこうして欲しいというのはないですね。人と土地の力をしっかり自分なりに理解していただいて、あとはアレンジしていただけたらと思います。自分たちも教えてもらってできるようになったわけではないし、それぞれのやり方でやってもらえたらいいんじゃないかな。
人間が手を入れたものは適切に管理しながら自然に戻す
ーー自然と人間の関わり方について教えていただきたいのですが、今、人間が過度に自然に手を入れてはならぬ、という論調も出てきている中で、一度人間が手を入れたものに関しては適切に人の手を入れ続けていく必要性もあるのではないかと思っています。これから人間と自然はどう関係していくと良いのでしょうか。林業に携わられてきた視点から何かヒントはありますか。
吉野は人の手で植えた杉桧の単層林なので、ある程度人の手を入れながら守っていかないといけないんです。自然の部分に手を入れるかどうかは、何を大事にしていかにその土地にふさわしい森林空間をつくるか、そのためにどのように森を再生するかの観点が関わってきます。
オーストリアの例でいうと、水という資源を重要視し、土壌の性質なども加味して森林区分を細分化しています。たとえば土壌を改良することによって水質が悪くなるエリアは土壌をいじらないように規制するといったように。そういうエリアは作業用の道路は作れなくなるので架線やヘリコプターなどで木を搬出しようと判断できるようになります。防災や生物多様性の視点を大切に森林の機能をいかすゾーニングをする、その上で手を入れるかどうかを考える。これは日本で欠けている考え方だと思います。
ーー科学的な知見から管理していくことも大切なのですね。「最終的なゴール」というのはあるのでしょうか。
木は天然林の木が最強なんです。台風とか病気とかもある中でも勝ち残ったものが1000年生き続けていますから。天然林が生まれる土壌をつくることが僕たちの最終的な目標です。土壌がしっかりしていることを「地力」というのですが、地力がしっかりしていると、木が根を張って土壌から養分をたくさん取りながら光合成ができる。そういう木が強くなります。
これからは人口減少し住宅も少なくなっていくので、手入れした木や山は残しつつも、手入れがされていない山を天然林に戻していくことが必要になります。そのためには、どの山を天然林に戻し、どの山を人工林として残すのか目利きができる人材が必要です。そういった意味においても、吉野の地に奈良県フォレスターアカデミーという学校が開校されたことは、大きな意義があると感じています。
ーーなるほど。様々なバランスを見極めながら、長期的な目線で実際に森を育てていくのはとても難しそうです・・・。山を残していくためには目利きができる人も不可欠なんですね。
山は急には変わらないので少しずつ少しずつやっていくしかありません。一気に変えようとしてもおかしくなってしまいます。時間をかけて育っていくものは時間をかけて直していかないといけないんです。
一本の木にどれだけの人が関わっているか理解し、繰り返しになりますが今まで森や山とつながってなかった人をつなげることが必要です。先ほどお話した樽とか桶とかの材料はだいたい80年生から100年の木材で、それだけ育てるのに時間がかかる。いま50年生の木が生えている山はいっぱいあるんですけど、実は100年後に木桶にできる木が生えている山は植林がされてなくてほとんどありません。ということは、木桶で仕込んだことを売りに醤油を作っているところは100年後は木桶仕込みという付加価値が出せなくなってしまうということです。醤油屋さんもその先にいる消費者も今自分がおいしく味わっている木桶仕込みの醤油を将来にもつないでいきたいと思ったら、木を育てるところから始めないといけないんだと気づいてもらう必要があります。そして10hのうちの1hでもいいので、吉野杉の植林からはじめてもらう。そんな気づきと関わり方も今後は必要になると考えています。
森に関わる主体の多様化を目指して
ーー効率化のために分業し、生産側も消費側も自分が関わる部分さえ見ていればよかったところから、つながりに気づき直し、未来に継いでいく視点を双方が持つ必要があるということなんですね。ただ、自分の生活と森や山との関わりを知ったとしても、積極的に「維持」に関わっていくのはまだ少しハードルが高いようにも感じます。何かお考えがあれば教えていただけますか。
山の中の森林住宅だったり、風景も含めて気に入っている森の空間だったり、足を運ぶことによってリラックスできるような場所だったり、定期的に訪れる自分の森林空間を持てるかどうかだと思うんです。日本って森が誰でも入れるようになっておらず身近な存在ではないですよね。海外のようにもっと身近に自由に身を置ける森林空間があってもいいのではないかと思います。そうやって日常的につながりを継続できるような場ができると、ものごとの見方や関わり方も変わっていくのではないでしょうか。
代々続いてきたものを誰に渡すかも時代の流れの中で変わってくるのではないかと考えています。歴史的に森は国の領地になったり個人の資本家の持ち物になったりと変遷がありますが、これから山の出資者が誰になっていくかというのも山作りの大きなポイントのひとつだと思います。これからの時代、企業になる可能性もあるでしょう。
企業にとって社員に健康に働いてもらうことはこれからより重要になると思います。たとえば森に入るだけでリラックスできて生産性が上がる、免疫力が上がる、というエビデンスが示せれば企業や経営者にとって森林活用はメリットのひとつにもなります。コロナ禍でテレワークが進み、地方と都心の企業の関係性が変化したので、たとえばひと月に1回、都市でビジネスをしている人たちがこちらに来て、継続的な関係ができる可能性もあると思います。その人たちとアイデアの融合ができたら新しいビジネスが生まれる可能性だってある。林業をやっている人が森林を維持する発想とはまったく違うものが出てくるんじゃないかと思います。そういったことも含めて、森の守り方も多様化していかないといけないですね。
ーー生活者の森との関わりの変容と合わせて、お金の出し手、つまり経済的な面での関わり方も合わせて変えていくということなんですね。今起こそうとされている様々な変化にはとてつもなく時間がかかることも含まれており、その地道さと果てしなさにこちらの方が途方に暮れそうになってしまいましたが、今やらないといけないことに真摯に向き合っておられるのだと感じました。
そうですね。とくに木や山に関するものは長いスパンで取り組んでいく必要があります。そういうときに競争だけでは無理ですから、協力の中で資源をつないでいくという意識が必要です。そういう考え方をぼくはお伝えさせてもらっただけなので、みなさんそれぞれの立場と視点で参考になることがあれば取り組んでいただくのがいいのだと思います。
ぜひ吉野にもまたいらしてください。
ーー今日は貴重なお話をどうもありがとうございました。
おわりに
関西に引っ越してきて奈良のことを知ろうと調べていたときに、偶然吉野林業は200年以上の長い年月をかけて木を育てていく世代を超えた営みであることを知りました。それ以来、吉野林業に携わっている方にどんな意識でお仕事に向き合っているのか教えていただきたい、その意識は自分たちが培いたい過去から未来へのバトン感覚のヒントになるのではないか、とずっと思っていた念願がこのインタビューで叶えられることになりました。
木が育つには時間がかかります。人間の命が刻むリズムと木のそれはそもそものスパンが異なります。木のリズムに合わせてコツコツと手間をかけ地道に取り組む意識、また、先人が手をかけて培ってきた資産である森とそこから生まれる営みによって自分も恩恵を受けている意識、様々なつながりの中に自分の"生"が存在している意識、そして自分に恩恵を与えてくれた資産だからこそ自分の代で絶やさずに先に「つなぐ」意識。それらが長期的な目線での活動のモチベーションでもあり、中井さんのあり方そのものにつながっているように感じます。
人間の生を中心とした時間感覚の中だけで生きていると、見えなくなってしまうものがたくさんあるのかもしれません。森の中に身を置いて、彼らのリズムに身を委ねてみる。彼らが生きてきた年月を想像してみる。自分より何倍も長い年月を生きている木々に囲まれて見下ろされてみる。そこから得られる体感覚が大切なのでしょう。お酒やお醤油、牡蠣、酵素風呂など木を通じた「関わりしろ」を多様につくることで森を未来につなごうとしている中井さんが、そういった商品だけでなく「森に実際に足を運んでもらうこと」をことさら大事にされているのは、商品の来歴を知ること以上に、身を置くことで身体に刻まれる長期的思考の種を大切だと知っているからではないか、と吉野からの帰り道に想いを馳せました。
身近にふらっと行けるコモンズとしての森が日本にこれからたくさん広がっていったら・・・。私たちも未来世代も他種ももう少し豊かになれるかもしれません。
中井さん、どうもありがとうございました。
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