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“近景”と“遠景”から見る、仏教とアートとケアのつながり|インタビュー:應典院秋田光彦さん

Deep Care Labがお届けする、サスティナブルな未来をひらくクリエイティブマガジン 『WONDER』では、持続可能性につながるビジネスやプロジェクト、気候危機時代の生き方のヒントになる創造的な実践や活動をされている方にお話を聞くインタビューシリーズを連載しています。

 今回は、NPOや大学、行政と協働し、お寺を通して学びや癒しなどが得られる場を提供している、應典院の秋田光彦さんにお話を伺いました。

 浄土宗應典院について
大蓮寺三世誓誉在慶の隠棲所として1614年に創建された大蓮寺の塔頭寺院です。1997年に再建される際、一般的な仏事ではなく、かつてお寺が持っていた地域の教育文化の振興に関する活動に特化した寺院として計画され、〈気づき、学び、遊び〉をコンセプトとした地域ネットワーク型寺院として生まれ変わりました。
それから20年、市民の学び、癒し、楽しみの場所としてお寺が活かされるよう、21世紀のお寺のモデルを創造すべく、多くの方々と共に多彩な挑戦を実践して参りました。それは、教育・福祉・芸術が公共サービスとして提供されることが当然となった現代において、少なくとも近世まではお寺が地域生活の基盤施設として役割を果たしてきたという原点への回帰に他なりません。そのため、應典院は檀家制度を拠り所にせず、会員制度をつくり多岐にわたる事業を展開してきました。2020年からは施設の設備修繕および事業の見直し期間として、新しいフェーズへと計画進行中です。

 今回のインタビューのお相手

秋田光彦(あきた みつひこ)
浄土宗大蓮寺・應典院住職
1955年大阪市生まれ。浄土宗大蓮寺老僧、1997年に塔頭・應典院を再建し、地域での社会的・文化的活動の拠点に開放。また、人生の最終章を支援する「終活」をNPOや社会的起業家と協働して取り組むなど、應典院を拠点として、仏教、アート、まちづくり、コミュニティ・ケアなど、「協働」と「対話」の新しい地域教育にかかわる。著書「葬式をしない寺」(新潮新書)、責任編集「生と死をつなぐケアとアート」(生活書院)、共著「ともに生きる仏教」(ちくま新書)他。

目に見えない存在とつながる「仏教」と「アート」

ーー早速ですが、應典院ならびに秋田さんのご活動について簡単に教えていただけますか。

應典院が再建されたのは1997年です。あっという間に25年が過ぎましたが、地域に開かれたお寺として、仏教とアートを掛け合わせたコミュニティセンターのような役割を担ってきました。私は絶えずアートとケアの中から仏教の教えを見出し、そこにヒントを得ながら時代に合わせた仏教の役割やお寺という場の在り方を考えてきました。

 現在、應典院は「コミュニテ・ケア寺院」と名乗っており、アートという言葉以上に「ケア」に注目しています。これからは、地域とお寺の在り方をつなぐ架け橋としてケアに注力していこうと取り組んでいます。

 
ーーありがとうございます。應典院がアートを取り入れた背景には、何があったのでしょうか。

25年前に、アーティストとお坊さんは瓜二つであることを発見しまして。アートが持つ本来の原理を考えてみると、目に見えない他者や自然とつながるインターフェースとして非常に重要な役割を担っていると気づきました。アートは南無阿弥陀仏とは言いませんが、そこには仏教的な原理が埋め込まれていて、もっとも仏教に近い。アート空間とお寺は大変親和性がある、と思いました。


ーー「目に見えない他者」と語られていましたが、秋田さんはどのような存在として捉えているのでしょうか。また、目に見えない他者や自然とつながることの大切さについて、何かお考えがあれば教えてください。

目に見えない他者とは、亡くなった人のことです。人は亡くなると、目に見えなくなってしまいますよね。ところが、日本の弔いは、すごく良くできています。亡くなった人をみんなで記憶に留めるために、お葬式があり、法事があり、お墓がある。そういった見えない他者を視覚化し、自分の記憶に留める役割を果たしてきました。

Photo by Match Sùmàyà on Unsplash

しかし、現在は弔いに対する価値観が非常に大きく揺らいでいます。その一方で、そこに対する再認識や再評価も進んでいる。どのように弔いと向き合うかバランス感覚が問われている気がします。私も向き合わなければならないテーマですね。

 哲学者の内山節さんが「日本人は、これまで生者と死者と自然が一体になることで共同体を運営してきたが、今は全て生者を優先するようになってしまった」とおっしゃっていました。自然に対する敬意、多くの伝承や記憶、財産を残してくれた先祖や死者、そして生者の三位が揃って一つの共同体を構成してきましたが、死者も自然も意思表示はできません。だからこそ、儀礼やアートがあるのだと思います。目に見えない存在とどう繋がり、視覚化していくか。その答えは、仏教の儀礼にあります。お寺にアートを取り入れると、その意味がよく分かります。

 
ーー弔いという儀礼を通して、死者ともう1度つながりを持つ。しかし、死者が何も言葉を発さないがゆえに、儀礼が軽んじられやすい部分はあるのではないかと感じています。著書の中でも「死者のまなざしがいろんなところにあり、そこにいかに気づけるか」というお話が書かれていましたが、それをどのように感じていくのか、死者のまなざしを感じながら生きることは身体感覚としてどういうことなのか教えていただけますか。

 どうやったら感じられるかよりも、ちゃんとお寺参りをして先祖を祀り、どうしたら自分も良き先祖になっていけるのかを考えることがすごく大事だと思います。その予行演習をしてきたのが、日本の仏教ではないでしょうか。

 この間、私の檀家さんから先祖の200回忌法要をしてほしいとご相談がありました。現在の法事は、7回忌、13回忌とどんどん短くなっている中で、結局どれだけ長期的な時間軸を持てるか、なのだと思います。

友人の釈徹宗先生に教えてもらいましたが、ギリシャ語で「時間」と「時刻」は違う概念だそうです。何時に起きて何時に寝る、何時から仕事をするなどは、私たちを支配する「外なる時間」。一瞬や永遠などは「内なる時間」で、人それぞれ異なります。つまり、時間軸で物事を考える際に、200回忌が当然だと思う人もいる。そういった内なる時間をどのように自分の中で上手に習慣化していくのか、これは日本の仏教がすごくトレーニングしていたことなんです。

 
ーー死者を意識する装置として、仏教の儀礼がすごく大事な要素になっていたということですね。

 はい。特に周期性を持っているお彼岸やお盆といったものは、日本人が持っている根強い死者信仰と言いますか、見えないものとつながる1つの回路として未だに有効性を失わないと思いますね。

近景と遠景から、仏教とアートとケアを考える

 
ーー冒頭で「コミュニティ・ケア寺院を名乗っている」というお話がありました。どのような方を対象にコミュニティ・ケアを行っているのでしょうか。

 大阪府看護協会と協働の「まちの保健室」や、さまざまな専門家と語り合う「おてら終活カフェ」では、日常的に健康な方、おひとりさまなど孤立しがちで不安を抱えていらっしゃる方を対象に毎月行っています。さらに、親寺である大蓮寺や、訪問看護ステーション「さっとさんが應典院」とともに、死が間近に迫った人生の後半にあたる方にもアプローチしています。彼らは、いかに生き残るかと同時に、いかに死ぬかにも関心を持っているんです。それらの問いは人生の意味を成熟させるために大事なことですが、社会は医療や福祉などの制度に任せ、考えることから逃げるようになってしまっている。そうではなく、どうやって1人の人生や地域の物語として語り直していくのか、紡いでいくか、を考えることが私たちの役割だと思っています。

 
ーーなるほど。最近はアートよりも「ケア」に注目しているというお話がありましたが、アートとケアと仏教のつながりについて、詳しく教えていただけますか。

そうですね。その前に「ケア」とは何か、皆さんはどう考えていらっしゃいますか。

ーー痛みを分かち合うこと、という意味合いが強いかなと思っています。例えば、人と人との関係において、必ずしも美しいことだけでなく、大変なこともあって。それでも寄り添い続けることがすごく大事だと感じています。

 私のパートナーは台湾人なのですが、コロナ禍で地元に帰れない中、両親が体調を崩して入院してしまったんです。夜中に泣き出したこともあって、私自身も苦しい思いをしました。一緒に向き合い続けたいけれど、どのように声を掛けたら良いかわからず、モヤモヤとしていました。これをしたらOKというものはなく、向き合い続けることがケアが持つ本来の意味という気がしています。


私たちが考えているケアは、基本的にヒューマンケアだと思います。つまり、人と人との関係が主語であること。應典院が訪問看護ステーション「さっとさんが應典院」を運営しているように、ダイレクトなケアサービスも大事です。これらはいわゆる「近景」としてのケアですね。

 それをもっと「遠景」にしていくと、実は私たちは無意識のうちにケアされている存在であると気づくんです。空気や水、虫など全ての命が私たちを支えている。無意識のコモンズですね。仏教はそれを総称して「山川草木悉有仏性」と言います。全ての生き物には仏を宿しているという超概念を持っている。山川草木との関係をケアと捉えるならば、先ほど述べた自然も死者も全てケアと関係していると思います。

 

Photo by Cody Weaver on Unsplash

ただし、ケアの出発点が、人と人との関係の中だけで構造化されてしまうと、そこに権力が生じてしまう可能性があります。まず「近景と遠景の両方が大事だ」と言いたいですね。


ーーなるほど。私たちDeep Care Labが掲げている概念は、まさに遠景のケアですね。私たちの思想の根っこには、他の生命や死者のような存在から受け取ったものがたくさんあります。それらの恩恵に対して、とても感謝の気持ちを持っていて。いずれ何か返礼したいと思うのですが、どのように返礼したら良いのでしょうか。

皆さんがなさっている活動そのものが、まさにケアの返礼なのではないかと思います。つまり、良く生きることですね。ただし、そのことをむやみに持ち上げてしまうと、よからぬ権力や操作が介入してしまうのではないかと危惧しています。

 仏教の観点からお伝えすると、慈悲に生きる「慈悲行」がとても大事だと思います。人間として生きていく上で、避けられない様々な苦がありますよね。乗り越えられない苦に対して共感したり、自分なりのささやかな役立つことをするなど、一緒に慈悲の共同体をつくり上げていく意識がとても大事ではないでしょうか。

 私は、社会を良くしていこうとしているNPOの方々を「慈悲行を生きる人々」と言っています。いわば、袈裟を掛けていない市民僧ですね。そういった方々に対して、仏教者としての原理を重ねていました。


自分の愚者性に気づき、傷ついた人たちと共に生きていく


「何かお返ししたい」と思う気持ちは、すごく大事です。今の時代は、サービスの需給関係のように捉えて「当然やん。なんで、そんなことせないかんの」みたいな感じになってしまっています。しかし、人間のピュアな行動をどのように素直に受け止めてお返ししていくか、それをどう構造化して社会と共有するかは、とても大事だと思います。そのためにデザインという思想があるのではないでしょうか。

 仏教の役割は、個人の生き方をケアすること。それを、全世代や地域全体で同時に考えていく流れをつくろうとチャレンジしたのが、應典院です。強いて言えば、アートはその中における共通言語だったんでしょうね。南無阿弥陀仏を唱えても、受け入れがたいような反応を示す方が多いのですが、アートには多様な意味が含まれるので、最初に人々を繋げていく余白が多いんです。


ーー應典院においてアートは、人と人とをつなげるだけでなく、人と見えない存在をつなげるインターフェースとしてもすごく機能しているようですね。やはり根底にあるのは、いろんな命に支えられておかげさまで生きられているという遠景のケアですか。

そうです。近景の奥にある遠景に気づくために、アートが機能していると思います。だから、アートの展覧会をやっているときだけが、アートではないんです。展覧会は、1週間くらいで終わりますよね。ところが遠景のアートは、何もやってないときのほうが実は魅力的なんです。アートの展覧会を開催していないときに應典院に来て「おっ、この寺は磁力を感じる」と思ってくださるのが1番かっこいいですね。

Photo by 應典院

ーー非常に面白いですね。秋田さん自身が日々の取り組みであったり、人との関わりの中で意識されていたりすることは何かあるのでしょうか。

そうですね。私が関わっている表現者の多くは、無名なんです。もちろん應典院が土台になってすごく著名になった方もいらっしゃいますけど。應典院が再建された頃は就職氷河期でした。NPOは、行き場のない若者たちの受け入れ先でもあったんですね。NPOをやるか、アートをやるか、どちらかの道しかない中で、演劇やっているけど実は人とコミュニケーションが全然うまくない、自分自身を傷付けているなどといった人たちがたくさんいました。

 私は決して、そういった傷ついた若者たちを救ってあげることはできません。そうではなく、私もまた自分自身の愚者性に気づき、どうしようもない私という視点を持ちながら傷ついた人たちと共に生きていくんです。浄土教では、自分自身の愚者性に気づくことを「凡夫」と言います。

 日本の寺院は無縁所といって、完全に俗世とは切り離れた超俗的な世界を担保しているんです。そこへやってくるのは、みんな無縁者ばかりなんです。

 無縁者には「仏の慈悲に救われた者」と「はぐれ者」という2つの意味があります。芸能者は、かつてはぐれ者でした。乱暴なたとえですが、應典院に集まってくる人も似ていると言えなくもない。お金儲けもせずに、ろくに学校にも行かず、親の言うこと聞かず「何やったんだ!」と言われるような人たちがやってきて、社会を変えようなんて言っている。実際にそういったことができるかどうかは別として、そういう人たちと連帯することで何かを成し得る共同体があることこそ、私は健全な都市だと思います。健全な都市は、そういったトポスを持っていないと駄目ですが、残念ながら日本にはないですね。


ーー確かに、そうかもしれません。

日本のお寺もどちらかというと葬祭センターや観光地になってしまって、本来持っている無縁所としての場所の在り方を失っています。きれいに整理されてしまっているんです。それをもう一度、再生したいという企みがありました。


ーーそういう傷ついた方々が應典院に集まったときに、近景と遠景のケアという視点で見ると非常に面白そうですね。要は、遠景の目に見えない存在を感じられるから救われる部分もありますし、そういった方々が集えるからこそ互いに苦しみを分かち合える。秋田さんはどのように見ているのでしょうか。

仮に自分の作品を應典院に展示したとしましょう。近景で見ると、そこにたくさんのオーディエンスがやってきて、みんなで批評し合ったり、交流会が開催されたりするような場があります。中には、それらを酷評する人がいたり、お客さんがそれほど集まらなかったりすることもある。しかし、うちのお寺には何千という墓碑が建っていて、僕は「良かったやん。たくさん仏さん見てくれるやん、みんな褒めてくれているよ」と言う。作品を展示した方は「え、そうですかね」と言いながらも、遠景のケアを受けることができます。

アートの場合、近景に寄り切ってしまうことによって見失うものはたくさんあると思います。かといって、遠景だけだったら心もとないところもあるでしょう。両方がうまくバランスを取れたら1番良いのだと思います。
 

Photo by 應典院

より良く生きることに、人生の美しさがある

 
ーー先ほど、遠景に気づくためにはデザインが必要だというお話がありました。人間が意図を持って儀礼を行うことは、デザイン的な行為だと思います。一方で、それはすごく邪なことではないかと思ってしまって。仏教をデザインすることに対して、どのようなイメージを持たれていらっしゃるのでしょうか。

 意図を超えたところに型は生まれると思っています。ニューノーマルの文脈で「生活様式」という言葉が増えましたが、本来のスタンダードな様式は何かご存知でしょうか。たぶん存在しないと思います。

 
ーー確かに。

 
私は、意図や作為などを超えたところに蓄積される無為の結晶として、長い時間をかけて型や様式をつくり上げてきたのではないかと思います。それをないがしろにしたらいけません。生活習慣や規範などといった言葉は非常に古臭くて若い人は嫌がるかもしれませんが、その根底には作為のない無為の集積が語り継がれてきたことがあると思います。

 ホスピタルケアに関わっているときによく耳にするのですが、人は終末期になるほど自分の生活の在り方に思いを寄せていくと。例えば、普段どおりに料理を作りたい、いつもは食べていないレトルトが食べたい、私のお気に入りのブラームスを聞きたい、布団は〇〇でないと嫌、など。大体、衣食住に関わることなんです。

 基本的に、人生の終末期に収れんされるところに、自分が本当に意図してきたものが結晶化されていくんじゃないかなと思います。それは良く生きるということです。海外旅行に行くことや、おいしいものを食べることなどではなくて、もっとシンプルに自分自身のライフスタイルですね。

 儚いけれど、そういったところに人が生きることの美しさがあるのではないかと思います。意図はないけれど、願いがある気がします。

 
ーーありがとうございます。「願い」という言葉もまた、身体や感覚などといった言葉と接続し得る気がしますね。今後、應典院にも遊びに行かせてください。

 いらしてください。應典院で、何かやりませんか。

 ーーぜひ。またご一緒できれば嬉しいです。

 WONDER by Deep Care Labのnoteを拝見して、私があまり言語化できなかったことを表現していると感じました。私も、昔は「仏教のデザイン」なんて言ったら散々笑われましたけど、今はすごく大事だと思います。お互いに目指しているところが似ていると思うので、ぜひ企画しましょう。

 ーー今日はどうもありがとうございました。


おわりに

Deep Careは仏教の考えに近いということは仏教に関係する方々からよくかけていただく言葉でした。今回、秋田さんは「近景と遠景のケア」という観点から人間同士のケアと人間を取り巻く死者も含めたありとあらゆる存在のケアを語ってくださり、Deep Care Labで目指していることがまた1つ違った角度からみられるようになりました。
また、儀礼と私たちの意識・振る舞いとの関係についてのお考えには、現代の私たちは何を様式として持ちうるのか考えるきっかけになりました。

これから現代だからこそできるDeep Careに向かうあり方を應典院のみなさんとも一緒に考えていきたいと思います。

秋田さん、どうもありがとうございました。

書いた人:大畑朋子

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