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曼荼羅とは? 森敦が示した往還の回路

1 境界の思想 

 まずは森敦の言葉を聴いてみよう。
「出羽三山は庄内平野に立ち、左よりはじめて羽黒山、月山、そして月山の右に連瓦する葉山の謂であったのだと。もしそうだとするなら、出羽三山は金胎両部の一大マンダラとしてより完璧な姿を現し、その悠揚たる稜線を庄内平野の空に曳いたであろう 」 『マンダラ紀行』
 このように彼は山形県の庄内地方を曼荼羅と捕らえた。修験道の山として知られる出羽三山のうち湯殿山にある大日坊瀧水寺は空海が八百七年に開いた寺であり、あながち奇をてらった発想ではない。

 森は月山近隣で地元の「じさま」に導かれて山中の雪の中を歩いているとき天沼山のありかを教えられ、頂上に沼があるのかと思いきや、沼とは水が溜まっている沼ではなく、山に囲まれた空がそのように見えることから命名されたらしい、と悟る。空海が湯殿山を開いた折、投げた独鈷が突き刺さった山だとも言う。「じさま」は雲間から漏れた太陽の光がスポットライトのように天沼山の頂を照らし出し金色に輝きながら動いていく様を指し示してそう教えてくれる。
 しかもその光景は前世を思い出させるものだという。
 この「天」は単なる空ではなく、あの世、つまり現実を超越した別の場所を表している。「天」は外部なのである。森は戦時中、光学工場で戦闘機の機銃用照準器を制作しながら外部と内部の関係について思いを巡らせていた。

「任意の一転を中心とし、任意の半径を以って円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という」
                          『意味の変容』
 ここでは境界の所属が問題となっている。境界とは内部から見て、内部を規定している基盤であるから外にある。もし境界が内部にあるとすれば外からは境界が不明となり内部は存在しないことになってしまう。境界は外であると考えれば、今度は内部が境界に閉ざされていながら、内部には境界が属していないため無辺に拡大する可能性があるとも考えられる。
 境界とはこのように内部、外部いずれに属しても無限と向き合うことになる。こうした矛盾が起こるのは内部と外部を足し合わせた「全体」を想定するからである。「全体」は把握できない。境界がなければ「全体」は無限となり把握できないし、境界を定めても常にその外側のさらに外側を措定する必要が発生し無限遡行してしまう。
 この問題に対応するにあたって、森は照準器を手掛かりに集合論の基本に従ったのか内部と外部との対応関係性に注目している。内部と外部を一対一に対応させ、内から外を、または外から内を把握することはできる。
 その際、境界としての照準器はいわば認識装置である。敵を攻撃するために方向を定めるわけで視線の先にあるのは死である。内部の現実は銃撃であり外部では死となる。このように実行という形、つまりは因果によって、無限という矛盾を含みながらも人間は実存している、と考えた。
 戦後、ダムの建設現場で働き始めると内部に「近傍」という概念を導入して拡張する。これに対して外部は「域外」とする。近傍は空間的な距離だけではなく時間的な近さも含んでいる。どんなに小さく刻んでも過去と未来が存在し、微分のようにその間に近道を結ぶことができる。その原動力は矛盾であるという。ダムもまた水を溜める・吐くという両面を含む境界であり、相互に矛盾する力を孕んでいる。

「矛盾はつねに無矛盾であろうとする方向を持つ」 『意味の変容』

 「十年働き、十年遊ぶ」という生涯を送った森が『月山』で芥川賞を受賞したのは昭和四十九(1974)年で、当時は印刷会社に勤めていた。毎朝、通勤電車のロングシートで膝の上に原稿用紙を広げて書いていたという。奇矯な六十二歳の「新人」の登場に世間は沸いた。
 彼の生き方こそ矛盾をエネルギーとして道を開くものだった。光学工場、ダム建設会社、印刷会社、そしてその間の放浪、すべてが充実したものであったと回想している。決して自暴自棄や気まぐれの結果ではない。基底には人間の在り方を透徹したロジックで問い続ける姿勢が継続しており、その都度、必然性があった。働きながら考えて学び、そして学んだことを反芻するための時期を交互に繰り返した。
 思索の中心に据えられているのは内部と外部、内在と超越の問題であり、照準器やダムがそうであるように境界が問題となる。人が生きるということ、それは内部を保つことであり、外部とは他人であり、更にはいつか必ず訪れる死である。死こそ外部の極北であり、見極めようとする無限の彼方で生につながっているという。そして森文学の精髄は生を通じて死を、さらには死を通じて生を見ることにある。
 小説『月山』の冒頭に掲げられた、
 未だ生を知らず
 いずくんぞ死を知らん
 に端的に表されているように、冬の間、豪雪に閉ざされ自動車の往来も不可能になる月山はいわば天界、彼岸、超越の象徴であり、麓の注連寺は此岸、人の世の内部との結界に位置している。寺にたどり着いた語り手の「わたし」が主人公であるとすれば陰の主人公は行者のミイラ、いわゆる即身成仏である。
 密教の修行道場となった大日坊では高野山で悟りを開き入定した空海と同じように、生きたまま仏になろうと断食し生命の限界を超えて仏道を極めようとする者が現れ、代表者として真如海上人が祀られている。これに触発され同じく空海が開いた注連寺も含め、庄内地方には即身成仏の信仰が広まったらしい。鐘を叩きながら断食し、そのまま入定した修行僧として祠に祀られている。
 しかしその実は見世物として飾るため行き倒れのやっこ、つまりは大雪で往生した乞食の遺体から内臓を抜き燻製にして製作されると教えられる。
 ミイラは「薄笑っているか」に見える。
 その朽ちた目こそ、現実世界に開いた穴であり、そこから無限の闇が開かれている。ところが覗いてみると見返してくるのは観察者自身の視線である。
 いわゆるバニシングポイント、消失点である。
 遠近法を用いて絵画を描く場合、すべての線分は遠ざかっていくにつれ集まる地点がある。これが消失点で、現実には存在しないが外界を遠近法で表現するときにこの消失点が生じる。なぜならそれは観察者に向かい合う世界の側に転写された観察者自身の位置だからである。
 例えば、風景画の中心である消失点に穴を開けて鏡の前に置き、画布の裏にまわってその穴からのぞく。すると鏡面に景色が広がり、中心に自分の目があるのがわかる。これこそ観察者と世界の関係である。
 自己は自己によっては決して捕らえられないものであり、自分がそれだけは違うと思っているもの、絶対に否定したいもの、嫌なものこそ自分を自分たらしめている。端的に、自分を自分にしているのは自分ではない。
 これはラカンの指摘である。
 ではいったい誰なのか。
 焦点にいる者、それは死者である。つまり生を照射する死、いつか確実に訪れる自分自身の死がそこから覗いている。
 「わたし」も肘折温泉からの途上で大雪に閉ざされあやうく行き倒れに、つまりは場合によって即身仏になるところだったのを助けられたのであった。
 やがて寺に居候を決め込んだ「わたし」は吹雪によって室内まで粉雪が舞い込んでくるような寒さに耐えかね、古い祈祷簿を利用して防寒用のシェルターを作ろうと考える。まるでミイラが収められている厨子のようだと思いながらも、糊で古い和紙を張り合わせ蚊帳を作った。室内に吊り下げ、電球を引き入れて点灯してみると居心地は想像より良い。和紙が反射する柔らかな光と電球や自分の体温が醸すぬくもりのおかげだった。
 すると今度はその蚊帳が繭として感じられる。
 「わたし」はそこでなにをするでもなく冬眠し、いつか変成して飛び立つことを夢見るようになる。このとき和紙で作られた繭が境界となり内部の近傍ではどこに軸を置くのかも自由、その軸と域外のどこを対応させるのかも自由であり無限の可能性が開かれた。
 「わたし」は生と死の狭間で死、つまり外部にある超越に照射される生、内部の現実を問い返す。超越との接続は外に出ることではなく、胎内のような内部で見出される。それは己の知らなかった己自身でもあり、自己喪失の危険も孕んでいた。
 山中の寺で一冬、無為に過ごした「わたし」は、
 
「余ッ程、大きな考えのある人でねえば、こげだとこさ来て、なにもしねえでいられるもんでねえ」
 
 と寺のじさま(住職)に指摘され呆然とする。ミイラに見据えられ、魅入られ、転落の瀬戸際を歩いていたことに気がつく。そしてわざわざ自分を探しに来てくれた友人の勧めに従ってようやく境界を離脱することができたのである。
 このような生に対する死、内在に対する超越との往還を希求していたのは森だけではない。
 昭和四十九(1974)年にはオイルショックが発生し、ドイツを抜いて世界第二位の経済大国となり「昭和元禄」の宴に浮かれていた人々に冷や水を浴びせた。さらにロッキード事件が発覚、田中角栄が推進した「列島改造」は頓挫、公害、インフレ、過激派のテロ、汚職といった負の側面ばかりが目立つようになった。映画「日本沈没」や世界の終末を予言した書籍「ノストラダムスの大予言」がヒットし、UFOや超能力、新興宗教がブームとなった。都会への人口集中が進んだことから物理的な生活環境が変化したことはもちろんだが、地縁血縁は衰退し、不況は雇用に陰を落とした。経済的、社会的、そして文化的にも個人が拠って立つことができる基盤は失われつつあり不安が増大していた。
 国外に目を転じても、ヨーロッパではパリの五月革命以来、古きよき伝統的価値観が動揺し、アメリカではウォーターゲート事件やベトナム戦争の敗北で、退廃的なトレンドが蔓延、時代の転換点の到来と見えた。
 規範を失い動揺する社会を安定させるにはどうするべきなのか。規範、つまりは境界が動き、見えなくなってしまった時、内在にどのように超越を再接続するか。ハレとケをいかにコントロールするのか。古来、いろいろな智恵はあったはずだが過去に戻ることはきない。神仏に頼ることはできず、科学技術に対する信頼も揺らいでしまった。新しい神話が必要だがそもそも物語的な構造自体が懐疑に附せられていた。

2 両界曼荼羅が示すこと
 「十牛図」という禅のテキストがある。人が牛を求める過程を十枚の絵と文で描いたもので牛は真の自己の喩えである。人は牛を求めて訪ね歩き、第三図で見つける。連れて帰り飼い馴らすのに成功するが第七図では牛のことを忘れてしまう。第八図では人もいなくなる。そして第九図では外界がありのままに見え、第十図では他人に施しをする姿が描かれる。
 解釈はさまざまにあるがおおむね悟りの境地に至るプロセスの説明と言える。第七図以降が仏教、あるいは東洋思想に特徴的な往還の思想であり、修行によって日常を離れた超越的な次元に達し、そこから戻ることを意味している。
 何らかの欠如を抱えた主人公が問題を解決しようと旅に出て未知の異界へ達し、困難に遭遇、これを克服して帰還するという展開はある種の通過儀礼(イニシエーション)の物語として古今東西に普遍的であり、珍しい形式ではない。
 しかし、苦労して得たはずの牛を忘れてしまう、というくだりは奇妙でもあり、さらには主人公であるはずの人まで消え、第八図では完全な空白になってしまう点が物語としてはいささか不都合だ。
 真の超越は触れた者に破壊的な力を及ぼし滅ぼす。言語を越えた次元であるゆえと考えられる。それゆえキリスト教など一神教の超越者は決して姿を現さず、声だけを伝え、神的な形を刻むことを禁じる。
 一方、東洋の観想では超越と触れることによって存在を解体した後、日常に回帰することを試みる。この超越を志し、見出し、習得するが、さらにそこから日常に「戻る」ことこそ禅で入鄽垂手(にゅうてんすいしゅ)と呼ばれる重要なプロセスで老荘、大乗仏教、スーフィズムなど他の東洋思想にも共通であると井筒俊彦は指摘している。
 一度、死んで甦るということである。
 そんなことが可能なのか?
 キリスト教は、神=超越者と人間のハイブリッドである「キリスト」を甦らせることで解決を図った。復活が信じられなければ救われない。これがキリスト教の臨界点である。
 往還について森はメビウスの輪に喩えて説明している。
 仮に紙片の表を超越、裏を内在として、これをねじって張り合わせる。ねじれた帯となった表を辿ればいずれ裏となり、また表に戻ってくる。こうして超越と内在を往還できるというわけである。
 森によれば曼荼羅、そして宇宙も同じ構造である。両界曼荼羅、胎蔵曼荼羅(原初は胎蔵曼荼羅、後に金剛界との対比で胎蔵界曼荼羅)と金剛界曼荼羅は表裏一体であり、内部は一即一切として遠心性を持つ金剛界、外部は一切即一として求心性を持つ胎蔵を成す。
 そもそも曼荼羅は氏神の集合である、と森はNHKのディレクターに語った。そして戦争はこうした神々の奪い合いであり、勝者が敗者の神に序列をつけて並べていったのが曼荼羅である、と言ってのける。実際、不動明王がヒンズー教のシヴァ神であることから示されるように、曼荼羅に登場する仏神の多くは古代インドに土着の神々であり、仏教にとりこまれたいわゆる「天部」、仁王を筆頭に大日如来を取り囲む守護隊である。異教の神々を受け入れ、同化し、仲間にしてしまうというプロセスは注目に値する。例えば生体においても元来は他者・外部である無数の細菌が働いて機能が維持されており、特に消化器官では必須の存在であることを想起させる。
 また、このようにして成立した曼荼羅は世界の構造を示したトポロジーの一種であり、森は胎蔵を子宮、金剛界を脳と定義した。
 その上で昭和六十(1985)年、NHKの番組「マンダラ紀行」で東寺を皮切りに、高野山や四国の八十八カ所巡りを踏破、メビウスの輪を歩いて閉じようとした。同時期に書き進んでいた大作「われ逝くもののごとく」の主人公サキは、華厳経の善財童士に擬せられている。善財童士は多くの知者を訪ねながら修行し、悟りを開くがサキは多くの死に遭遇する。『月山』が死者の世界である彼岸、つまり外部を生、内部の側から探索していたとするなら『われ逝くもののごとく』は反対に死から生を照射する試みであった。

「生まれ生まれ生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死に死して、死の終わりに冥し」               『秘蔵宝鑰』 
 という空海の言葉を書きたかった、と森は述べている。内部としての生は無限に孕まれ、外部としての死は無限を孕む。

「ああ、世は夢か幻か」
                 『われ逝くもののごとく』
 という歌声で千六百枚に及ぶこの小説の末尾は茫漠と閉じられる。果たして森は外部の超越に、「逝くもの」、つまり死と往還することができたのだろうか。タイトルの「ごとく」が示しているように、言語表現では全体、あるいは無限の追求には矛盾がつきまとう。幻術としてのみ語らざるを得ないのが定めなのか。
 超越と内在を結ぶことの困難さはここにある。一対一対応の同一性論理では処理しきれない。曼荼羅は「ごとく」という手法で照応を示している。言葉と対象が正確に対応し、客観的対象を主観に対し表象する図式ではなく、ある種の比喩、つまり類似によって推測させることである。
似ている、似せることの重要性と恐ろしさがここには潜んでいる。
 神話とは記号体系であるとロラン・バルトは述べている。神話はメタ言語的に作用し、語られる内容ではなく、記述そのものがシニフィアンとして対象となる二重構造になっている。ここで働くシニフィエ、意味することは言外にあり時に命令や呼びかけの性格を帯びる。
 神話=物語では単なる等価な記号に過ぎないことがいかにも自然発生的な出来事に見えるように仕組まれ、人々はそこに事実を重ね合わせて読む。宇宙創生の秘密や神々の愛と葛藤、そして人間への教訓がまことしやかに語られる。
 詩や文学の一部はこれに逆行する。ある種政治的な神話学によって神話が言語を盗用していることを暴露し、シニフィアンとシニフィエの乖離、つまりは言語作用の限界を突き詰めつつ対象に戻ろうとする。
森が照準器やダムに発見した境界とその越境、月山、あるいは庄内平野を曼荼羅と見立て試みた往還も神話的作用の克服である。
 曼荼羅がトポロジーであるとすると、中心に大日如来が座し外側に向かって諸仏が円環構造を重ねる胎蔵は子宮であった。一方、九つの方形に区切られ、渦を描くように諸仏が列せられる金剛界は頭脳であった。
 いずれも多様な仏が配置され、無数の事物が互いに影響しあっていることを示している。因果をすべてときほぐすことはできない。常に変化し意味を転じてしまうからだ。現代人から見れば表徴としての仏身は児戯に類したものと感じられるかもしれない。しかしそれならば元素記号の並ぶ周期表はどうであろうか。果たして元素は実在していると言えるのか。元素を構成する分子、原子、更には素粒子へとミクロを遡れば超弦理論やループ量子重力理論などの諸説があるが物質の正体は確定していない。
 元素表が間違っているわけではない。それはあるレベルでの関係性を正しく表示している。
 実在が虚偽だというわけではないしこの世が幻なのでもない。
 しかし、外界は固定された物体ではなく常に変動している現象である、つまりすべては「モノ」ではなく「コト」であると考えるべきで、元素がそうであるように仏たちも「モノ」ではない。言語によって表現される概念が、あたかもそれと対応する不変な「モノ」が実在しているかのように錯覚を引き起こしているだけなのだ。
 こうして考えると「内在」は常住坐臥、発生している現象、つまり「コト」であり、「超越」とは実在していないのに実在しているかのように思える「モノ」であるとみえる。超越はファンタスム、フィクションなのであろうか。言葉が産みだす幻想であり、虚偽なのであろうか。
 周期表を例に取れば元素という超越は決して虚偽ではない。実験により確認された科学的事実である。問題があるとすればそれを実体視することであろう。元素と元素の関係、あるいは化学全体の中での位置づけ、そうした関係性とは別に水素や酸素という実体が永久不滅の神のように絶対的に存在しているという考え方が間違いであるだけである。
 水素や酸素はそれ自体として存在しているわけではなく、関係性の中で見つけられるものに過ぎず、それは人間の認識能力に限界があるからではない。
 すべては関係の中に見出される、これが仏教の縁起説であり、この考え方に従えばモノはコトの中で定められる。つまり超越は内在の関係に見つかるのである。ちょうど森が繭の内部で外部との対応を考察し、超越・死と内在・生を互いに照射させようと試みたように、迷路のような曼荼羅はこの回路を示そうとしている。修行僧が両界曼荼羅を前に瞑想するのは内在と超越を踏む往還を形成する作法なのだ。いくら見つめも見るほどに様々な様相が現われる。近道や王道はない。
 だとするといささか逆説的だが道は不可視となる。
 見えなくすることで見えてくる。いや、より正確には見えないものを見えるようにする。それが答えとなる。不可知論や否定神学ではない。
超越への回廊、それが曼荼羅である。
 今、なぜこの曼荼羅を理解することが重要なのか。それは物理的にも、社会的にもさまざまな側面でこうした回廊の機能が喪失されているからである。

 3 人体の境界・免疫
 コロナ・ウイルス、わずか千分の一ミリ程度の微細な物体が世界中で混乱を引き起こし、政治、経済、文化などあらゆる領域において人類の活動に影響を及ぼしていたことは記憶に新しい。新型コロナに限らずウイルスは生物の細胞に侵入し非生物でありながら遺伝子情報を持ち、寄生によって自己を複製するという厄介な性質を持つ。生物である細菌と異なり抗生物質で退治することもできない。 ワクチン接種によって抗体を作り、侵入してきたウイルスを撃退する免疫を高めることが対応策となる。
 免疫とは侵入した細菌、ウイルスなどの異物による病気の発症から身を守るため、生体に備わっている機能で、ワクチンはこれを利用し、あらかじめ弱毒化した病原体により抗体を作成させ、病気にかかりにくくする手法である。
 免疫学者・多田富雄はこうした免疫の作用を自己と他者の区別の観点から考察し、生体に於いては免疫作用こそが自他を決定づけていると指摘した。つまり免疫は内と外、内在と超越の境界として機能する。あくまでも身体機能を維持するためではあるが、免疫機構は都度、それが自己なのか、それとも異質な侵入者なのかを判別し、異物であれば攻撃する。治療の一環である臓器移植であっても容赦はない。生物学の観点では脳や意識による自己措定よりも免疫系が優先しているわけである。
 免疫系は決して不変の条項によって構成されているわけではなく、曖昧かつ寛容、そして冗長性を持ち、状況に対応して揺れ動くものであることも明かされている。従って自己と非自己、内部と外部の間に確定した定義があるわけではない。
 そもそも生体は異物を取り込み、エネルギーを消費しながら自らを維持しているネゲントロピー系である。外部からエネルギーの素材を取り込むことができなければ維持できない。多田は消化器官を例に挙げ説明している。口から肛門まで、人間の身体は管と捕らえられる。およそ八メートルに及ぶ管を毎日数リットルもの飲食物が通過する。複雑な作用により養分だけが取り出され残りを排泄する。これはいわば身体の内部にある外部とも考えられる。身体は取り込んだ外部を消化管で扱い巧妙に接点を維持しながら内部を保持する。一方的に排斥する、つまりは「下痢」のような状態が続けば生体は維持できない。自己とは異なる非自己との付き合いとして学ぶところもあるはずだ、ということになる。
 一方で免疫系の冗長性ゆえにシステムが暴走する場合がある。
 関節リウマチ、膠原病など自己免疫性疾患は排除すべきでない自己の組織を攻撃する現象である。また、微量ならば無害な物質に過剰な反応を示す花粉症、アナフィキラシーなどアレルギー性の疾患もある。新型コロナウイルスの重症化の原因の一つにもこうした免疫不全があり、肺の内部で免疫作用が暴走し、死んだ細胞によってできた血栓で呼吸ができなくなり死亡する例があると報告されている。
 多田はこうした免疫系の乱れをフィレンツェにあるルカ・シニョレッリの壁画になぞらえて説明している。十五世紀末、ドミニコ会修道士サヴォナローラが行った神権政治に触発されたもので、説教をするキリストは傍らに立つ悪魔の傀儡となり、暴徒と化した群衆は殺戮に手を染めている。この地獄画は理想主義者であったサヴォナローラの横暴を暗示している。彼は権力を掌握すると戒律の厳格な遵守を志した。贅沢品の排除に始まった施策は次第に恐怖政治の観を呈し、最終的には自分が火あぶりの刑に処せられたのである。正しいことを行ったはずでも度が過ぎれば害悪となる。
 過去の出来事であると突き放すことはできない。排除の問題はサヴォナローラの頃と変わらず階層や形態を異にしながらもさまざまな場所で噴出している。
 感染履歴やワクチン接種の有無で差別されるというような一時的現象ではない。コロナ以前から欧州の難民排斥やアメリカの人種差別が顕在化していたし、男女あるいはマイノリティも含めた性的葛藤、正規・非正規雇用の格差や富の偏在なども指摘されていた。いずれも自己と他者、内部と外部を区分けする法制度と社会的慣習、経済格差、文化的価値観などが壁となり、集団の間に免疫的な排除作用が働いて新参者を排斥する力が働いている。しかも区別の細分化と厳格化は絶えず進行している。経済的合理性のみが価値基準として力を増し普遍性の範囲が狭められた。効率を重視するあまり、目先の利益を最大化することに注力し、理解に手間と時間のかかる他者を排除する。他者・外部の排除はあらゆる場所でヒートアップしている。いわば熱が出ている状態にある。これはある種の警告と捉えるべきであろう。
 
 4 行き過ぎたセキュリティ
 内部と外部を分ける免疫作用について、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジトは「イムニタス」という概念を提唱している。
 イタリアではフーコーの「生政治」の概念について、先行したアガンベンとネグリが受容に当たって分裂し、アガンベンが生政治を「生」の管理体制とし、その典型をアウシュビッツに見出して否定的に捉えたのに対しネグリはマルチチュード、つまりは新しいタイプの人間集団を動かす概念として肯定的に捉えた。エスポジトはどちらでもなく両義的に「生」を輪郭付けるものとしての免疫作用に注目する。
 イムニタス、免疫とはラテン語のムヌス、義務、責任、贈り物などの否定であり、義務を免除されていることを示す。対してはコムニタス、共同体があり、義務を負い個を開くことを示す。免疫は医学的には感染しても病から免れるという意味だが、社会的には外部を排除し個を閉ざす作用として働く。
 近代社会ではイムニタス、免疫を強化する「セキュリティ」のみが一方的に進展し、とりわけ九一一以降、これまでになくテロの脅威が増大する中、不寛容な自己免疫作用が拡大した。ここでは国家権力が法律を免疫装置として用い、テロリスト、異分子、外部を排除しようとする。外部に向けて個人や組織、国家を守り、内部の葛藤を緩和する働きがあるはずだが、固有性に執着し、極端な施策に走れば破壊的作用をもたらす。過度なセキュリティはいわゆる魔女狩りやヘイトスピーチに代表されるような社会的病魔と同根であり、身体的な免疫の暴走、リウマチなどの疾患に例えることもできる。 
 純粋主義は歴史的には多田の挙げたサヴォナローラのほか、フランス革命のロベスピエールなどがすぐに思い浮かぶが、極北はナチズムであり、生を守るためのシステムが大量の死を生んでしまうという本末転倒の結果をもたらした。ナチスが守ろうとしたのは彼らが定義した正しい人間の未来で、その範疇に漏れる者を排除したのがホロコーストである。ユダヤ人は富を独占し、ドイツの人民から簒奪した。これが彼らのロジックである。それだけではない。共産主義者、精神薄弱者、身体障害者も含め社会の害悪と判断された人間は同様の処置を受けた。ナチスの犯罪はまずはユダヤ人との相克として語られるがそれだけではなく、「正しさ」の純度を高めようとした政治的方策にあり、外部を徹底的に排除しようとした社会の末路を示している。
 ここで問われているのは「正しさ」あるいは「正しい人間とは誰なのか」ということである。
 目新しい主題ではない。問題があるとすれば当初、その意味を察知できた市民が少なすぎたということであろう。ハンナ・アレントがアイヒマン裁判を傍聴し、アイヒマンの罪だけを問うことに懐疑を投げかけたことは大きな波紋を呼んだ。アイヒマンは普通の人であった。社会から課せられた義務を果たしただけで組織に忠実で勤勉な凡人であった。南方戦線で裁かれた日本軍の兵士についても同様の弁護はあっただろう。悪いのは指示した上官である、と。では「普通の人」には罪はないのか。それとも拒絶しなかったという点において罪なのか。
 結論から言えば「正しい人間」などあらかじめ定まっているものではない。
 「正しさ」は確定していない。判断の階層や要素は多岐にわたり一つに定められないし、状況は変動し続けている。あえて言えば「正しさ」を常に問い続けることが「正しさ」であり、このことで一定の「正しさ」は担保できる。
 それゆえコムニタス、共同体が要請される。
 「正しさ」を論議し、方向を定め、是正するためである。内部と外部の接点で、異論と対峙して取り込む場でもある。行き過ぎた義務の免除(イムニタス)を義務の負荷(コムニタス)でゆり戻す。
 内部はときに自らを否定され、抑制せざるを得ない。一方、外部も内部を受け入れることによって変化し、限定される面がある。内部を守るために免除される義務もあるが、内部を開き責務を果たす場面も必要なのだ。外部は内部との対話で構成され、義務を加減することもある。こうして内外が相補的に作用することによって互いが変動し続ける。
 しかし現実にはいつでもこうした社会的機能がバランスよく働くとは限らない。硬直化した正当性のみを声高に主張するレトリックがある。強化すればするほどに麻薬のような効果を及ぼし人々を惑わせる。免疫が鍵として用いるタンパク質と同様、自己同一性が一対一に適用され、敵か味方かを問うセキュリティが加速する。最終的には誰も残らない。人体に於いて自己免疫作用が病気をもたらすように現実の社会においても完全な同一性の追求は自己破壊へと進むからだ。
 感染防止策としてのワクチン接種は、巧妙な免疫作用の強化であり、敵の表徴を体内に導入し薬とする、つまりは毒をもって毒を制する仕組みである。
 ワクチンとは承認された悪である。
 悪の遍在により主要な悪は隠される。外部の外部性、毒性は緩和され、害を及ぼさなくなる。ある種の偽善である。例えばブルジョワ的資本主義が前衛芸術や環境保護など経済合理性には必ずしも適合しないことを受け入れることと同様であるとロラン・バルトは指摘している。
 感染症の拡大とワクチンの普及は暗喩とも感じられる。
 世界全体を震撼とさせているのはコロナウイルスだけではない。それは表面上の危機であり、実はもっと異なる階層で病魔が襲いかかっている。政治、経済、文化のあらゆる次元で硬直化した合理主義、ヒューマニズム、同一性の原理が席巻し弱者を死に至らしめていないか。正義を装った異端審問が人々の不安をあおり無実の犠牲者を生み出してはいないか。
 それらの毒を弱めた形で普及させ、ワクチンのように広めることで災厄を収めようとする動きは起こっていないか。かつてボードリヤールが「透き通った」と呼んだ悪である。この悪と向き合うのは難しい。承認され、透明となり、存在すら見極められないからだ。克服されたはずなのに気がつかないうちに全員が感染している病のことである。

5 出生という超越
 エスポジトはワクチンとは異なった視点から外部の導入を考察している。
「出生」である。 母親にとって胎児は他者であり異物である。内部にある外部とも言える。出生した瞬間、その他者は異質性にもかかわらず客として歓迎される。子は親から生命を贈与され。同時に義務を負う。ここに免疫・排除(イムニタス)と共同体(コムニタス)の交錯する場がある。
 他者を排斥することで自己を維持するのが免疫である。しかし出生のためにはその他者を庇護し生育させなければならない。出生と生育がもたらすもの、それは類似である。親と子は同一ではない。しかし、まったく異質な存在でもない。多くの遺伝情報を共有し、生育によって価値を伝えられていく。社会においても同様である。国民が全員、同一であるわけではない。しかし共有しているものはある。つまりは類似している。
 類似によって包摂と排除、両方の力が働く。
 価値観の似た者同士が接近し、共同するのはごく自然である。集団として合理的であり互いにメリットもある。しかし似ているがゆえに葛藤が生じる場合もある。兄弟がライバルとなるケースを想像すればよい。自分に似ている者ほど許せない。個性、唯一性が脅かされるからだ。ドッペルゲンガー、自己の分身像は幻覚とされるが、他者があたかも自己として振舞う怖さから、しばしば物語の主題ともなる。自己が盗まれている、という感覚は類似のもたらす斥力の原因となる。
 似ている者ははたして敵なのか味方なのか。
 エスポジトはこのような包摂と排除のシステムには西洋社会で暗黙の前提となっているペルソナ・人格という概念装置がかかわっていると考え、人称についての思索を深めていくがここではそれを追わない。
 免疫は両義的な機能である。元来、生体を守るためのシステムではあるが、同時に個としての生体が外部環境に接する場でもある。そこでは外部が簒奪、消費され、内部を維持するエネルギーが得られる。逆転すれば内部が奪われ外部に備給されてもおかしくはない。
   自然界を広く見渡せば明らかになることであるが生きることは他者の死を前提としている。子が生まれることで役割を終えた親が死ぬ種は多い。大部分の生物は他の生物の命を奪い蓄えられていたエネルギーを受け取ることで自らの命を維持している。生きること・内部と死ぬこと・外部とは連接しており、交互に繰り返すことで命を繋いでいく。これは善悪の彼岸を超えた事実である。
    免疫は外部と内部の接続と交代がスムースに行われるための方途であると考えられよう。その基準は同一性ではなく類似性である。二種択一ではなく同時に両者を選択することである。
    ウイルスは猛威をふるい世界中で多数の死者が出た。忘れてはいけないのはこのことはウイルスにとって本末転倒なのである。ウイルスは生物ではないので生体の細胞内でしか自己を複製できない。増殖するためには生物を利用する必要がある。寄生する生体を滅ぼしてしまえばウイルスも消滅するしかない。また、変異型の登場が危機として報じられているが、ウイルスの戦略からすればいかに生体側の免疫作用による攻撃を交わしながら増えていくか、模索しながら姿を変えていくのは当然である。新型コロナウイルスは蝙蝠に由来すると言われているが仮にそうだとして、蝙蝠を宿主として成功していたウイルスにとって、人類を宿主としてやっていけるのかどうか、試行の途上での犠牲であった。
   両義的な類似性は無限の階梯を含み、日々変化する。対応が終わることはない。アリストテレスは無限が実在せず可能的に、つまり思考の上でのみ想定できるとした。これは同一性の論理である。時間が経過しない静止した真理の世界ではすべてが一対一に対応する。しかし現実はそうではない。すべてが変転しており複雑な関係のうちにある。一つ一つの関係を因果として取り出し説明することもできるがそれはほんの一面に過ぎない。仏教で言うところの縁起である。
   パスカルは宇宙を前に畏怖と孤独を感じた。
  だが無限を対象物であるかのようにとらえ過剰に反応することはない。無限はそれ自体、神でもないし、科学的真理でもない。実体でもないし無なのでもない。
   無限を全体として把握することはできない。
   それはプロセスであり漸近線のような形で暗示することかできるだけだ。大切なのはそのことをさまざまな方法で示す智恵であり、不明なことを安易に悪と決めつけ排斥する態度を抑止することだ。曼荼羅に示されるように、あらゆる営みが内在と超越を結ぶ往還の回路となり、無限を踏破する方途とすればよい。曼荼羅に異教の神々が取り込まれていることを思い出すべきだ。
    今、必要な美徳は勇気である。
    見知らぬ他者を恐れ、委縮するのではなく受け入れる。いわば「賭け」に出なければならない。危険が伴うのはやむを得ない。答えもすぐには判明しない。自分だけが損をするのではないのか、という危惧や法を守っているのだからそれ以上、なにかをなすべき必要はない、という形式主義からの脱却が同一性ではなく類似性を基準とする共同体の形成には必須である。
    異性や移民はもちろん、犯罪や環境破壊から目を背けてはいけない。それら異物の根底には死者、死がある。死を見据えた時、人が本来の生き方を取り戻せるとハイデガーは説いた。そのことで彼はしばしば実存主義者に分類される。しかし日常的に死を意識することは生きることの困難にもつながる。死と連関して病や老いを想像する人もあるかもしれない。無関係ではないが生である老いや病と死は決定的に別である。死について思考するには覚悟がいる。
   森敦が若き日より憑かれたようが内部と外部の関係について語っていたのはこれを文学の使命と考えていたからであろう。
   照準器のレンズやダム、さらには両界曼荼羅を通して計り知れない外部、最終的には死と向き合う思索を巡らせ、メビウスの輪に喩えて言った。

「外部は内部に実現することができるのだよ。いや、内部を外部にに実現することもできる」          『意味の変容』

 内部の追及から外部は産み出される。徹底した内部の自己限定が自己のうちに他を見ること、ひいては普遍的思考へとつながる。反対に外部の限定は個に向かう。内部と外部は対応を持ち、公的な場での対話こそが内外を結ぶ。その際、安易に結論を確定せず両義性に留まり続けることができるのは文学の力である。
 生から死を見るだけではなく、死から生を見ること。死者の言葉に耳を傾けること。耳を澄ませば死者は常に語りかけてくる。幻聴ではない。言語を使うこと自体が死者との共存なのであるから。
 そのとき恐怖は希望に代わり、曼荼羅のような新しい見取り図の元で次の世代が産み出されるはずである。これこそ物語形式一般の単なるイニシエーションの枠組みに収まらない森敦の「往還」である。


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