デレラの読書録:石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
水俣病を題材にした作品。
題名の「苦海」とはメチル水銀を含んだ産業廃水が流れ込んだ水俣の海(不知火海)のことである。
水銀を含んだ魚介を食べた住民は水俣病を発症した。
つまり、苦海とは、人々を苦しめる海である。
では「浄土」とは、どういうことだろうか。
浄土というのは、仏教における、けがれや煩悩から解放された清浄の世界である。
メチル水銀が流れ込み、汚された苦海(不知火海)は清浄の世界とは似ても似つかない真逆の世界であろう。
清浄の世界は、もちろんメチル水銀の海のことではない。
それは水俣病と共に生きた住民たちが夢想する世界である。
水俣病は脳性の病であり、視力が悪化し、呂律が回らなくなり、身体が痙攣し、歩行を含む四肢運動が困難になる。
患者たちとその家族は健康的な生活から疎外されてしまった。
発症から企業側が責任を認めるまでの長い年月。
通院や補償交渉、デモ、陳情、か細い補償金に頼る生活の苦しさは想像に難くない。
当然彼らはこう思うだろう。
自分や家族がこんな病にかからなければ本当はキレイな不知火海で漁の仕事をしていたはずだ、と。
彼らは「水俣病にならなかった世界」を夢想する。
それが苦海と対になる清浄の世界である。
漁師街の住民たちは、その清浄の世界を、水銀で汚された苦海に重ねているのだ。
さて、この「浄土」の夢想は、実は二重に夢想なのである。
どういうことか。
まず第一に、先ほど述べたように、これは被害者たちの夢想である。
彼らは受難した。
先の見えない苦しみは救済への渇望を沸き起こす。
しかしながら浄土(清浄の世界)なんてものは、現実にはどこにも存在しない。
普通の生活感覚からして、どのような生活であっても、苦しみは存在する。
高度経済成長期の当時の地方漁村は、たしかに都市の社畜的な生活と比較すれば自由な生活であったかもしれない。
しかしながら、地方漁村は、それはそれで苦労があったはずだ(とくに経済的な裕福さにおいて)。
ようは、病が無くとも、元々の生活自体はそもそも苦しかったはずなのだ。
受難の苦しみは、実際には苦しみが伴っていたはずの普段の生活を、まるで極楽世界であったかのように変容させていたのではないか。
これは宗教的救済という全く人間的な精神の発露でもある。
くり返すが、受難は宗教的救済(=浄土)への渇望を沸き起こすのだ。
その意味では、浄土の夢想は、あまりに人間的である。
宗教的救済の渇望というのは、古来から続く人間的な営みだろう。
わたしもおそらく同じ状況に置かれたならば、救済を夢想するに違いない。
もしもわたしが生活を奪われるような病気になったとしたら、病に伏す前の生活がいくら苦しくとも、その生活がまるで清浄の世界であったかのように渇望するだろう。
そして、第二に、この浄土は作者の夢想でもある。
どういうことか。
本書は、被害者の話を聞くという「聞き書き」の体で書かれている。
しかし実際には取材と調査をもとにしているとは言え、筆者の想像を加えて書かれているのである。
確かに聞き書きにしては、被害者たちの言葉はあまりに文学的で、美しい。
旧文庫版あとがきでは、筆者自身が「自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの(p.362)」であると述べている。
作品内の被害者の言葉はあまりに文学的すぎる、程度はあるが、普通の生活者がこんなにもスラスラと文学的な言葉を喋るとは思えない。
筆者は、被害者たちの言葉に、いやむしろ言葉足りなさに、無言に、沈黙に、内なる救済への渇望を見出した。
そこに「浄土」という言葉を当てはめたのではなかろうか。
つまり、受難ゆえに渇望された「浄土」は筆者の想像の産物でもあるということ。
本書がこの脚色によって文学的な価値が下がるとは思えない。
読者の多くは受難のリアルさを感受してしまうだろう。
わたしにとって水俣病と言えば、義務教育の時に四大公害病として学んだ社会問題の印象だけがあり、つまり、歴史上の出来事なのであった。
行ったことも見たこともない、教科書の上での出来事である。
にもかかわらず、わたしは被害者たちの「浄土」への渇望の切実さをリアルに感受したのだった。
出来事を記憶するということ。
さらに後の世代が出来事の記憶を受け継ぐということ。
文学は読者に想像を喚起させる(やや強く言えば想像の喚起を強いる)。
その文学的な喚起力を本書はとてつもない強度で持っているのだ。
これ一冊で水俣病の全てが分かるわけではないけれど、浄土の感覚は知ることができる。
あとがき
上記文章は、読了の直後に書いた文章である。
このあとがきは翌日に書いている。
一日たって反芻してみると、わたしは本書のもつ蠱惑的な力に驚いている。
驚いている、というよりも恐怖すら感じると言った方がいいかもしれない。
わたしは、この『苦海浄土』のあまりに美しい文章に魅了されて、ほとんど一気に読んでしまった。
実際には通勤時間やお昼休みなどの時間に読んでいたのだけれども、読書しているあいだは、(使い古された言葉を使えば)ページをめくる手が止まらなかった。
文章のもつリズムにわたしは快楽すら感じていたと告白する。
扱われている題材は、あまりに悲惨であり、切実なものであった。
そういう題材に対して、快楽を感じてしまう時、わたしはいつも後ろ暗さというか、恥じ入るような感覚というか、呵責のようなものを感じる。
大衆化された作品を見て楽しんでいるときも、時々呵責を感じるのであるが、本書の文章的な快楽はそれを強く感じた。
わたしは、この石牟礼道子という作家を恐れている。