デレラの読書録:ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
この小説は、トマーシュとテレザという二人の主人公の恋愛小説である。
しかも、この二人の恋愛は単なる恋愛ではなく、形而上学的な恋愛である。
どういうことか。
つまりは、二人の信仰しているものが賭けられているということだ。
主人公を含め、サビナやフランツなどの登場人物らは「軽さ」あるいは「重さ」を信仰した。
パルメニデースによれば、軽さは肯定的で、重さは否定的である。
しかし、この物語はそういう単純な二項対立に対抗するために書かれたように思う。
本当に軽さは肯定的で、重さは否定的だろうか?
そもそも、この「軽重」とは何か。
それは、存在の「軽重」である。
存在の軽さと、存在の重さ。
どういうことか。
クンデラは、冒頭でニーチェの永遠回帰に言及する。
永遠回帰とは、人生は絶えず繰り返していて、そのたびに同じ人生を歩むこと意味する。
そう考えると、人生の一つ一つが重く感じられる。
なぜ重く感じられるのか。
それは、わたしにとっては一回の行為でも、その行為は後にまた必ず繰り返されるからだ。
人生はたった一回で過ぎ去るように感じるが、実は何度も生まれ直し同じ人生が繰り返されるということ。
したがって過ちも痛みも悲しみも、何度も繰り返すということ。
その意味で「重い」。
しかしその重さは、軽さにも転換しうる。
なぜか。
本書の言葉を借りれば、存在に「重さ」を感じることは、「キッチュさ(俗悪さ)」に関係していて、さらに抽象的に言えば「存在と絶対的に同意している」ということである。
つまり、キッチュさを避けること、絶対的に同意しないことで軽さに転換できる。
ではキッチュさを避けること、存在に絶対的に同意しないことは、どうしたらできるのだろうか。
トマーシュは、「Es muss sein!(そうでなければならない)」という運命の声に反することで、それを実現する。
端的に言い換えれば、メタに考えるということ。
ベタに生きるのではなく、メタに生きること。
トマーシュは、そうでなければならない、と考えられることに対して、逆張りする。
そうすることで自分の存在を軽くする。
トマーシュとテレザは、軽さに挑戦するのだ。
一方でサビナは、その軽さに耐えられなくなる。
重さも軽さも、どちらが良い、どちらが悪いというわけではない。
二人は運命に抗えない。
軽さと重さの二項対立に対抗するこの物語は、それでもやはり運命への抗えなさに屈服している。
それは悲惨だろうか。
あるいは、永遠に回帰するひとつの存在が、独自の輝きを見せる、その一瞬の軽さだけが、運命に対抗することができたことを証明しているのかもしれない。
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