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エッセイ:歌うことについて


メッセージというものには二種類ある。

ひとつは、届くことが、あらかじめ分かっているもの。

もうひとつは、不意に届いてしまったもの。

そして、わたしにひとつのメッセージが届いた。

「――アナタの歌うは、なぁに?」
(暁 夜花「其ハ、詠ヒ遺スコト」より)


さて、このメッセージは、冒頭に挙げた二つのメッセージのどちらにも当てはまらない。

どういうことか。

このメッセージは、届くことが分かっていたわけではない、けれども、メッセージが届くかもしれないという予感はあったという意味で、全くの不意でもない。

予感があった、というのはわたしの勝手な解釈であり誤解だ、と言われてしまうかもしれない。

しかしながら、実際に予感があったのだから仕方がないし、わたしは、わたし宛てのメッセージである、と受け取って(あるいは、誤解して)しまったのだ。

従ってメッセージは三種類ある、と訂正しなければならない。

三種類とは、1届くことが分かっていたもの、2不意に届いたもの、3分かっていたわけではないが予感があったもの、である。

このなかで、最後のひとつに出会えることは、稀であり、一言で言えば幸運だと言える。

だから、わたしはこのメッセージに応えたい。

歌うとはなんだろうか。

わたしの仕方で考えてみる。

1.歌うとはどういうことか、図式的な仕方で

歌うとはどういうことだろうか、この難しい問いにどのように取り組んだら良いだろうか。

仮に、「歌う」ということは「ひとつの行為だ」としてみよう。

「行為」であるからには、始まりがあり、終わりがある。

言い換えるなら、歌う前の状態があり、実際に歌う状態があり、歌い終えた状態がある。

図式化してみる。

歌う前の状態

歌う状態

歌い終えた状態

取り急ぎ、わたしたちは、この時間順序的な、図式的な視点から「歌うこと」について考えてみよう。


歌う前の状態にあるわたしは、まさに何かを歌おうとしている。

そのとき、歌うべき何かが、わたしのなかに渦まいているだろう。

昨日食べたごはんのことか、観た映画のことか、読んだ小説のことか。

あるいは悲惨な事件、あるいは感動的な出来事。

わたしは、何かに出会い、それを歌おうとしている。

出来事

渦まく何か

歌う前の状態

歌う前の状態から、実際に歌う状態に推移するためには、何かキッカケが必要だ。

キッカケは、渦まく何かが「形」を得ること。

何ものでもない「渦まく何か」は、「形」を得ることで、ようやく外に出ることができる。

歌は「声」という形を得て初めて表出する。

出来事

渦まく何か

歌う前の状態

形を得る

声が出る

歌う状態

では、歌い終えた状態とは、何だろうか。

それは「形=声」を得た「渦まく何か」がすっかり外に出尽くしてしまうことに他ならない。

そうでなければ、歌い終えることはできないだろう。

終わらない表出はない。

現実には必ず終わりが来る。

そしてまた、新しい出来事に出会うのである。

出来事

渦まく何か

歌う前の状態

形を得る

声が出る

歌う状態

渦まく何かが出尽くす

歌い終えた状態

出来事


歌うことは、ある意味で円環的な行為なのだ。

わたしにとって「歌う」ということは、「出来事」に「形」を与え、「表出する」ことである。

そして、歌い終えるたびに思う。

わたしの「形=声」が、聞く人にとって、心地よいものであればよい、面白いものであればよい、楽しめるものであればよい。

そのために、わたしは、出会った出来事にどんな形を与えようか、と日々考えている。


さて、わたしは、歌うことについて考えてきた。

歌うことは行為である、ということに注目して、歌うことの過程を図式化してみた。

しかし、これで「歌うこと」について、わたしは理解することができただろうか。

あのメッセージに対して応えることが出来ただろうか?

もちろん、否である。

上記のような図式化は、行為についての理解は助けてくれる。

しかし、「歌うこと」は、このような「時間順序的なもの」で「図式的なもの」なのだろうか。

時間順序や図式は、歌うときの「あの気持ちよさ」、あるいは、歌うときの「あの歌い難さ」を捉えそこなっている。

「何を歌っているのか」について、わたしは、なにも理解できていない。

歯からこぼれ出るようなあの喜びの歌声を。

何も歌えなくなり声が出なくなったときに感じるあの喉のざらつきを。

改めて、わたしは問い直す、歌うとはどういうことか。

この問い直しのために、わたしは図式的な思考を放棄して、別の仕方で思考しなければならないだろう。


2.歌うとはどういうことか、詩的な仕方で


陽の光。昼。

葉が揺れるのに合わせて、陽の光が揺れている。

初秋は、金木犀の香りを忘れてしまった。

日影では、冷たい風がわたしの髪を撫でて、耳がこそばゆい。

わたしは、耳のこそばゆさのままに、声を出す。

高い声が出る、笑う。

笑い声は風に乗って、向こうへ流れ消えた。

声が消えてゆくのが楽しくて、わたしはまた声を出す。

風に乗せてしまおうと、風の流れに合わせて声を出す。

メロディは、風の流れなのだ。

わたしは歌っていた。

空に浮かぶ雲がわたしの歌声を跳ね返す。

草むらの生える音、すべり台とブランコ、公園という楽譜。

子どもたちの声にわたしの声は負けてしまう。

干された洗濯物は揺れる、子どもは歌う。


先ほどの図式をみれば、まず「出来事」がある。

そして、その「出来事」に、わたしは「形=声」を与える。

つまり、わたしは、「出来事」について歌うのだろう。

「出来事」は、そのまま歌うことはできない。

「出来事」は「形=声」に変換することで歌うことができる。

そして、ときどき、変換に失敗する。

変換に失敗すれば、当然、歌は歌えない。


暗転。夜。

アスファルト、水溜り、雨の跡。

コンクリートの壁に顔の絵が描かれている。

わたしはその顔を知っている。

あの眼が見つめる先に、わたしの知らない記憶がある。

金属が強く擦れる音が鳴り、足元の水溜りが突然に光った。

頭上を電車が通り過ぎる、ここは高架下。

水溜りに反射する、電車の明かり。

わたしはあの壁の顔を知っている。

見つめる先の記憶がわたしに話しかける。

わたしは分からない。

わたしは分からない。

わたしは分からなくなり、声を忘れた。

喉の渇き、記憶は水分を奪う。

記憶、記憶、記憶。

わたしの知らない、わたしの記憶に、わたしは眼差され、うめき声も出ない。

やめてくれ、という声は、喉に張りついている。

わたしはこの感情を歌えない。

喉のざらつき、そして、アスファルト。



わたしは、歌うときに歌い、歌えないときに歌えない。

歌うとはどういうことか。

歌うとき、すでに身体は歌っており、歌えないとき、身体は歌えない。

歌うとは、身体の動きである。

身体の動きとは、踊りである。

したがって、歌うことは、踊ることだ。


わたしは、いささか唐突なこの結論に、満足している。

図式を迂回し、詩に飛びうつることで得たこの結論に、あなたは、満足してくれるだろうか。

問い
歌うとはどういうことか。

結論
「歌を歌う」とは、踊りである。
そして、「歌を歌えない」も、踊りである。

後段の結論、「歌を歌えない」という踊り、言い換えるなら、踊れない踊り、形容矛盾。

唐突な結論に合わせて、唐突な問いが生まれた。

踊れない踊り、とは何か。

図式的で時間順序的な仕方では、取り出せなかった問いである。

しかし、いまはこの問いを追いかけることは止めておこう。

これは別の機会にゆずる。

何より、わたしは、いま、あなたと踊りたい。


おわり

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