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デレラの読書録:金原ひとみ『オートフィクション』
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金原ひとみ,2009年,集英社文庫
「何ですか? オートフィクションって」
「一言で言えば、自伝的創作ですね。つまり、これは著者の自伝なんじゃないか、と読者に思わせるような小説です」
先の引用部によって、この作品が自伝(ノンフィクション)なのか、それとも創作(フィクション)なのかが宙吊りにされる。
章立ては22歳冬、18歳夏、16歳夏、15歳冬の四章。
各章の主人公は高原リン。
物語は緩やかに繋がっていて、時代をどんどんと遡っていく展開で、22歳リンの過去を覗き見る感覚。
第一章の最後に決定的な一段落がある。
無音の部屋。そこに響くのは、私の爪と指がキーにぶつかる音。ノンストップの音楽は一つもない。ソファには静かな犬が一匹。
この一段落によってわたしたちは改めて自伝と創作の間に置いてけぼりにされてしまい、判断を宙吊りにされてしまう。
22歳のリンはトランクの開く音に恐怖を感じている。
これは、記憶というトランクを開いて、抱えている過去が飛び出すことを恐怖していることをシンプルに示している。
読み進めることで、その過去が展開される。
そこにはあるひとりの人間の人生がある。
人生は自動的に生じるのかもしれない。
流れのままに生きる人間の、流れてきた「流れそれ自体」について。
大きな流れを作る力。
わたしたちは、その流れを物語であると錯覚する。
でも、どのようにして、この自動的な流れをわたしたちは「物語である」と感じるのだろうか。
ようは、自動的に生成する人生は何によって物語化されるのか。
流れに抗うようで抗うことなく、でも抗いながら紡ぎ出される物語は、やはりキータイピングによって刻まれる。
そうして初めてわたしたちはこの文章を読むことができるからだ。
先に引用した部分を再度引用しよう、ここにわたしたちがオートフィクションを読むことができる起点がある。
「私の爪と指がキーにぶつかる音」
流れは、流れのままでは、単に流れていくのだろう。
キーボードを押下し、文章を書くことで、流れを固体化することが出来る。
しかしそれは錯覚だ。
流れを文章化した物語、つまり小説は、確かに流れを表現しているのだけれど、それはフィクションに過ぎない。
書くことそれ自体のフィクション性を金原ひとみは暴露する。
流れ、書くこと、自動的な流れ、それを書き留めること、まるで流れであることを標榜すること、それは嘘だ。
オートフィクションは、自己言及的に自らのフィクション性を暴露しながら、「流れ」の存在を見事に受け止めている。