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感想文:映画『アステロイド・シティ』について(ウェス・アンダーソン監督)
ウェス・アンダーソン監督の映画『アステロイド・シティ』(2023)を観たので、感想文を書きました。
以下、ネタバレあります。
わたしが抱いた感想は「奇妙な反転が起きている」ということです。
では、一体何がどのように反転したのか。
1.ややこしい世界設定
ここでわたしが言いたいことは、この映画は、二つの世界を同時進行する、という「ややこしい世界設定」になっており、その結果、観客に対して世界のフィクション性を暴露している、ということです。
『アステロイド・シティ』という映画の世界設定は、一見、ややこしく作られています。
どうしてややこしいのか。それは世界を二重にしているからです。
まず第一に、現代劇作家が書いた「アステロイド・シティ」という舞台作品があり、その舞台作品が演じられています。そして、これが映画『アステロイド・シティ』の大部分を占めています。
それと並行して、その「アステロイド・シティ」が撮られた裏側をドラマ仕立てで放送されます。演じるのは、「アステロイド・シティ」の役者たちです。
注 表記について
この先、映画『アステロイド・シティ』という表記は映画全体を、「アステロイド・シティ」という表記は劇中劇を、「舞台裏のTVドラマ」という表記は舞台裏の演劇を指します。
ようは、二つの世界が描かれるのです。第一に「アステロイド・シティ」というメインの演劇と、第二に「アステロイド・シティ」の舞台裏のTVドラマというもう一つの演劇が、交互に描かれていきます。
注 順序
本来は舞台裏のドラマの方が先に出てくるので、舞台裏のTVドラマを第一とすべきですが、ここでは、わたしは恣意的に「アステロイド・シティ」をメインの演劇であると記載しています。
二つの演劇を演じる役者は一緒であり、映画『アステロイド・シティ』の役者は二重の世界を生きることになるます。
たとえば、二つの世界で、役者は恋愛の相手も異なれば、セクシュアリティも異なるという演出があります。あるいは、主人公の男は、演劇の中では戦場カメラマン、舞台裏のTVドラマでは現代劇に抜擢された俳優を演じています。(俳優を演じるというややこしさ)
このように、映画『アステロイド・シティ』は、世界設定が二重に設定しているのですが、その二重性を全く隠そうとしません。
どういうことか。
冒頭でテレビの司会者が出てきて、これから演劇の裏側をTVドラマ仕立てで放送すると言い出します。
しかも、司会者を撮るカメラが画面に映り込み、さらには、サブ(テレビの副調整室)の音響機材すら画面に映り込み、また、役者の役作りのシーンや、小道具、配役のゴタゴタ事情なども描かれます。
ようは、「アステロイド・シティ」も「その舞台裏のTVドラマ」も、執拗に作り物(=フィクション)であるということが強調されます。
このように、この映画は、何でそんなことするの?と思ってしまうくらい、ややこしい世界設定をしている映画なのです。
では何故、わざわざ世界を二重にして、さらにそれぞれの世界がフィクションであることを強調するのでしょうか。
次章では、この世界で描かれるストーリーについて考えてみます。
こんなややこしい世界設定で、一体どんなストーリーが描かれているのか。
注 要約について
なお、もっと立ち入った要約は下記のwikiを参照してください。
2.シンプルなストーリー
ここでわたしが言いたいことは、ややこしい世界設定とは対照的に、二つの世界のストーリーは意外とシンプルだった、ということです。
もちろん、細かな(そして魅力的な)枝葉のストーリーは沢山あります。(あるいは、ウェス監督特有の色の美しさ、喜劇的なセリフの応酬!)
しかし、わたしの感想文では、ややこしい世界設定のわりに、映画全体を駆動するストーリーはとてもシンプルなのではないか、ということを取り上げたいと思います。
では、映画全体を駆動するストーリーは何だったのか。
それは「感情を手に入れる」ということです。
もう少し強く言えば、「感情を取り戻す」ということ。
メインの演劇「アステロイド・シティ」のストーリーは、(わたしの観点からザックリと切り取って仕舞えば)妻を亡くした主人公オーギーが、妻の死の悲しみを引き受けるというものです。
オーギーは、妻を亡くした後で、息子と三人の娘を連れてアステロイド・シティを訪れます。しかし、未だオーギーは妻の死を受け入れられず、子らに母の死を伝えられないでいたのでした。
そして、立ち寄ったアステロイド・シティで過ごすゴタゴタの中で、妻の死を、その悲しみを受容していくのです。
さて、この映画は世界が二重化しているのでした。
もう一つの舞台裏のTVドラマの方では、メインの演劇「アステロイド・シティ」の成立過程が描かれています。
そこで、主人公オーギー役の役者は、役作りをするなかで、オーギーという役の解釈に悩み、脚本家に訊ねます。
オーギー役の役者が特に悩んでいたのは、「アステロイド・シティ」の中で、オーギーが手に火傷を負うシーンでした。
脚本では、オーギーはアステロイド・シティのモーテルで隣室に泊まっている女性・ミッジと窓越しに会話をしながら、自らの手を熱々のトースターに押し付けて火傷を負います。
何で、自らの手をトースターに押し付けるような、おかしなことをするのか。
脚本家も「わたしも分からない、勢いでそう書いた」と答えます。
では、この「手の火傷」という記号は、何を示すのか。
それを知ることが、舞台裏のTVドラマのストーリーです。
ようは、舞台裏のTVドラマは、「アステロイド・シティ」を成立させるための、主人公の役柄の解釈が何であるか、それ問い求めるストーリーなのです。
さてつまり、この映画には、二つの世界があり、二つのストーリーがある、ということになります。
何だ全然シンプルじゃないじゃないか! 世界設定はややこしいけれど、ストーリーはシンプルだと言ったじゃないか! と思われるでしょうか。
でも待ってください、実はここにあるストーリーは二つじゃなくて一つなのです。
どういうことか。
「妻の死の悲しみを受け入れること」と「主人公の役の解釈」は、実は同じ一つのことを指しているからです。
ようは、「主人公の役の解釈」=「妻の死の悲しみ」であり、その受容がメインストーリーであるということ。
言い換えると、主人公オーギーと、主人公オーギー役の役者は、同じことを、それぞれの世界から別の形で問うているのです。
このように、ややこしい二重の世界は、このシンプルな問い、共通の一つの問いによって駆動されている。
では、妻の死の悲しみは、あるいは、主人公の役の解釈は、どのようにして受容され、解釈されるのでしょうか。
3.カットされたシーン
ここでわたしが言いたいことは、「悲しみの受容」と「役の解釈」は、ある一つのシーンで同時に解決する、ということです。
二つの世界の問題を解決するシーンは、とてもややこしいシーンです。
では「ある一つのシーン」とは、どういうシーンか。
それは次のようなシーンです。
オーギー役の男は、オーギーを演じている途中で、役の解釈が分からなくなり、混乱して、舞台裏に逃げ込み、ある女性に再会します。
その女性は、オーギーの妻役の女性の俳優で、配役はされていたものの、脚本の都合で「アステロイド・シティ」の出演シーンはカットされ無くなっていました。
カットされたシーンはどのようなシーンだったのか。
それは、アステロイド・シティに訪れたオーギーはある日、オーギーの夢の中で亡くなった妻と会話をするシーンでした。それがまるまるカットされてしまっていたのです。
さて、舞台裏に話を戻します。舞台裏でオーギー役の俳優と、オーギーの妻役の俳優は偶然再開したのでした。
妻役の俳優は、たまたま別の演劇に出演する予定で「アステロイド・シティ」を撮影している撮影所に来ていたのでした。
そこで、妻役の俳優に「あのシーン覚えてる?」と聞かれたことをキッカケに、二人はカットされたシーンのセリフを反芻しました。(どんなセリフのやり取りだったかは是非作品を見て下さい。)
これは言わば、カットされたシーンの簡易的な再現です。
このシーンの再現によって、オーギー役の男は役の解釈を理解し、オーギーとして「アステロイド・シティ」に戻り、妻の死の悲しみを受容したのです。
これはわたしの解釈ですが、このカットされたシーンは、妻の最期(死を看取るシーン)の再現なのではないか。
どういうことか。
ようは、オーギーは妻の最期を看取ることが出来なかった(戦場カメラマンとして戦場に出ていた?)のではないか。
あるいは、闘病の末の最期であったため、お互いに安らかに言葉を交わすことは出来なかったのではないか。
したがって、オーギーは、二度、妻と最期を過ごす機会を失っていたということ。
どういうことか。
一度目は、実際に妻の最期を看取れなかった(最期に言葉をやり取り出来なかった)、そして二度目に、妻と夢で邂逅するという最期の再現のシーンさえカットされてしまった、ということです。
つまり、その二度の喪失が、オーギーという役の解釈を毀損し、妻の死の悲しみを受け入れられない原因となっていたのです。
だから、舞台裏で偶然、妻役の俳優と再開して、カットされたシーンを簡易的にでも再現することで、「妻の死の受容」と「役の解釈」の二つの世界の問題が同時に解決したのです。
4.フィクションを通して
ここでわたしが言いたいことは、感情というものは、フィクションを信じる(嘘を信じる)という反転した仕方によって受け入れることが出来るのではないか、ということです。
この映画はやっていることは至ってシンプルです。
ようは、感情を受容するにはフィクションを経由する必要があるということです。
感情をフィクションを通して取り戻すということ。
あるいは、フィクションを通して感情を受け入れること。
役というフィクションを経由して、言わば、嘘の存在(役=架空のキャラクター)を経由して、感情を受け入れることが出来るということ。
オーギー、あるいはオーギー役の男は、夢の中で死んだ妻と邂逅するシーンという、カットされ存在しなかったシーンの再現を通じて、役の解釈を、感情を受容したということ。
そこでは奇妙な反転が起きているでしょう。
どういうことか。
現実に起きた出来事、つまりリアルな出来事についての感情は、そのまま受け入れることが出来ない、そういうリアルな感情があるでしょう。
そして、リアルな感情を受容するには、一旦それを役の解釈として、フィクションを介して、フィクションの中で起きた出来事を信じることで可能となる。
飛躍すれば、リアルを生きるには、フィクションを信じる必要がある。
現実のために、嘘を信じる。
たとえば、フィクション内のキャラクターが自分の感情を代弁してくれているような気持ちになることがあるでしょう。
映画『アステロイド・シティ』は、ややこしい世界設定をした上で、そんなシンプルなことを描いているのではないか。
リアルを生きるためには、フィクションを信じなければならない。
これは、映画内のキラーフレーズに言い換えれば、「目覚めるためには、眠らなければならない」ということです。
リアルを生きるためには、あるいは、目覚めるためには、それを一度反転させなければならないということ。
奇妙な反転。
それがこの映画で描かれていたのではないか。そんな風に感じました。
あなたはどのようにこの映画を観たでしょうか。
おわり