デレラの読書録:金原ひとみ『持たざる者』
持たざる者は、自分とは違うものを持つ者に対してコンプレックスを感じる。
ではコンプレックスとは何か。
持たざる者のコンプレックスは、持つ者の存在によって自分の在り方自体を否定されている、と感じることである。
在り方の否定は、個人を徹底的に不安にさせる。
金原ひとみの小説の面白いところは、そのコンプレックスの構造をさらに反転させることだ。
つまり、それはほとんど妄想でもあるということ。
ようは、持たざる者のコンプレックスは、そのひとがストーリーとして捏造したもの(妄想)である、ということ。
この徹底的に冷めた視点の切れ味とは裏腹に、登場人物たちは人間的に魅力的に描かれていく。
コンプレックスを捏造した登場人物たちは、偏りを持ち、周囲と摩擦を生みながら、生きていく。
原発事故による放射能汚染を恐れて妻子を西へ逃そうとする男。
我が子を失いぽっかりと空いた穴を埋められない女。
何にも執着しない性格ゆえに根無草となり帰属感を得られない女。
自分の理想の家庭観以外を受け入れられず、それに少しでも反する現実に絶望を感じる女。
登場する四人の男女はそれぞれに自分勝手であり、他者に興味がない(有るようで無い)。
なぜこうも人に興味を持てないのだろうか。
わたし自身にもその問いが突きつけられる。
この小説の恐ろしいほど現実感のある生活描写、現実世界の再現性が、読者に問いを突きつける。
なぜ自分勝手なのか、なぜ自分の問題こそが一番重要な問題だと感じるのか、なぜ人に興味が持てないのか、なぜ人をレッテル貼りしてしまうのか。
わたしは突きつけられたこの問いに絶句する。
どういうことが。
読者であるわたしは登場人物に自己投影するからだ。
そうかわたしもまた持たざる者なのだ、わたしもコンプレックスを抱いているのだ、わたしにも喪失感があるのだ、わたしも判断基準を喪失してしまったのだ、わたしも世界を失ってしまったのだ、という「ストーリー」を捏造してしまう。
読者は、登場人物を媒介にして、ストーリー(妄想)を捏造する、ということ。
この事実に、わたしは恐怖する。
この恐怖を簡潔に表現するならば「世界が信じられなくなる感じ(p.193)」だろう。
わたしは世界が分からなくなり、世界が信じられなくなった。
突きつけられた問いから逃げるようにして、またわたしは登場人物に感情移入し、自己投影して、さらには自己規定する。
わたしは「持たざる者なのだ」という自己規定。
この自己規定は、ある種の快楽であり、恍惚でもある。
まるで麻薬のような感覚だろう。
この感覚をナルシスティック・ペシミズムとでも呼ぼう。
世界から疎外されたと嘆くナルシストが、悲観的に自己を憂いて、恍惚としている、ということ。
しかしすぐに気がつき、思い出す。
「人はストーリーを作ってしまう生き物だ」。
金原ひとみの冷ややかな視線を感じる。
そして、ゾッとして、不安になって、登場人物に自己投影する。
ループが生じてしまう。
読者はこの小説の罠(ループ)から無事に戻れるだろうか。