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デレラの読書録:金原ひとみ『fishy』


『fishy』
金原ひとみ,2023年,朝日文庫

飲み屋で繰り広げられる3人の女の会話。

保守的で家庭がありキャリアもある弓子、相対主義者で理屈っぽいインテリアデザイナーのユリ、無意識の破滅願望があり周囲に流されがちなライターの美玖。

それぞれ主義主張は異なり、時に喧嘩しながらも保たれる関係。

3人の中でもユリの相対主義っぷりは凄まじく、もはや自己分裂の域であり、昨日と今日の自分すら乖離させるほどである。

ユリは一つの固定的な人格から逃げようとする。

それは「私」という一人称からの逃避である。

「私たちは悲しくも今に囚われている。今の私は今の私でしかあり得ない。これ程の不自由があるだろうか。目の前にいる人が何者なのか、自分が何者なのかという命題から逃れられないのも、私たちはそれぞれ確固とした個人であるという幻想に囚われているからに違いない」

(p.250)

「私」は「私」という個人に囚われている。

そんなものは幻想だとユリは言う。

そうしてユリは自分を分裂させる。

「私は自分の赤ん坊を殺害した」
「私は不倫して娘の親権を夫に取られた」
「私は夫を殺害して冷凍庫に入れている」
「結婚も子ども実はいないすべて嘘」

整合しないことをツラツラと並べ始める。

どれが本当でどれが嘘か分からない。

しまいには、もはや真実はどうでも良くなる。

言わば、ユリは真実と嘘が入り乱れた存在なのである。

真実と嘘が入り乱れて確定できない。

ある時は真実であることが、別の時には嘘になる。

人によって、見るときによって真実と嘘が反転する。

言い換えれば、反転するということは、ユリの真実性(あるいは嘘性)を確定するのは受けると側であるということ。

どういうことか。

つまりは、ユリは鏡なのである。

ユリの言うことを真実だと受け取りたい人には、それが真実に見え、逆に嘘だと受け取りたい人にはそれが嘘になる。

したがって、ユリは、弓子と美玖の姿を映し出す鏡になる。

弓子は夫に不倫され離婚を要求される。

離婚調停という状況の中で、ユリという相対主義の鏡に照射された弓子は、自分の欲望、夫と子どもたちとの関係性、結婚したことの意味が揺らいでいく。

自分が真実だと感じていた「結婚観」が、嘘に変わる。

また、美玖は逆に既婚者と不倫して、それが正妻にバレて慰謝料を要求される。

不倫の背徳的な快楽から一転、負債者の窮地に立たされ絶望に落ちいる。

慰謝料を支払うなかで、一時の恋愛の享楽から目が覚める。

あの時の恋愛が、嘘に変わる。

弓子と美玖の心情の変化には、常に相対主義者のユリが関係している。

言って仕舞えば、弓子と美玖は、自分の境遇に不安になり、都合の良いストーリーを作り出して消費していた。

そのストーリーを、言わば「信念」のようなものと偽装して自分を納得させていたのだ。

それを、ユリは鋭く見抜く。

ユリという存在に、二人の存在は否定される。

お前らはストーリーに溺れているに過ぎないのだ、と。

おそらく、読者もまた、ユリという相対主義の鏡に晒されることになるだろう。

読者は弓子、美玖、ユリに対して、悲劇的なストーリーを期待して、自分の「読み」に落とし込もうとするだろう。

ようは、悲惨さの中で立ち上がるキャラクターを期待するということ、言い換えれば、読者はドラマに感動したいのだ。

しかし、この物語で見せられるシーンや思考、会話劇は、登場人物たちの一面にすぎない。

ユリの正体は、最終的に明らかにならない。

このことが、ユリの分裂を無限化し、あらゆる可能性を内包させる。

ユリは、悲劇的な物語の登場人物である、という設定から逃げ切ったのだ。

つまり、この物語は、ユリというキャラクターが、ストーリーに押し込まれることから逃れる物語であるということ。


さて、ストーリーから逃れることは本当に救済なのだろうか。

あるいは、ただ絶望を(モラトリアムを)延長したに過ぎないのだろうか。

その答えは出ていない。


おわり

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