デレラの読書録:金原ひとみ『fishy』
飲み屋で繰り広げられる3人の女の会話。
保守的で家庭がありキャリアもある弓子、相対主義者で理屈っぽいインテリアデザイナーのユリ、無意識の破滅願望があり周囲に流されがちなライターの美玖。
それぞれ主義主張は異なり、時に喧嘩しながらも保たれる関係。
3人の中でもユリの相対主義っぷりは凄まじく、もはや自己分裂の域であり、昨日と今日の自分すら乖離させるほどである。
ユリは一つの固定的な人格から逃げようとする。
それは「私」という一人称からの逃避である。
「私」は「私」という個人に囚われている。
そんなものは幻想だとユリは言う。
そうしてユリは自分を分裂させる。
「私は自分の赤ん坊を殺害した」
「私は不倫して娘の親権を夫に取られた」
「私は夫を殺害して冷凍庫に入れている」
「結婚も子ども実はいないすべて嘘」
整合しないことをツラツラと並べ始める。
どれが本当でどれが嘘か分からない。
しまいには、もはや真実はどうでも良くなる。
言わば、ユリは真実と嘘が入り乱れた存在なのである。
真実と嘘が入り乱れて確定できない。
ある時は真実であることが、別の時には嘘になる。
人によって、見るときによって真実と嘘が反転する。
言い換えれば、反転するということは、ユリの真実性(あるいは嘘性)を確定するのは受けると側であるということ。
どういうことか。
つまりは、ユリは鏡なのである。
ユリの言うことを真実だと受け取りたい人には、それが真実に見え、逆に嘘だと受け取りたい人にはそれが嘘になる。
したがって、ユリは、弓子と美玖の姿を映し出す鏡になる。
弓子は夫に不倫され離婚を要求される。
離婚調停という状況の中で、ユリという相対主義の鏡に照射された弓子は、自分の欲望、夫と子どもたちとの関係性、結婚したことの意味が揺らいでいく。
自分が真実だと感じていた「結婚観」が、嘘に変わる。
また、美玖は逆に既婚者と不倫して、それが正妻にバレて慰謝料を要求される。
不倫の背徳的な快楽から一転、負債者の窮地に立たされ絶望に落ちいる。
慰謝料を支払うなかで、一時の恋愛の享楽から目が覚める。
あの時の恋愛が、嘘に変わる。
弓子と美玖の心情の変化には、常に相対主義者のユリが関係している。
言って仕舞えば、弓子と美玖は、自分の境遇に不安になり、都合の良いストーリーを作り出して消費していた。
そのストーリーを、言わば「信念」のようなものと偽装して自分を納得させていたのだ。
それを、ユリは鋭く見抜く。
ユリという存在に、二人の存在は否定される。
お前らはストーリーに溺れているに過ぎないのだ、と。
おそらく、読者もまた、ユリという相対主義の鏡に晒されることになるだろう。
読者は弓子、美玖、ユリに対して、悲劇的なストーリーを期待して、自分の「読み」に落とし込もうとするだろう。
ようは、悲惨さの中で立ち上がるキャラクターを期待するということ、言い換えれば、読者はドラマに感動したいのだ。
しかし、この物語で見せられるシーンや思考、会話劇は、登場人物たちの一面にすぎない。
ユリの正体は、最終的に明らかにならない。
このことが、ユリの分裂を無限化し、あらゆる可能性を内包させる。
ユリは、悲劇的な物語の登場人物である、という設定から逃げ切ったのだ。
つまり、この物語は、ユリというキャラクターが、ストーリーに押し込まれることから逃れる物語であるということ。
さて、ストーリーから逃れることは本当に救済なのだろうか。
あるいは、ただ絶望を(モラトリアムを)延長したに過ぎないのだろうか。
その答えは出ていない。
おわり