watashi
すっごいどうでもいいんだけど、一人称が「私」になった。
理由はない。そっちの方が多分心地いいからだろう。
意識もしていない。なんか勝手に変わることがある。
「俺」「僕」「ワタクシ」「おいら」「余」
余はすぐ言わなくなったけど、いろいろ文脈とか精神状態によって使い分けてきたらしい、一人称を表す言葉。
これが変わったってことは、何かしら自分でも変わっているということの現れなのかもしれない。
私を定義づけるものって何だろう。
大学?年齢?人間性?コミュニティ?
人間の中の80億番煎じ。それでいて80億個目の個性。
っていうのじゃみんな当てはまるか。言葉感は好きなんだけどね。
それは肩書きやオリジナリティとかではなく、「私らしさ」の定義。
何をもって「私」という人間を語るか。
「私が私でいる」ということの条件って何??
10分測ってみます。
・やりたいことをやっていること
・大事なものを手放さないこと
・1人1人のつながりを誰よりも大事にすること
・誰かの人生に影響を与えられていること
・「ありがとうの総量」という定義の「幸せ」を満たせていること
・自分の中の偏見に気付けていること
・人を利益じゃなくて人間性で見ていること
・週1回は自分の人生と向き合っていること
・辞書にはない自分だけの言葉の定義を語れること
・人の幸せを願えていること
・人の前にまずは自分を満たせていること
・「人生で起こることに無駄なんて一つもない」という思想を持ち続けていること
・人のいいところを見出し続けること
・小さな幸せを忘れないこと
・何かを表現し続けていること
・何事にも感謝し続けること
正直、他に代わりが何人もいるような内容。
この前も「アイデアに独創性がない」と言われたばかりではあるけれど、ホントにそう。誰でも考えられることばっかり考えちゃう。
でもそういうもんでしょ。
0から1は創れない。
何かしらが似ていて、現実じゃもういくらでも生み出されるもの同士がくっつきあって生まれてるこの世の中、完全にまっさらなものからできたものなんてないんじゃないかな。
インプットしたものの中でしか人はアウトプットできないんだよ。
じゃあなんて定義する?
私がやっている、そしてやろうとしていることはアートである。内から外への(思わぬ)表出である。そんなのが、言葉というある意味チープな表現で成り下がってしまっていいものか?
自分は納得がいかない。
そもそも自分がやろうとしていることや夢、人生のモットーを言葉なんてもので言いくるめられてしまっては困る。
私がやりたいのは、解釈を超えた表現である。
人が何を思うのか。そんなのは二の次で、まず大事なのは私自身が表現者であるということ。
私自身が「創る者」として心のままに従い、創りたいものやそこに立つ壁と向き合い続けること。
それが私という人間を語るうえでの定義。
まあ正直自分でもよくわかってないけれど、これからが楽しみでしょうがないという感情であふれているということです。