釣り人語源考 月読命 その3「雄略天皇」
雄略天皇の治世以降から、明らかに年代の記述が変わっています。
おそらく太陰太陽暦の暦法を雄略朝廷が正式に採用し、それまでの歴代天皇の宝年が古代の方式から宝算されていたのが簡略化されたと思います。
古代では月齢をしっかり数えて、妊娠期間を含めて亡くなった日までを「一巡り」が何回したかで宝年を計算しています。「一巡り」はおよそ177日です。
少し時代が降ると、干支によって太陽暦年齢での満年齢は簡単に分かるので、満年齢から宝算して宝年を算出したと思われます。例えば満60歳で亡くなった人であれば、その数え年は「60歳×2.061」に妊娠期間十月十日(280〜295日間、月経周期×10周、潮の二周り×10周、29.5日×10周)を足した年数で、123.66歳に280日程度を足した年数です。
亡くなった日と生まれた日によって123歳か124歳に宝年は変化します。
雄略天皇の治世の時、この宝算の方法が混乱してしまったのではないでしょうか。最後の宝算であり、後の天皇からは干支による崩御年を基としてあります。
たぶん177日で潮の一巡り、354日で二巡りとするところを、間違えて「満一年で約三巡り」と誤計算してしまった。
たぶん雄略天皇の崩御年の満年齢は40歳であったと思います。
それを間違えて、三巡りである「3.1倍」して40歳×3.1で宝年124歳としたのではないでしょうか。
このような間違いは、単純に崩御された年齢を二倍した「二倍暦」では起こりようもないですが、約177日を一巡りとした「潮周り暦」では起こりうるミスで、逆に言えば潮周り暦のような純粋太陰暦が使われていた証拠であると思います。
安康天皇が、弟である雄略天皇の許婚として、とある皇族の皇女を選んでその兄に使いを出しました。
兄は喜んでその婚姻を御受け、使者に返書と宝物である「髪飾り」を持たしたのでした。
しかしその使いが髪飾りが欲しくなってしまい、嘘をつきました。
「皇族さまは妹をやるわけにはいかないと言われました。謀反を企んでいるに違いありません。」
使いの言葉を信じてしまった安康天皇は、その皇族を攻めて殺してしまいました。
しかしその皇族の妻と子は殺すには忍びず、自身の妻とし子を養子として育てていくことにしました。
安康天皇27歳、養子として育てられた連れ子である「目弱王」が7歳であった時(5歳ほどだろうか)、宮殿の床下で遊んでいた目弱王に気付かず、安康天皇が皇后に「目弱の父を誅殺し、そなたを娶って幾年月だろう。」と話されていることを聞いてしまい、「本当の父を殺したのは陛下だった。」と知ってしまった。
そしてある夜、安康天皇が眠っているときに、目弱王は刀で首を切り天皇を殺してしまいました。
これが「目弱事件」のあらましです。
兄である安康天皇を尊敬していた、後の雄略天皇はまだ成人しておらずと伝えられています。
暗殺事件に激怒した雄略天皇は、他の兄たちに敵討ちの兵を挙げることを頼みます。しかし目弱王をかくまった豪族に恐れをなし、ぐずぐずと言い訳をしました。
怒った雄略天皇は兄たちを素手で殴り殺したと伝わっています。
その後自ら挙兵し、天皇の位を受け継ぎました。
雄略天皇は「壮健であったが急に崩御なされた。」と記述されます。
古事記崩年干支と潮周りの宝算の「計算ミス」を考慮し、古事記の記述と矛盾しない年齢を考察すると、「雄略天皇、成人し御即位」が18歳。
「稲荷山鉄剣の銘文、辛亥年471年」が22歳。
「倭王”武”として宋に遣使した478年」が29歳。
「壮健であったが突然の崩御」が40歳であっただろうと推察します。