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釣り人語源考 謎の「和邇」(中)

(上)のあらすじ
「和邇」や「鰐」の付く滝や淵の地名が全国の上流にあるが…


この、川の上流にある深い淵や滝壺まで遡る「和邇」「鰐」が、とても軟骨魚類のサメであるとは考えにくい。
『出雲風土記』には和邇に襲われ命を落とした娘の復讐を果たした父の話があるが、これはオオメジロザメではないかという説がある。
オオメジロザメは唯一淡水で生息可能なサメである。沖縄県の川ではルアーや泳がせ釣りで釣ることが可能!!
しかし大きな河口やそこにつながる湖に入り込む個体がいる、というレベルであって上流部まで遡上はしない。
また当時の中海は海の湾となっていて海水であったとされている。人を襲うホホジロザメなどでも十分に可能性がある。
また『出雲風土記』の海産物を列挙した記述に「和邇」と「沙魚」が同書に書かれており、明らかに別の海の生物だ。
「和邇=サメ説」はとても無理があると思う。

しかし爬虫類ワニ説の根拠とされる、ワニを先祖神とする南洋民がもしも存在したとして、明らかにワニを祀る神社が存在しない。
爬虫類の龍神と海洋を結ぶ痕跡が日本に全く残されていない状況をどうやって説明すればいいのかも不明だ。
山奥の滝壺や川の側の神社と爬虫類ワニの関係性はとても薄い。せめて大きな河口や湖沼に爬虫類ワニを祀るのならば理解出来るが、爬虫類ワニがなぜ急流をわざわざ遡るのだろう。魚類が川を遡り滝を越えるからこそ龍神へと昇格する意味があるのだ。

よく考えれば軟骨魚サメも爬虫類ワニも、両方とも「和邇」の正体ではない。

広島県東広島市造賀の「鰐淵の滝」

筆者は新しい説として和邇の正体は「チョウザメ」だと提唱したい。
古代日本のチョウザメの名称が「ワニ」だったという事だ。

チョウザメは硬骨魚類チョウザメ目の淡水魚で、亜熱帯から亜寒帯まで世界広く分布し、普段は海や河口に生息し、産卵時期になると川を遡上する種類や、生涯を川や湖で過ごす淡水生の種がある。
いわゆる”古代魚”で、硬骨魚であるが骨格の大半は軟骨であり、更に「噴水孔」があり、尾鰭の形状や姿形などの特徴がサメ類と共通する。
日本にもかつては石狩川や天塩川や十勝川などで遡上していた事が江戸時代の文献に残っているが、現在ではほとんど見られない。
日本に生息した種類はチョウザメ属ミドリチョウザメとミカドチョウザメ、非常に大型になるダウリアチョウザメ属ダウリアチョウザメの3種だとされる。

チョウザメ

ミドリチョウザメはアリューシャン列島から千島列島など北太平洋沿岸に分布し北海道オホーツク海沿岸にもかつて生息していたと思われる。現在ではほぼ絶滅状態だ。

ミカドチョウザメは北海道の河川で大量に遡上したという種類で、普段は海洋の沿岸域に生息し繫殖期になると群れを成して川を遡る習性だ。もちろん古代には本州や九州四国地方の川にも遡上していたはずだ。
江戸時代にアイヌが捕獲したミカドチョウザメの硬鱗のある皮を、交易で松前藩が得て幕府に献上していたことが記録に残る。

ダウリアチョウザメは最大5mになる大型種で淡水域を好み、アムール川など大陸の河川や石狩川など日本海側の河川や河口域に生息し、川の深い淵などで産卵する。
江戸時代から現代にかけてしばしば各地でダウリアチョウザメが目撃されたり捕獲されて記録に残っている。

江戸~明治時代の探検家、松浦武四郎は『蝦夷訓蒙図彙』で石狩川でミカドチョウザメとは別の、長さ4~5尺になる「アイウシサメまたはボラザメ」というチョウザメがいたと報告している。幕末期~明治期にはチョウザメを「潜竜魚」と呼んでいることもわかる。
ちなみにチョウザメはとんでもなくジャンプする性質だと報告されていて、豪雨で水量が増した滝や急流を飛び越えて遡上していくそうである。

巨大な体躯であるチョウザメ

チョウザメの利用で有名なのは「キャビア」であるが、元々19世紀に北米大陸のカナダからフロリダまでの東海岸に沿って生息していた「アトランティックスタージョン」の卵を漁業として捕獲していたのだが、乱獲や環境汚染で急速に激減し北米でのキャビア商業は20世紀初頭には終了した。
そしてその後釜としてロシアでキャビアの捕獲が始まり、現在カスピ海でもチョウザメの絶滅が心配される状況となっている。
現在さまざまな種のチョウザメ類が絶滅種および絶滅危惧種となっている。

高級品キャビア

日本でも明治末期にミカドチョウザメが激減し絶滅状態となった。
北海道の河川環境が悪化するはるか以前の出来事であるし、明治30年代後半にロシア人が胆振地方でチョウザメ漁をしていた記録があるので、おそらく北米でキャビアが獲れなくなりロシアに産地が移るに従い、ロシア人の乱獲によって絶滅したと思われる。

長江の固有種であるヘラチョウザメ科ハシナガチョウザメは7~8mに達する巨大種だが、ダム建設や環境汚染によって2003年以降見つかっておらず絶滅種とされた。

超巨大種ハシナガチョウザメ

和名チョウザメの名前の由来は「蝶鮫」で、背中に並んだ大きな”硬鱗”が昆虫の蝶が翅を広げた形をしていることからとされる。
支那大陸の歴代の中華王朝や遊牧民族王朝そして日本において、刀剣のつかさやの飾りなどに利用された歴史がある。
江戸時代の刀剣の文献やアイヌとの交易記録によると、チョウザメの背中側の硬鱗がある皮を「蝶鮫てふさめ皮」、腹側の花が舞う様な模様の皮を「菊閉きくとぢ皮」と呼んでいた。江戸時代の文献ではチョウザメ自体を「きくとぢ」と表記していたようだ。

蝶が舞うような美しい硬鱗

アイヌではチョウザメを「ユペ」または「オンネチェプ(老大し魚)」、「カムイチェプ(神の魚)」、「ピィシュカルカムイ(鋲を持つ神)」と呼んでいた。
「江別」「湧別」のようなチョウザメ由来の地名が北海道各地に存在し、縄文時代から続縄文~アイヌ文化まで各時代の遺跡からもチョウザメの骨や硬鱗が出土し古くからチョウザメが利用されたことが分かっている。

古代中華王朝ではダウリアチョウザメは「皇魚」、カラチョウザメは「鱘魚」、ハシナガチョウザメは「白鱘」または「鮪」や「鱏」と表していたと考えられている。鱏という漢字は日本に輸入当初「カジキ」とされたが後に「エイ」に変わった。が、このエイは吻が長く巨大になる「ノコギリエイ」ではないかと思っている。

黄河中流に有る「龍門」の伝説に「龍門を登りきった黄金の鯉は龍となる」とあり「登竜門」の由来となっている。この"鯉"とはチョウザメの事であるという説がある。
漢字を研究する学者たちは「鯉・鮪・鱧・鱏・鱣・鱘」という漢字は全てチョウザメを表しているという。

大群で遡上するミカドチョウザメ
一列に並ぶ、参拝するという伝説となる

チョウザメは食用としても重要で、清朝では皇帝のための宮廷料理の素材として珍重されたと文献にあり、古代中華王朝では「フカヒレ」は元々チョウザメのヒレを使用していて、軟骨魚のサメのヒレはその代用品だったという説がある。
チョウザメのうきぶくろを干したものは「魚肚ユイトウ」と呼ばれ中華スープ用の超高級食材であったが、チョウザメの激減によって代用魚として支那大陸南部に生息するシナオオニベ、オーストラリアのゴマニベ、メキシコのカリフォルニア湾のトトアバが大型で貴重であるため値段が高騰し、密漁が横行して「海のコカイン」と呼ばれる事態となっている。

また「にかわ」の原料としても古代支那民族では重要で、通常北方遊牧民の文化圏や古代朝鮮・古代日本では鹿などの動物の皮から製造して弓や工芸品の接着剤にしたり墨や絵具に混ぜて増粘剤にするのだが、古代中華王朝ではチョウザメの内臓を煮て製造する「皇魚花膠」は最高級品とされている。
これもまた古代中華王朝時代のチョウザメの激減の影響なのか、代用品としてシナオオニベのうきぶくろから魚膠ぎょこうを製造することになったようだ。
ちなみにワインの清澄剤や西洋絵画のテンペラ画に使用される最高級ゼラチンである「アイシングラス」はオオチョウザメ(ベルーガ)の鰾から採れる魚膠の事をいう。今は絶滅危惧種なのでタラの鰾を代用品にしているそうだ。

黄河をさかのぼったカラチョウザメ
激流・龍門をも登って行く

サケ・マス類の漁はアイヌの人達にとって非常に重要で、マス類は夏の自分たちの食料品として日常で食し、サケは「干し鮭」として冬の保存食であり和人との交易品であった。
石狩市弁天町の石狩弁天社内に北海道指定文化財である「妙亀法鮫大明神像」が祀られている。
『妙亀法鮫大明神由来書』(村上家文書)に、「石狩川に度々巨大なチョウザメが現れ夏の暑い時などは多くの人が背中を出して泳ぐ姿を目撃した。大きさは12~13間(21.84~23.66m!)。アイヌがサケを獲る網を何度も破り困ったのでアイヌ長老が占いをしたところ『浜益(雄冬岬辺り)を拠点とする大チョウザメが邪魔をしている』と神託があり松前藩の役人に何とかしてもらいたいと申し出た。すると文政元年(1818年)の春、石狩駐在の松前藩士北村円六の夢枕に「川の主」を名乗る大鮫が現れ「自分が鎮まるお堂を建てて欲しい」と頼んできた。続いて大きな亀も現れこちらもお堂を建ててくれと言う。最初は恐ろしいので夢の中で断っていた円六だったが、夜な夜な夢に現れ頼んでくるので思わず『上役と相談して建てます…』と返事してしまって目が覚めた。仕方なく上役の重松伴右衛門と相談し茅葺のお堂を建てた。」とある。
文政八年(1825年)に石狩場所元小屋支配人だった山田仁右衛門が神像を奉納した。像は鎧姿で亀に乗った「妙亀」と衣冠束帯で鮫に乗る「法鮫」の二体一対となっている。

20mを超えるチョウザメとかUMAじゃん…でも個体によっては長寿命で巨大に生長するダウリアチョウザメがいたかもしれないし、ハシナガチョウザメが大陸から回遊したかもしれない…アイウシサメのアイウシは「聖なる矢」といった感じの意味なので、長大な吻を持つハシナガチョウザメの超巨大個体の可能性は無きにしもあらずだ。
そして面白いのは、定説では北海道には在来種のカメは生息していないというのに”亀に乗る”神を祭っている所。時々やって来るウミガメ、そして巨大チョウザメを神の乗り物とする信仰の痕跡が残っている気がする。

妙亀法鮫大明神像

東北地方の怪魚伝説に「鮭の大助」というのがある。山形県を中心とした各地の河川にそれぞれの民話として伝承されている。
民話の骨子は、川魚の主やサケの王とされる「オオスケ」という巨大魚が、毎年決まった時期に多くの眷属を引き連れて川を遡る、その際に「川に網や簗を設置する漁師や網元に仮の姿で現れ、数日間ほど網や簗を開けてくれと頼んだ」とか、「欲張りな長者が大助を捕まえようと網を張るが、うまくいかずにいたところ謎の老人が現れ呪いをかけると、長者の家は魚が獲れなくなりすぐに没落した」など、人間が色々失敗したのでそれ以来は時期になると漁を休むようになったとか、遡る大助が「鮭の大助、今のぼる」と大声を出し声を聞いたものは3日で死ぬと噂となり、漁はせず餅をついて宴会をして声を聞かないようにした、という伝説だ。

石狩の妙亀法鮫大明神の伝説を知ると、この「鮭の大助」の正体はチョウザメではないだろうか。
「鮭の大助伝説」を読むと、やっぱり親魚のリリースは大事だし、漁業の資源管理をしないとすぐに魚は枯渇し没落するよね~。「呪い」で脅してしきたりを守らせる言い伝えは浅はかな人間には理にかなっている。

日本各地の川を遡る怪魚はチョウザメではないか

柳田國男は『海上の道』の末尾に「海豚いるか参詣のこと」を「知りたいと思う事二、三」のひとつとして挙げている。
日本各地の民話伝説に、イルカ・クジラ・サメが寺社に参詣するという話が伝わっている。
伊豆諸島の新島には「海豚の磯部さま参り」の伝承がある。仲間に裏切られ海に沈められた船頭が、同じく磯部さまを信仰するイルカに助けられ、事情を知らない船頭の女房に「波にさらわれた」と嘘をつく船方たちの前に現れた、という話。
季節になると黒潮に乗ってイルカが一列に群れを成して移動する生態を漁師はよく知っていて、「お参りしている」と表現したようだ。
イルカを獲らない地方でも、イルカによって魚の到来を知り魚群の位置を察知する。日本にはイルカを大事にする文化がある。ルアーマンはイルカ大嫌いだけどね。

長崎県の五島列島の宇久島に、「山田紋九郎の鯨伝説」がある。
捕鯨で莫大な富を築いた網元の紋九郎に、五島の大宝寺参りに行く親子鯨が夢枕に立ち、命乞いを受けるもこれを無視して漁に出て、この親子鯨を捕ろうとして嵐に会い船方72人が溺れ死に、紋九郎は捕鯨を辞めたという話だ。

そしてサメが参詣する話として『七本鮫の磯部参り』が三重県志摩市渡鹿野島(旧志摩郡磯部町)に伝わる。
志摩市磯部町の野川中流に鎮座する「伊雑宮いざわのみや」の祭祀に合わせ7尾のサメが一列に参詣に訪れ、その際に河口の湾内に有る渡鹿野島で休息を取るので、この日は命や視力が失われるので漁や海女漁は休むとされた。
磯部さまと呼ぶ主祭神は「天照坐皇大御神御魂あまてらしますすめおおみかみのみたま」で、謎の神で有名な天照大神の分身で河の女神である「瀬織津姫せおりつひめ」のことだ。ここにも川の女神が現れる。

『遠野物語拾遺』には不動尊の祭祀に合わせ、川を遡って鮫が参拝に来るという伝承が記される。場所は岩手県釜石市橋野町にある「瀧澤神社奥の院」と隣接する「ヨドマワリの滝」だ。
毎年参拝する鮫であったがある年天気が良すぎて水が不足しどうにも海に帰れない。そこで天からわざわざ雨を降らせてもらって水位を増やして帰ったという故事より、この祭日は以来必ず雨が降り、雨乞いに御利益があるという。ゆえに村人は慎んで滝壷での水浴はもちろん水汲みもしない習慣となった。
しかし決まりを破り水浴をした者があり、にわかに大雨となり洪水となり、禁を破った者の家は流され皆死んだという。ここにも「ヨド」が現れる。


福島県東白川郡鮫川村の地名の由来でもある『鮫池の主』の伝説がある。
…昔々、磐城国の東端の村に長者の夫婦が居たが、子供が出来ず毎日氏神さまに祈願していた。すると女の子を授かり美しく成長した。
しかし16歳になるころ悲しみに暮れすすり泣くようになった。やがて元気を失くし床に臥せ、今にも死を待つ状態となった。
娘は長者夫婦を枕元に呼んで「どうか死ぬ前に渡瀬の大きな池が見たい」と懇願した。仕方なく人夫に娘を大池に運ばせたが突然娘は池に飛び込んでしまった。
程なく池から「皆の者、私は池の主の鮫である。長者の願いを聞き娘に化身したが、どうにも帰らねばならなくなった。父母の恩は決して忘れぬ」と声が届いた。急ぎ長者に知らせると屋敷の娘の床から大きな三片の黄金の鱗が残されていた。
その後長者の家は代々栄え、夫婦が世を去るころ鮫は大池から川を降って磐城の海へ帰っていった。それから大池は「鮫池」、川は「鮫川」と人々が言ったそうだ。
大きな鱗を持つ池に棲み川を降るサメ…間違いなくチョウザメだ。
欲深き人間には罰を与え、信仰深い者に富をもたらす魚の王。漁撈という自然からの頂き物によって生活する日本人にとって慎む事の大事さを物語る。


…謎の「和邇」(下)へつづく

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