なぜ障害受容したくない?差別と偏見が嫌なだけです
先日、上記のようなツイートをしたあと、なぜか胸の奥がモヤモヤしていました。
「自己受容と障害受容は何が違うのだろう?
どうして私は、自分の発達障害だけは、受け入れたくないんだろう?」
疑問はしぶとく燻って止みません。
そこで自分の気持ちを整理するために、noteでも同内容をあらためて投稿することにしました。いつも以上に本音をぶちまけているので、読む人によってはきつい内容かもしれません。その場合は、素通りしていただけると助かります。
(大前提)私が発達障害を受容したくない理由
私が発達障害を受容したくないのは、はっきり言って、発達障害というラベリングが苦手だからです。そのことがまず、前提条件としてあります。「発達障がい」という風に、「害」の漢字を「がい」とひらがなで当てたとしても、できれば避けたいことに変わりはありません。
本来なら、障害受容したくない理由を考える前に、障害受容について定義する必要があるかと思います。ところが、障害という言葉を使いたくないので、定義を考える気になれないのが正直なところです。
私は自分の弱さを、素直に受け入れたいです。ただ、「障害」というレッテルを貼ることだけは、自分にもしたくないし、他の人にもされたくないです。
障害受容とは弱者であることの押し付け?
では、なぜここまで、「障害受容」という言葉を毛嫌いするのか。その背景を説明するには、7年前まで遡る必要があります。
「あなたは障害受容ができていないわよね」
発達障害と診断されて間もないころ、再就職するために職業センターで訓練を受けていました。そのとき、職業センターの支援員から、そう指摘されたことがあります。
(へ?ショウガイジュヨウ?何それ?)
その言葉を初めて耳にした私は、目をパチクリ。そのあと、障害受容とは押し付けられるものなのかと感じて、じわじわ怒りや悔しさがこみ上げました。自分の弱さを受け入れることと、弱者であることを認めさせられることは、全く違います。
当時の私は、職業センターで身を持て余していました。いっしょに訓練を受けている子たちは、働いたことが一度もないか、あっても経験が浅い子ばかり。それに対して私は、すでに経済的に自立していました。周りの子たちが一生懸命なのは、よくわかります。それでも、私がみんなと同じ初歩的な訓練をやらされることに、どうしても必要性を感じられません。例えるなら、大学生が保育園に行って、食事などのトレーニングを強いられるようなものです。
「私はコールセンターで事務を経験しているので、この訓練はこれ以上やらなくてもいいと思いますよ。それでもやる必要があるなら、その理由を教えていただけますか?」
私はわずか3か月間の訓練であっても、1秒も無駄にしたくないので、そのように支援員に何度もお願いしていました。生意気と思われるのが心配でしたが、自分の転職活動を、もっと言えば人生を、より充実させたかっただけ。もうすでに自立している以上、支援は最低限で大丈夫と思っていました。その矢先に言われたのが、上記の「障害受容」についてでした。
切羽詰まって力んでいた私に対して、支援員は良かれと思って助言したつもりかもしれません。それでも手足をもぎ取られてしまったような、居たたまれなさを感じました。7年前のこの体験がトラウマとなって、この言葉に過剰反応してしまう自分がいます。
差別や偏見から生じた痛みは癒したい
くり返しになりますが、私は自分の弱さを、素直に受け入れたいです。ただ、「障害」というレッテルを貼ることだけは、自分にもしたくないし、他の人にもされたくないです。それでも、レッテルゆえに生じた痛みは、癒していきたいと考えています。
冒頭で引用したTwitterを投稿した翌日、追って以下のような投稿をしました。
発達障害の苦しみは、何も特性があることに限りません。むしろ特性があるだけでは、悩むこともないです。ところが、人間関係における誤解、環境に対する不適応や過剰適応、これらが幼少時から積み重なっていくと、手に負えなくなるほど膨らむことがあります。それはあたかも、坂道を転げ落ちる雪だるまのようです。
特に差別や偏見については、障害者と認定された人でしか分からないような、辛さがあると思います。私は障害を開示してから、得したこともありますが、歯ぎしりしたことも少なくありません。7年前のトラウマ体験は、まさにそうです。
私は雪だるまの核の部分である特性は受け入れたいものの、後から膨れ上がった差別や偏見に対しては、受け入れがたいだけなんですよね。雪だるまが転げ落ちれば落ちるほど、核の部分は凍えて縮こまってしまうので、そこから生じた苦しみは労わりたいと思っています。それは自分に対してだけでなく、同じ悩みを持つ仲間に対してもそうです。
まとめ
私が自分の発達障害を受け入れたくないのは、そのラベリングが苦手だから。差別や偏見に対しても、容認するつもりはありません。ただ、障害ゆえに生じた痛みは、癒していきたいです。
発達障害のすべてを受け入れる必要はないですよね。冒頭にも引用した通り、その線引きは自分で決めていいと思います。
私はただ、自分と仲間たちがありのままに生きられるよう、心から願うだけです。
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当記事は、「悩みのフローチャート」の4.の項目(または2.の項目)の解説です。
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