無集中になることの利点

日頃から,私は無意識に何事も行ってしまう。人は脳の90%以上は無意識に働いているとかよく言われるが,私が言いたいのは意識可能なことのみだ。意識可能なこと,もしくは意識すべきことの中で,それを意識しようとしない癖が私にはある。

意識可能なことといえば,典型的には意思決定などがある。自身の判断をもとに選択したりすることは,通常は意識すべきことだろう。だが私はそれを意識せず,脳の100%を無意識に働かせたいという欲求がある。

それはそもそも意識をまったく働かせない必要があり,睡眠状態に等しいと言える。


そんな無意識な状態で行動したいという私の癖や欲求はあまりにも現実的ではない。当然のことだが,瞑想した状態でもなければ不可能だ。まことに馬鹿げた試みだと思う。

そこで,別の視点で考えてみることにした。それは,脳の意識の範囲であり,集中・無集中に関わることだ。脳の意識の範囲が狭い場合は集中状態,広い場合は無集中状態と呼ぶことにしよう。すると,私は意識の範囲が広い無集中状態を重んじているということになる。

なぜ無集中状態がいいのかというと,不測の事態に適応しやすいという利点があるからだ。集中状態では,ある程度考えられる可能性は最低限にとどまるため,自分の予想と独立した場合に適応しにくくなる。

例えば,私が数年前に漠然と路面電車に乗っては往復したときのこと,電車を降りようとする乗客がICカードを取り出していた。しかし,残念ながらその路面電車はICカードでは支払えない。さらにその乗客は整理券を持っていなかったので,現金で支払うこともままならないのであった。結局,運転手がその乗客を大目に見て現金で支払いを済ませていた。

他愛のない話だが,このとき私は「Suica旅」ということをしようと思っていた。だが,計画もしないままに,残高が3,000円程度のSuicaと現金も持って外に出た。これこそ無集中状態だ。もしもこのとき計画も完璧に立ててSuica中心の支払いを考えていたなら,私も整理券を取り忘れていたかもしれない。

支払うことばかり考えている状態が集中状態であれば,それ以外の「整理券を取る」などといったことに意識が向きにくくなる。これは極端な例ではあったが,注意が散漫になることが必ずしも無集中状態に起因するものではないと言うことができるだろう。


これまで,無集中の利点を述べたが,無集中状態は一般的には望ましい状態ではないため,心身の健康や生産性に悪影響を及ぼすことは言うまでもない。しかし,私はそれも承知の上で意図的に集中力を低下させている。

実は,過集中になってしまうことは私にとってかなり苦痛であり,不安を感じてしまうことがある。1つのことに集中できないわけでなく,脳の動き方が普段と違って異常になったのではないかと思ってしまうからだ。

普段私が本を読んだりするとき,時間を忘れ周りが見えなくなることはあるが,そのとき脳は集中してないと分かる。確かに,本には集中しているかもしれないが,脳は普段通りにぼんやりとしている。この状態が私には心地いい。


脳の動きについても軽く調べてみた。すると,無集中状態は脳に負荷がかかるという記事を見つけた。意外にも,集中した状態のほうが疲れにくいというのである。私は以前からずっと脳疲労に悩まされ続けているが,もしやこれはと驚いた。

私は集中状態でいる時間が極端に少なかったので,脳疲労を引き起こしている原因がそこにあるのではないかと思いついた。

もちろん,私の誤解もあるとは思う。だが1日の中で集中する時間がほぼないことに気がついた。それは読書のときのように集中してない状態しか確認できなかったからだ。

軽く調べた程度なので,本当かどうか分からないが,これを機に集中する習慣をつけようと思った。そもそも,私は過集中の状態が嫌いでも,それは慣れていないからなのではないか。少しずつでも集中状態を習慣づけて慣れていけば,過集中が嫌いではなくなるかもしれない。そう信じてあわよくば脳疲労も和らげられればと思った。

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