ナミビアの砂漠
河合優実主演の「ナミビアの砂漠」を観に行った。現代を生きる若者の抱える闇を一身に請け負ったような業の深い主人公。重苦しいテーマが作品全体を覆う。これはなかなかヘビーな映画を選んでしまったと後悔の念に駆られる。隣の観客も幾度となく深いため息をついている。
山本遥子監督の映画を観たのはこれが初めてだった。若いのに現実問題にしっかりと向き合って偉いなあという、スクリーンから一歩引いた謎の上から目線。そうやって思ってたんと違う映画を選んでしまった自分を正当化しお茶を濁す。しかし映画はこのままでは終わらなかった。
主人公に降りかかる複雑に折り重なった問題は同居人も巻き込み解決不能なままどんどん肥大化し、やがて飽和状態を迎える。誰がどう見ても無理な状況。突如ワイプが出現しそれが画面いっぱいに広がっていく。
ピンク色の空間でルームランナーの上を走る無表情な主人公。手元のスマホには部屋の中で暴れ回る主人公とそれを取り押さえようとする同居人がプロレスさながらのバトルを繰り広げている。
そこではたと気付いた。これ映画だったのだ。
終盤に差し掛かって突如差し込まれたこのシーケンスは主人公に感情移入し切った観客にメタ認知的な効果をもたらす。それはとりもなおさずこの映画自体が再三提示してきた現実課題に対する監督から観客に対するアプローチであり、主人公自身の問題解決のための第一歩でもある。
セットと思しきスタジオから階段を登り再び舞台(映画の中の現実)に戻る主人公。ここで恐らくうわーやられたー!と観客全員感じたんじゃないだろうか。楽屋オチでも夢オチでもハシゴ外しでもない、映画という文脈の盲点を突いたユニークな演出。これまで観てきたストーリーを反芻し僕はすべてが報われたように感じた。
結局問題は何一つ解決してはいない。というか問題が解決すること、医師が定義した病気が寛解するビジョン自体が幻想でしかなく、問題意識を抱えた人々(観客も含む)の意識が失われるまで、それは一生ついて回るのだろう。