口伝36日目:「わたし」と無我
7:13 開始
9:10 経部雑経10巻目読了。
9:10 同11巻目口伝開始。
『聖法如来の大慈悲を決定して示す経』
『聖虚空蔵経』etc.
16:31 読了。
口伝会では
朝のお茶とパン
午前中の薬茶
昼ごはん
午後のバター茶
おやつとミルクティー
が出る。
1日の食事が殆ど賄えてしまう最強さだが、
時々変な味のものがくる。
贅沢を言うなと自分でも思うが、
好き嫌いのある人には困る。
(筆者はあまり困らない)
今日の午前中の薬茶は
身体に良い苦いだけのお茶ではなく
何か甘い薬草が煮出された薬茶だった。
苦いだけの方が美味しい場合もある。
本日の薬茶は微妙に甘くて
飲んだ後ひよこの口になる薬茶🐣だった。
身体に良さそう。
でも不思議な味で、
ご近所さんと目があって少し笑った。
口伝は未だ経部を進んでおり、
主に三宝の功徳を説いておられる。
口伝をなさる先生は
仏法僧の功徳を知って
修行の仕方を知って
実践することが大切だとおっしゃっている。
例えば戒律は、放逸の対策。
あれをしてはいけない、これをしてはいけない
というだけではなくて、
修行から氣を散らさない為の対策なのだ。
経典にも
「不放逸を学びたまえ。」
と書かれている。
不放逸によって何を成し遂げるか?
といえば、禅定である。
ならば禅定の働きは何か?
といえば、
智慧の基礎になる。
安定した心を礎にした智慧でなければ、
煩悩を調伏することはできない。
では智慧は何をするのか?
修行の次第を完遂させる。
他にも、経典の中には
修行の仕方が書かれているが、
「一切相智を心に留めておかなければならない」
という。
一切相智というと
結果としての仏陀の智慧を思うが、
ここで説かれているのは
修行道の功徳、良質のことである。
経典の中では、
修行の内容ばかりを大切に説きそうなものだが、
「捨て去るべきものをよく敬いたまえ」
という言葉もある。
「捨て去るべきもの」とは
例えば煩悩などだが、
それを大切にするということは、
煩悩がどうして悪いものなのか?
我執(自分に対する実体視)の悪いところは?
どういう結果を引き起こすか?
捨てるにしても、
祈るだけでは無くならない。
煩悩それぞれの対治は何か?
などをよく知ることによって、
修行に結びつけることを「敬う」という。
修行の次第を知って向上させていくことで
最終的には金剛のような禅定に至るとしても、
三学(戒律・禅定・智慧)を学び
六波羅蜜それぞれの本質を知り、
学び、思索し、修習(瞑想)する必要がある。
「煩悩について知りません」
と言っていては、
煩悩の対策をすることができない。
なので、
善なる功徳に満ちた修行道のみではなく
他のものも大切に説かれているのだ。
如来の功徳ははかり知れない。
また、煩悩等について
「行ってない(チベット語直訳)」
ともよく説かれている。
「煩悩が無い」「欲望が無い」「怒りが無い」
とは言われていない。
「行っていない」とは、
本質として成立していない
本性として成立していない
という意味。
「煩悩は(煩悩の本質に)
行ってない(至っていない)」
ということで、
煩悩は煩悩そのものとして成立していない
ということだ。
煩悩が無いのではない。
煩悩はあっても(煩悩の本質に)至っていない、
本質として成立していないということを
知らなければならない、
ということだ。
・・・・・
さて、仏教徒ばかりの中にいると
仏教の教えのみが正しいと
教わりがちである。
無常や無我など、
仏教徒でなければ悟れないと
よく言われたものだ。
そしてそれを信じていた。
無我はその中でも最たるもので、
他の宗教と仏教の最も異なるところが
「我」を承認する・しない、
だといわれている。
主だった他の信仰では
「実在の我」はあるといい、
仏教では無いというので、
「無我」が仏法の特徴であるというのだ。
なので、
仏教徒以外は悟れない
とも、内輪ではいわれる。
「わたし」についても、
仏教での説明はやや特殊かもしれない。
「わたし」とは、
「自分の心と身体の集積にただ名付けられただけのもの」
というのが仏教の説明だ。
過去現在未来へ続く時間の中での
心の継続と身体の継続の集まりに
思考が「わたし」と名をつけた。
基になっている心と身体があって
それに思考によって名前をつけられただけなので、
心と身体から離れて
「わたし」に別個の実体がある訳ではない。
それを「無我」と呼ぶ学派もあるし、
更に考えを進めて、
「わたし」が思考に映った時点で
確固とした「わたし」が映る。
それをそのまま捉えることが
「わたし」に対する我執で、
わたしが感じている「わたし」は、
感じているように実在していないという
実在する「わたし」の欠如を
「無我」という学派もある。
どちらも、
我々が普段感じているいる「わたし」とともに現れる
実体的な様相を「我」といって、
無我の否定対象にする。
最近、仏教徒でなくとも
その「我」の感覚が無くなってきているらしい人々がいる。
近しいところでは、
靈氣というエネルギー・ヒーリングの施術者の方や、他にも癒しの仕事をしている方々が、
強い「わたし」「我」の感覚があると、
癒すことは難しいとおっしゃっている。
癒しの修行の極意は、
いかに「我」を手放すかだそうである。
実際に、施術をなさっている時には
「わたし」の感覚がなくなる事があると聞いた。
他にも、
自分を含む何か大きなものの1部であると考えると、「我」の感覚は弱くなる。
強い「我」の感覚は、
自分個人に集中する時に強くなるからだ。
「わたし」「わたし」「わたし」
これを自己中という人もいる。
ともあれ、強い我執、
我執から起こる欲望、怒り、etc…
を自然に弱めて行っている人がいる事は事実。
その根っこの根っこを
きれいに取り除くには、
意識に「わたし」が映る映り方を知って
微妙すぎて気がつかない我執をはっきり認め、
そこに映っている「わたし」は幻に過ぎないと知る必要があるけれど、
そこに至る道筋の1つとして
仏教以外の門があることも
認めざるを得ないと思う
今日この頃である。
・・・・・
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