(第30回) 小津安二郎と鎌倉の裏路地
コロナ禍の自粛生活もずいぶんと長くなった。遠出は出来なくなり、滞在時間の短いき近隣観光でお茶を濁す、そんなさびしい時期が続いている。
鎌倉へ行った。鎌倉にある川喜多映画記念館で、原節子主演の古い日本映画『智恵子抄』が上映されたからだ。この作品は、高村光太郎の詩集『智恵子抄』を映画化(1957年)したもので、原節子の後見人とも言われていた義兄・熊谷久虎が監督を努めた。
この映画の原節子は、日本人離れした美貌で話題になった初期作品や『晩春』『東京物語』などに代表される一連の小津(安二郎監督)作品での印象とはまた一味違った。比較的晩年の作品(37歳時)で、詩人・高村光太郎の妻、千恵子の精神的に追い詰められていくさまを(大根役者という一時の風評を吹き飛ばすかのように)見事に演じていた。
上映終了後、少し鎌倉の街を歩いてみた。
原節子と鎌倉は縁が深い。映画『晩春』では、鎌倉に住む小説家の「婚期を逃したひとり娘」という役柄を演じ、北鎌倉駅周辺や海沿いの景色が印象的に描かれていた。都心へと向かう横須賀線も映り、長年の沿線住民には何とも懐かしくうれしい作品である。
横浜と鎌倉は近いようでまったく違う文化だ。このことを私は小さい頃からひしひしと感じていた。
父の生家が鎌倉のとなり、横浜の戸塚にある関係で、住み始めたのこそ私が中学生の時からだが、私もなにかとこの周辺には縁があった。初詣といえば鎌倉の鶴岡八幡宮だし、父親と同様に鎌倉の中高一貫校を受験したりした。昭和の中期、戸塚駅はいまのように東海道線が停車する駅ではなく、横浜・保土ヶ谷・戸塚・大船・北鎌倉と(小田原方面ではなく)横須賀線で「直接的に」鎌倉とつながっていた。
住んでいる住所は横浜市ではあるけれど、父親や親戚の叔父たちの口から出る言葉は「鎌倉」ばかり、けっきょく鎌倉にある学校には通わず、横浜・本牧の海沿いの高校に通った自分としては、なぜかそのことが不思議でならなかった。
おとなになり、都心方面とは逆に位置する鎌倉に目を向けることがなくなった。心情的に鎌倉を背負っている父親と「港湾沿いの横浜」のイメージのなかでおとなになった自分との間に存在する「微妙なズレ」は、これまたずいぶんとおとなになってから、突然に解消した。
よくよく調べてみると、戸塚は昭和の初め頃まで横浜市ではなく鎌倉郡だった。神奈川区・西区・中区あたりを除いて、現在の横浜市南部の大半がずばり鎌倉だったのである。そして、その「郡役所」が戸塚にあった(昭和14年に移転)。そんなこともあり、うちの父親のような戸塚出身の戦中世代は、海沿いのちんけな「横浜村」などではなく、鎌倉という響きにおおいにプライドを持っていたのである。
そんなことを思い出しながら、鎌倉の小町通りから鎌倉街道(県道21号横浜鎌倉線)を北鎌倉駅方面へと進んだ。建長寺の門前、鎌倉学園の生徒たちの「買い食い」で賑わっていた「小さな商店」は、いつのまにかおしゃれな蕎麦屋になっていた。
踏切を渡り浄智寺周辺へときた。左に入る小道を進むと突然のように、古い竹垣のいかにも鎌倉らしい風情が広がっている。小道から少し奥に入ったところには、小津安二郎監督が母親に建てた家がある。現在は私道のため通行止めでありその様子を伺い知ることはできない。
近くには古民家を改修した陶芸の体験教室がある。休日の昼間だというのに、あたりには自分の靴音だけが響いている。閑静な鎌倉の風情が、まるで身体に染み入るように漂う静かなエリアだ。
原節子は横浜市保土ヶ谷区の出身である。横浜の女学校を出て映画スターの道を歩み、引退後は鎌倉の屋敷に身を隠し、伝説の女優としてその生涯を閉じた。浄妙寺周辺であると聞く。
いろいろな物語を観た。最近はやりのマイクロツーリズム。身近な場所だからこそ味わえる観光がある。(敬称略)
〜2021年4月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂
【鎌倉市立川喜多映画記念館】
邦画の発展に大きく貢献した川喜田夫妻を記念し、夫妻の旧宅跡に設立した映画に関する貴重な資料館。映画に関するテーマ別展示のほか、定期的に上映会が開催されている。
都心から一時間弱で味わえる静寂。鎌倉の裏路地。
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