なんでもない人がnoteに文章を残す意味
私が小さい頃、将来の夢を持つことはとにかく良いことだとされてきたように思う。
プロのスポーツ選手、音楽家、医者、小説家、公務員、弁護士、お笑い芸人などがなりたい職業として挙げられ、マスメディアを通じて彼らのサクセスストーリーが私たちの頭にインストールされていく。
だから、私も頭の片隅で「大人になったらこういう人になることが良いことだ」と思いながら育ってきた。
しかし29歳になったいま、私は上に挙げた何れの職業にも就いていない。
「なにもの」にもなれていない自分。
そんな私がnoteに日々、日記をさらすことに何の意味があるのだろうか、とふと考えることがある。
日記を書きたいというのであれば、インターネット上に公開する必要はないだろう。
ひとつ言えることがあるとすれば、こういう生き方もある、という一例を示すことだと思っている。
2か月前にnoteを始めてから、日々この思いは強くなるばかりだ。
こんなにも多くの人がいろいろなアイデアや夢、思いや悩みを持って過ごしているを目の当たりにすると、私が考えていた「人生の形」というのがいかに偏ったものだったかと気づかされる。
インターハイに出れなくても、第一志望の大学に受からなくても、好きなあの子と付き合うことが出来なくても、それなりに満足する日々を送っていくことはできるのだ。
マスメディアには掬いきれないもっと雑多なロールモデルがあってよいと思っているし、noteであればそれが可能だと感じている。
そのために、価値判断を自分の内側に置くことを大切にしていく。
私は何をしているときに楽しいのか。
誰といるとうれしいのか。
誰かが楽しいといっているから楽しい、のではなく、自分が楽しいから楽しい。
誰かからそういっていたから好きなのではなく、私が好きだから好き。
腹の底からそう思えることを書く。
また、日々悩んでいることや答えが出ていないことも同じくらい書く。
「この悩みは自分だけじゃなかったのか」と思えることは、絶望しないための手段の一つになりうる。
私と同じように悩んでいた人もいたんだ、とか
そんな些細なことで悩んでいる人もいるんだとか、
あの人はこんなことで喜んでいるのか、そんなに頑張らないでこれくらいでも良いものか。
だから悩みや葛藤もなるべく素直に書く。
わたしたちには「他人が欲するものを欲する」という性向がたしかにあるように思う。
メディア(広告)はその傾向に拍車をかけてしまいがちだ。
私はずっとそうしたノリに乗ってきたし、今もその流れの中にいる。
流れに身を任せることは楽だ。
けれど、他人が求めるものを求めることは、生きづらさや窮屈さの元凶でもあるのではないか。
だから、わたしは文章を書くことでその流れに抗っていきたい。ささやかながら。