5Sと所作
初期の頃しか知らないのですが、「美味しんぼ」というマンガがあります。
主人公の山岡士郎は、美食家で芸術家である父、海原雄山に幼いころから料理の英才教育をうけるも反抗し勘当されるのだが、運命には逆らえずその後自分も料理の道を歩んでゆく。
極めてザックリですがこんな出だしだったと思います。
私はこのマンガの素敵なところは、調理時やそれを食すときも、「所作」とか「礼儀作法」について重きを置き、その重要性を説いているところだと思っています。
「そんなことで、味なんか変わらねーよ」
と思われる方がいるかもしれませんが、私はそうは思いません。
まず、そういう主張はそもそも的外れであるということ。
おいしいものを作ろうと、料理人が努力した結果として、そういう所作に落ち着くのであって、その所作を以てしておいしいものができるわけではないからです。
日本の場合、まず形から入る場合が多いのですが、職人の場合も「言われた通りにやれ」「教えない」「技はぬすむもの」などといった観念が今だ根強いです。
が、逆に言えば、答えをはなから解放しているともいえるわけで、最終的な目標が明確である以上、手段と目的を取り違えることが起こりえないシステムとも言えます。料理長が鍋に残したソースを見習いが味見する行為なんてものは、まさにこのことです。
大体、いい親方や先輩ならば、「ああ、こいつには次のステップの仕事をみせてやってもいいな」という具合に、気にするのが普通です。
ですから、こちらに言わせれば「教えない」なんて意地悪しているつもりは全くないのですが、今の世の中それが「わかりにくい」のでしょうね。
何より、見よう見まねでやっていたことの結果が出て、「ああ、この所作にはこういう意味があったのだ」と腑に落ちる感覚。数学の問題の回答集は手元にあって、もうすでに見ているのだけど、計算式が理解できず、例題をこなすうちに自力で何とか解けるようになる感覚。隣に家庭教師がいて、「こうしてああして」と言われるまま解くのとは天地の差がある。
これは忘れられない経験になると思います。
そういう日本の職人気質的「昭和時代」は、何かと叩かれる場面が多く、実際間違いも多かったことは認めますが、近い将来認められる部分もきっと出てくるでしょう。
良いところも、悪いところも、十把ひとからげにする風潮が、おかしなことになる原因なんだと思います。ダイバーシティとか言ってるくせにねえ。
おっさんだって、その一員なんだよ。
少し脱線しますが、「教えてもらう」のに、お金がかかる、かからない問題というのがあります。
師弟関係や会社組織の中であれば、お金なんて当然かかりませんし(雇用側の投資になっているだけですが)、どこかに習いに行ったり、それこそコンサルに来てもらったりすれば、対価として当然お金は発生するわけです。今でこそあまり見なくなりましたが、「金払ったんだから教えて当然」的な態度で来られる場合もあります。
ですが、私自身の立場では基本的にどっちも同じだと思っています。
何か価値のある技術なり情報を得ようと望む場合、その対価が常識的で内容に見合った金額であるならば、はっきり言ってお金なんてタダみたいなものです。
そんなことよりも大事なのは、やはり信頼関係ではないでしょうか。
結局、教える側も人間なので、お金をもらっていようがいまいが、相手との信頼関係が無ければ本気で教える気にもなりませんし、この人であればと思えば、こっちもそれなりに勉強して、緊張感を持って向かうぞ、というのが心情ではないですか?
そりゃプロとして失格だね、と言われればそれまでですが実際問題、信頼のおけない人間に対して、こちらの思いをいくら伝えたところで分かってもらえなければ結果として差が出て当然です。
モノづくりの現場では、「できないのは教え方が悪い」という鉄則のような理論がまかり通っていますが、現実問題そんな一方的な話ではないと思いますがね。
話は戻って山岡士郎の話ですが、この男は海原雄山との勝負のため、料理の試行錯誤を繰り返します。
士郎の住居は雑居ビルの屋上ペントハウスなのですが、ここにはプロ顔負けの厨房設備や調理器具が整っております。
相棒の栗田ゆう子が訳あって初めてこの住居を訪れた時、厨房はまさに整理・整頓・清潔・清掃・しつけ、といういわゆる5S(ごえす)ができている状態。
モノづくりの現場にいる人は一度や二度、もしくは毎日うるさく言われている5Sのことです。
ところが栗田が山岡の生活スペースまで侵入すると、そこは散らかり放題のひどい状態。
このギャップは、現実世界ではありえるのか。
当然例外はあるのでしょうが、普通はありえない。
普通の人間は、そんなに器用に棲み分けることはできない。
工場ではキレイにしているけど、自宅は汚いというひとには会ったことがない。つまり、山岡士郎は普通の人間ではないということです。
一応断りを入れておくと、私が言いたいのは、モノづくりの現場が整っているのは正義であるということで、こと芸術の領域に関しては門外です。
ついでに暴露すると、私は「クリエイター」という言葉も人もちょっと苦手です。(じゃ何でNoteなんかやってんだよ!)
5Sというのは、あらゆる改善活動の最も基本、ベースとなる活動です。
散らかっていて、モノがどこにあるのか分からず探し回ったり、処理しなければならない書類がどこかに紛れてそのまま放置されたりと、5Sができていない現場は最低ラインの条件が整っていない状態と言えます。つまり、最終的にムダな時間の賃金はエンドユーザーが支払う上代に転嫁されるということです。
これが調理場であるならば、5Sができていないと、すぐに客は来なくなるでしょうから、非常に分かりやすいのですが、困ったことにモノづくりの現場はそうではないので、やっかいなのです。
私は仕事柄、よその工場に頻繁に出入りをしていますが、手本にしたいような工場もあれば、その逆もあり、本当に様々です。
そして、出来上がってくるモノの品質は、概して5Sができているところほど優秀です。これは納期や、問題が発生したときの対応まで含めた総合的な品質の話です。
結局のところ、目の前の仕事以外にどれだけ目を向ける余裕があるのか、あるいは目をむけようとする気があるのか。
モノの良し悪しというものは、本当に小さな要因が積もりつもって、最終的に大きな差となって現れます。また、今現在似たような出来だとしても、10年後20年後に差が出てくる場合もあります。
これは外見からは判断のつかないことであり、私はよく「職人の良心」があるかないか、という言い回しをしています。いくらマニュアル化をしたところで、つくり手に良心がなければ絶対に良いものにはなりません。
当たり前のことですけどね。
10年後20年後、あるいは100年後のことまで気を遣うことのできる職人は、当然次の工程や、周りの職人、工場内の状況がよく見えています。
少し前、私は中堅の職人ふたりの動きを見守っていたことがありました。
作業はテーブル天板の接着作業です。
テーブルの巾は普通、800mmから900mmが一般的ですが、そんな巾の大木は滅多にないので、通常200mmくらいの巾の板を4~5枚接着して、所定の寸法の天板に仕上げます。
板の並びを確認し、接着剤を塗布し、やといざね(補強の部材)を差し込み、クランプをかけ、はみ出た接着剤をふき取る。
基本的な作業ですが、ふたりの動きは止まることなく、ムダな動きは一切なく、交わす言葉は一言もなく、自分の役割を熟知した・・・というより、手が勝手に動くのでしょう。その洗練された所作にとても感心しました。
もちろん5Sもバッチリできています。
「いや、素晴らしい動きだったね」
私は惜しみない賛辞を贈りました。
「会話がないんですよね、まずいかな」
「いや、それがすごいんだよ」
その本意が伝わったのかどうかは分からない。
でも、こういう職人の所作を見るのが、私は大好きです。