「空気を読め」〔クリシェ【凡百の陳腐句】4-1 Ver.2〕
「空気を読む」は「状況判断」の"下位互換"の言葉である。
「空気を読めない者」に「空気読め」と言ったところで、本人としては「どうしたらいいかわからん」のだ。
周囲から「クーキヨメ、クーキヨメ!」と言われ続けていた時期があった身としては、それが心底理解できる。
(そして、あのときどうしたらよかったのか"今でもわからん")。
とはいったものの、「空気を読む」という言葉自体は、この十数年ですっかり市民権を得たようで、辞書にも載るようになった。
それによると、「空気を読む」とは具体的には、
「その場の雰囲気から状況を推察する。特に、その場で自分が何をすべきか、すべきでないかや、相手のして欲しいこと、して欲しくないことを憶測して判断する。」(デジタル大辞泉)
ということらしい。
「じゃあ、『状況判断』でよくね?」。
最初にこの説明を読んだ、僕の率直な感想だ。
「空気を読む」の言い方は"漠然としすぎていて具体性がない"。だから、「空気読め」と言われたところでどうしようもないのだ。
「状況判断」なら、上記の「空気を読む」の意味が端的に表れており、かつ「空気を読めない者」にとって、ある程度の"方向性"を示しうる。
すなわち、「『状況判断』をし続ける」である。
思うに、およそ判断力というものは、判断をし続けることにより向上する。それは、状況判断も然り。
状況判断をし続けることで、状況判断の力が養われ、結果「空気を読めない」状態がいつの間にか解消されるのである。
それゆえ、自らへのマインドとしては「的確な状況判断を心がける」で必要十分だし、他人に対する示唆としても、「空気読め」ではなく、「状況を見て判断をしてくれ」と言った方が効果的だ。
「空気を読む」は「状況判断」の"下位互換"。
すべての「空気を読む」は、「状況判断」で事足りる。
(2022/1/23に投稿したものを再編)