見出し画像

実家で久しぶりに再会したスピノザ

実家に帰ってきて、大学生の頃に読んでいたスピノザの『エチカ』の100分de名著を読み直してみたらいまでも面白かった。(エチカ読んでますとか言えたらかっこいいんだけどね、難しい本マジで読めないので、もちろん100分de名著です、ええ)

まず、この100分de名著、さすがにNHK、誰にでも分かりやすくしてくれているのだが、目次から心が躍る。

目次
第1回:善悪
第2回:本質
第3回:自由
第4回:真理

え〜〜〜なになに〜〜全部おもろそうじゃん〜〜!というテーマである。特に自由に関しては、私の人生でなくてはならないテーマだし、本質と真理に関しても大好き大好き〜〜というテンション感である。(数年前に1回は読んだけど、わりと毎回本を開くたびに思ってる気がする。ちゃんと学んでるのか…?)

今日は、はじめにから善悪まで再読したので、私があ〜〜やっぱこの考え方スキ〜とか共感した部分をメモ程度にnoteに書こうと思った。

エチカはどんな本か

エチカは倫理学を表すラテン語の「ethica」。その語源はギリシア語の「エートス ethos」で、慣れ親しんだ場所や動物の住み家を表す。つまり、倫理という言葉の根源には、自分が今いる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがある。倫理というのは、自分がいる場所に根ざして生き方を考えていくことだと言える。

100分de名著「エチカ」p25

自分がいる場所に根ざして生き方を考えていく、という考え方は「みんなこう生きるのが正解!」の反対をいってていいよねぇ。

完全と不完全

我々はよく完全、不完全という言葉を使うが、スピノザ曰く完全か不完全かは自分たちの一般的観念(偏見)でしかないそうだ。

存在しているあらゆる個体は、それぞれがそれ自体の完全性を備えている。自然の中のあらゆる個体が不自然だと言われるのは、単に人間が自分の持つ一般的観念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているからであって、それぞれはそれぞれに完全なものとしてただ存在しているのである。

100分de名著「エチカ」p30

自然界にはそれ自体として善いもの、悪いものは存在しないとスピノザは言う。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悲しく、聾者には善くも悪くも悪しくもない。

「エチカ」第四部序言

この音楽の例は、授業でやったのも覚えている。音楽それ自体は善い悪いということではなく、組み合わせによって、善いか悪いかが決まると。友達からめっちゃおすすめされた音楽が自分の好みじゃなかったり、自分がめっちゃ好きな歌でも悲しい時はちょっと違う曲が聞きたいとなったり。同じ人間でも気持ちやタイミングによって、受け取り方は変わってくるよね。

音楽それ自体は善くも悪くもない。ただそれは組み合わせによって善くも悪くもなる。つまり、自然界にはそれ自体としての善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものとうまく組み合わさらないものが存在する。それが善悪の起源だとスピノザは考えているわけです。

100分de名著「エチカ」p32

いまスピノザが考えようとしているのは、いかに生きるべきかという問いです。この倫理学的問いに答えるためには、望ましい生き方と望ましくない生き方を区別することが必要です。(中略)私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。すべては組み合わせであり、善い組み合わせと悪い組み合わせがあるだけです。

100分de名著「エチカ」p33

最近、友達と自己分析/自己理解会みたいなのをひらいていた。自分の得意分野や自分が活きる環境を理解することで、もっと人生をフルに楽しめるんじゃないかと思ってやったりしたことだったけど、もしかしたら大学時代に読んでいた「私の活動能力を増大させる人やモノがある」という考え方を知ってから無意識的に考えていたのかもしれない。

この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。(中略)そのように個別具体的に考えることをスピノザの倫理は求めます。個別具体的に組み合わせを考えるということは、何と何がうまく組み合うかかあらかじめわからないということでもあります。(中略)スピノザの倫理学は実験することを求めます。どれとどれがうまく組み合うかを試してみるということです。

100分de名著「エチカ」p36

この第1回まで読んで、過去の自分のメモやマーカーした箇所も合わせて読み返すと自分の当時読んでいた時の感動や発見がよみがえってきて微笑ましくなる。そしていまの私も同じ箇所に共感している。

「不完全なモノはなく、あるのは組み合わせの善し悪し」という考え方は5年前と同様に今も救われている。
人間関係において、「この人、めっちゃいい人なんだけどなんとなく合わないんだよなあ…」とか「この人、普通に性格悪いのになんでこんなに好かれてるんだろう」とかいうのもただ私とその人の相性が悪しというだけであって、どちらが善悪というわけではないとか思うと、じゃあしょうがないかー!と思える。笑

誰かが「哲学は大学でやるのがちょうどいい。高校だとまだそんなに人生の経験をしていないからだ」みたいなことを言ってた気がするけど、それは本当にそうかもなと、人生経験を重ねれば重ねるほど理解できる。

哲学を学べば、自分が考えていたモヤモヤしていたことや感じていたことが整理され、理解できるものになり、救われたりもする。だけど、まずはじめに実体、実感、リアルな感情が伴っていないと全く理解できない。理論だけではやはり理解できない。理解できたと思っても、それはたぶん理解できたふりだ。わかったようなわからないことは、もしかしたらこれから経験することかもしれないし、経験せずよくわからないままな可能性もある。だから哲学は人生をかけて学んでいくのがよいのだと思う。

哲学と聞いてアレルギー反応が出る人はぜひ、もったいないので超簡単なものからでも触れてみることをおすすめする。漫画とか、テレビとか、youtubeとか。でもそれぞれに解釈する人がバラバラだからそれを一つの理論として信じずに、いち解釈としてとどめつつ、興味がでたらもっと調べてみたらよいと思う。最初からわからないのは当たり前。私も今でもスピノザなんてわからないけど、いいなと思う共感ポイントは5年前と同様にたくさんある。それは私がフラットな見方や楽観的でありたかったり、やってみないとわからないじゃん精神があったからだと思う。逆にスピノザが合わない人ももちろんいると思う。だから自分とバイブス合う哲学者を見つけてほしい。哲学者はめっちゃ暇人(失礼)で、自分が抱えている問題をずいぶん前に解いてくれてたりする。それを知ることでいま自分が抱えている問題は解決しないかもしれないけど、その問題に向き合う自分のスタンスは変えられるかもしれない

哲学は、世の中、自分、人間への理解を深くするために役立つ。楽しく、より善く生きたいと思ってる人にはおすすめである。


第2回は気が向いたら書こう。

いいなと思ったら応援しよう!