ざっくり!日本美術史 桃山Ⅰ
お次は、桃山時代です。
桃山時代は1573~1615年の約50年間。
他の時代区分と比べると非常に短いところが特徴です。
織田信長が足利義明を京都から追放したのが1573年。
1615年といえば大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされた年です。
つまり室町時代の終焉から、徳川幕府確立までの移行期を文化史的には桃山時代と呼んで区別しています。
そんな桃山時代の美術を、2回に分けて見ていきます。
桃山時代の美術
桃山時代は短期間ではありますが、美術は多様性に富んでいます。
文化の担い手はもちろん武士。
ただし主役は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家と目まぐるしく移り変わります。戦国時代が終わりを告げ、権威の象徴として美術大いに利用された時代です。
特に城郭や寺院建築の障壁画では華美で絢爛な装飾が好まれる一方、千利休が大成した茶の湯文化は身分を超えて隆盛を極めました。
国際交流も美術に影響を与えました。
ポルトガル船の来訪により、キリスト教文化が流入。アジア圏以外との交易は絵画以外にも戦術や宗教観にも大きな影響を受けました。
これらの異国人や異国船を主題とした南蛮屏風は、桃山時代特有の美術作品です。
狩野派の隆盛
織田信長や豊臣秀吉により城郭や寺院など大規模な建築が造立。
建築の内部空間を彩る障壁画の需要に応えたのが狩野派の絵師です。
狩野派絵師は応仁の乱以降の復興事業で障壁画の経験を積んでおり、桃山時代も多くの障壁画を一手に引き受けました。その中心的人物は狩野永徳です。
永徳の得意とする金地で鮮やかな彩色と力強い描写は武士たちに好まれ、江戸時代は幕府絵師という絶対的な地位を確立するに至りました。
この時代では安土城や聚楽第などの障壁画を手掛けたとされていますが、残念ながら焼失により現存していません。
また、京都の風俗を描き出した洛中洛外図も有名です。
京都の街を俯瞰して描いた屏風絵で、京都の人々の風俗が詳細に描かれています。多くの絵師が手掛けていますが、狩野永徳のものがよく知られています。
■ピックアップ作品
・狩野永徳「唐獅子図屏風」(16世紀後半)
...大規模障壁画を手がけた永徳の現存する数少ない作品
・狩野永徳「洛中洛外図屏風」(1565年)
...通称上杉本.永徳の若い頃の作品として有名
・長谷川等伯「松林図屏風」(16世紀末)
...狩野派とは異なりテーマをシンプルに描いた
・狩野内膳「豊国祭礼図屏風」(1606年)
...秀吉の七回忌に催された祭礼を描く.洛中洛外図に似た構図
・海北友松「建仁寺大方丈障壁画」(16世紀)
...水墨画で描いた全50面の襖絵,友松は近江浅井家家臣の子
・雲谷等顔「大徳寺黄梅院障壁画」(16世紀)
...毛利家の御用絵師.雪舟の旧居を与えられ画系の再興を図る
ナタデココをこよなく愛する旅のひと。