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『たましいがくさいわけ』展 ①|なんか気になる無意味と空虚
『「無意味」は無価値なんだろうか?』と言う疑問が膨らみまくったので、今やっている展示『たましいがくさいわけ』を通して、「無意味」に感じている面白さ、可能性について考えていこうと思います。(私の独断と偏見による)
はたして意味があることだけが、大事であり価値があるんか?
※ATTENTION※
モヤモヤしていることをモヤモヤした体裁で書き殴っているだけなので、結論の書かれている記事ではありません。関連することやわかったこと、おすすめの本などありましたらご助言いただけると嬉しいです。
この記事の内容について:
□『たましいがくさいわけ』展を「無意味」という切り口で解体してく。
□無意味の再定義、他の言葉での肉付け
↑この記事では上2つでほぼ終始する
□「無意味」に感じている可能性や展望ついて考える。意味があるもの、整えられた物、終わり(オチ・目的)に向かうための最適解であること、だけが本当に大事なんか?という疑問(たぶん結論までは辿りつかない)←別記事に持ち越し
自分でも、無意味を「込められている記号がない(=ただの〈現象〉)」と「価値・有用性がない」を混同して使っている気がする。でも、この「込められている記号(抽象化)がない」ことと「価値・有用性がない」こともどこか繋がっている感じもすし、ここをきちんと言語化していくことが「無意味」を考える上でとても重要な予感がしてる。がそれは別記事でまとめる。
(おそらく言いたいことは「込められている記号がない(=ただの〈現象〉)」の価値・有用性なんだろうと予感。でも「記号(意味)がない」≒「有用性がない」と言う矛盾・・・ループ。)
(0)展覧会概要
![](https://assets.st-note.com/img/1641574999975-ZbwKGeB7HK.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1641575045672-3sqIoU78vw.jpg?width=1200)
『たましいがくさいわけ』
会期:2021年12月3日(土)〜2022年3月7日(月) 火曜休館
会場:八千代の丘美術館 TOKUBETU〈G・H・I〉企画展示室
広島県安芸高田市八千代町勝田10494-7
時間:10:00-17:00(入館は16:30まで)
作家:津川奈菜、吉田彩花
キーワードをまとめる
設営がおわって、まだ手直しが必要ではあるけどなんとなくちょっと今回の展示について冷静に見れるようになってきたこの頃。
ここ最近の自分の興味とすり合わせて、ある切り口でキーワードをまとめなおすとすると、
たましいがくさいわけ/考えてもしょうがないこと(あるかないかわからないものの匂いくささを気にする)/入れ物と中身/滑稽/空虚/無意味/何かしらで満たされている/カラッポ/中身がつまってる/ハリボテ/共有不能さ/不条理/まぬけ/水の泡(水と空気が一時的に混ざった状態)
(通りのいい意味が見つかるまで、展示を認められない・よしとできないこともなんか違和感あるけど…)
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![](https://assets.st-note.com/img/1641784599961-lqTzYHrjx6.jpg?width=1200)
(セラミックの人形:津川
2畳空間:吉田)
(1)「たましいがくさいわけ」について
①たましいはくさいのか :知らん
正直にいうと、知らん。です。
たましいのにおいなんて嗅いだことがないし、くさいのかどうかなんてもちろんわからん。そもそもこの展示とは関係なしに発生した言葉で、来るべき時のために熟成させていたものだった。
②「くささ」と距離 :たましいはくさいかもしれない?
くささに関わらずではあるが、「におい」は生き物の生存に関わる重要な情報。
自分と遠いもの(=遠くに置いておきたいもの/距離をとっておきたいもの/近くにあると不都合なもの)に対して「くさい」と感じる?【汚物、腐敗、ゲロ、捕食者、遺伝子的に近い者】
下水なども整備され、いわゆる「くさい」ものに触れる機会はかなり減ってる様に思う。「くさい」ものに蓋をして、見なくて済む様な仕組みになっている。すると、あたかも存在しないものの様に勘違いしてしまう。自分と「くさいもの」は関わることがない、縁遠いものの様に錯覚する。そもそも、それらは「限りなく自分の近くにあったもの・こと」だったにも関わらず。
近くにあった事物だからこそ、遠ざける必要が出てくる。そして遠ざける最も効率的な方法が「くさい」と感じること?(繰り返すが、汚物、ゲロ、死、遺伝子的に近い者)
「くさいものに蓋」が常態化して、もともと近かった・自分の内部にあったことなんて忘れていっている様な気がする。
結論:「くさい」ものとは、「限りなく自分にの近くにあるorあったものであり、かつ蓋をして(距離をとって)おきたいもの」か?
![](https://assets.st-note.com/img/1641822094772-kVam0TNK54.jpg?width=1200)
《じゃあ「たましいは」? 〜無理矢理こじつけるとすると〜》
■容器に入れておく必要がある
蓋をするかどうかは別として、自分の近くにある物であり、かつ(身体という)入れ物に入れておきたいものではある。。ちょっと迷走してきた。
■蓋もすべきである
生の生々しさ、泥臭さ、そんなものをたましい的なものと関連づけるならば、それらは「蓋をすべき物」として扱われている様な気はする。「くささ」は表には出さずに、隠しておくべきもの。
③強烈であいまいな「くささ」 :共有不能さ
生物にとっては、生存に必要で重要なニオイ・くささではある反面、人間にとってはすごく曖昧で、学習・習慣的な部分もあり、幻想(気のせい、思い込み、妄想)のような時もある。(つまり人は生物的なのと人間的なのどっちも持ってる?)
周りは何にも感じていないのに、自分だけ自分のニオイをひどく気にしたり、逆に自分では何も感じていないけど、周囲は気にしていたり。なにか幻想の様というか、違うものを受信しているのかというくらい、共有できない時がある気がする。(匂いに限らず感覚器官で受け取ったもの全般に言えることではある)
ハイエナやハエにとって腐臭は「良いにおい」なのかもしれない。
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④「たましい」+「くさい」+「わけ」の破壊力 :誤謬、滑稽さ
■「たましい=きれいであってほしい」
「たましい+くさい」に抱くちょっとした反感。なぜだか自分で考えた言葉にも関わらず、どこか「たましい=きれいであってほしい」と思う自分もいた。そういう先入観を持った上での「たましい」と「くさい」が出会った時のズレ感、おかしみ。(これは別章でも触れる)
■誤謬のおかしさ
「わけ」がつくことで、「たましいがくさい」ということが、自動的に「すでに認められている前提条件」の様になること。滑稽さ。
⑤考えてもしょうがないこと :無意味
そして、肩透かしの様だが今回のキーである「無意味」。
「たましい」という、あるのかないのかわからないもののニオイやくささを気にする無意味さ。仮にたましいに匂いがあったとしても、存在が認識できないのと同様にそれは人間が感知できるレベルのにおいではなんかもしれん。
(2)フライヤーからみる「たましいのくささ」
![](https://assets.st-note.com/img/1641734546018-oQpZ1BKESi.jpg?width=1200)
①きたない料理 :生きてること生命そのものは、どこかきれいであってほしい?
さて、タイトルが「たましいがくさいわけ」に決まりフライヤーを作ろうとなった段階で、まず思い浮かんだイメージが「きたない料理」だった。
〈フライヤーデザインに際してのやりとり〉
「たましい=くさい」から私が連想したビジュアルがなぜか「きたない料理」です。(すごい失礼になるんですが、イギリスの朝食のドロドロした感じみたいな。イングリッシュブレックファーストで画像検索して出てくるイメージ。)「たましいがくさい」ことと「料理(食べ物)がきたない」ことって、なんか通じるような感覚がある気がして。
なんか、生きてることとか、生命そのものを、どこかきれいであってほしい、きれいと思いたい欲求がある気がします。なので、その代表格である、「たましい」や「食べ物」が汚い・臭いというのは(倫理的に?)一瞬反感も覚えます。(「老い」もちょっと似たところがあるのか?)
でもそういった“きれいであって欲しいもの”、が一気に覆されたときに出てくる、〈現実〉らしさというか。生命の泥臭さを目の当たりにしてすると、もう納得するしかない、という感じもします。
きれいなこと(と思い込んでいること)、きれいであって欲しいこと、ってたましいや料理以外にもいろいろあると思うんで、イギリス朝食のビジュアルにこだわる必要はないんですが、なんかそういうところにも触れられるイメージになったらなぁ、という想像をしました。
②自立しない羊羹 :〈現実〉の裏付け
そんなこんなでいろんな舵取りをしつつ、最終的に「羊羹を立てる」ことにした。(フライヤーの裏面)でも実際やってみると、羊羹がうまく立たない。羊羹や紙の耐久性の問題で文字がいろんな傾きになってしまった。
しかしこのレイアウト、PCだけで作業しているとこういう配置にはなかなか”できない”なあ、とも感じた。(それでよしとできる裏付けがない、というか…)
PC上で、撮影した写真をもとに配置しなおすとかもできるけど、おそらくPCであのレイアウトをしたならば「なんでこれ…?」となった様な気もする。
デジタルではなく物理的に、〈現実〉であの状態を作る。それは重力とかいろんな物理的制約の上であの状態が成り立っている、ということは一目瞭然だし、そうなると「なんでこの配置?」という疑問は出ようがない。〈現実〉に裏付けされているというか。あの状態に仕上がったのは、重力のせいであるし、羊羹と紙の耐久性のせいでもあるし、羊羹が自立しなかったせいでもある。それらを否定しようがないし、そりゃそうなるわな、という妙な説得力を感じてしまう。
![](https://assets.st-note.com/img/1641784551316-GPiCvS3Gym.jpg?width=1200)
③オチのない4コマ :断崖絶壁、進むべき道筋が見えない絶望感
ある時、会場で「フライヤーの4コマにオチがないことがどうにも納得がいかない」という方に遭遇した。同時に展示の内容に関してもどう理解して、何を受け取ったら良いのか分からずとても困惑している様だった。(正直、この方の言い分も痛いほど良くわかる)
でもそもそも、この4コマは私と津川さんでリレー形式に描いて行った物で、その制作過程で方向性や意図の共有などは一切していないため、話のつながりやオチがつきようもなかった。もちろん、つかせようともしていなかったが。(1、3コマ目:津川さん、2、4コマ目:吉田)
なぜ「オチがない突き放した様な終わり方」をあえてとったか、ということはこのタイミングではうまく言葉を持っていなかったためちゃんと伝えられなかった。
この問いかけはめちゃくちゃ大事な物だったと思うし、自分でも考える必要があると思ったためもうすこしちゃんとまとめる。(別記事で)
(3)展示にオチは必要か? :次回予告
やっと本題という感じだけど、長いので次の記事に持ち越し。軽くどんなことを書こうかの殴り書き。
①なぜ「オチがない」(=無意味)は気持ち悪いのか?(想像)
受け取るべき成果(結論)がないことの無駄感。『夜と霧』を読んでみた。
②「オチがない」(=無意味)にどういう手応えを感じたのか?
■ノイズ
ノイズ、最適解ではないこと、終わり(目的)に最短経路でい行かないこと、寄り道、遠回り。クリエイティビティ、創造という観点ではこう言った無駄・無意味のどうしようもない部分にとっかかりが潜んでいたりするのかも?共有不能さとも関連してるかもしれんが、個体のどうしようもなく持ってる傾向、気分やいろんなことに左右される、そういう何かの生成仮定でおこる有機的なノイズ。
■等しく全てを「意味」にする=「無意味」(?)
日本の文化を見ていくと、いろんなものを自分と結びつけ、関係あるものにする、「意味」を与えることことが得意なようにも思う。全てを「意味あるもの」にすることと今回言わんとしている「無意味」はもしかしたら同義なのかもしれないと思いつつ、(八百万の神、占い、虫の知らせなど…)
あるがまま=〈現実〉=記号化(抽象化)されてない=無意味
余談 :無駄なことこの上ない、「3次元の散歩」
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