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神舞ひろし
2020年10月4日 10:37
気がつけば、知らぬ間に月が替わっていた。 五月の終わりから走り出した北の大地も、あとは道南を残すのみとなっている。 北海道を走り出した頃は、遥か遠くに見える雪帽子を被った山並みを、スッキリと澱みなく見せていた空気も、湿気が上がったせいか、今は霞がかかったようにぼんやりと雪帽子が消えたそれを見せている。時折、寒さすら感じるほどだった気温も、近頃は、ここが本当に北海道なのかと思わせるほどの酷暑に
2020年10月5日 07:46
空がだだっ広い北海道感を醸し出している風景にも、俺の中にある感動指数の針は振り切れそうにはなく、こんなものか道南は、という感想だけが俺の中に増え続けていく。これなら、函館に上陸して北上すれば良かったのかもしれない、とすら思った。 それはもしかすると、ちゃんと別れを告げることが出来なかったせいかもしれなかった。抱き締めて眠った時の、あの安らぎのようなものを手放すのは、正直惜しかったのだと俺は思う
2020年10月6日 07:57
今朝の大浴場は昨夜とは違っていた。 どちらの温泉も楽しめるようにとの心遣いか、もしくは、ここまで金をかけて作りましたよという単なる風呂自慢なのだろう。 露天風呂には昨日なかった滝が作られていて、貸し切り状態だった。 俺はゆっくりと身体を目覚めさせながら、溜まった疲れが湯の中に溶け出ている感覚を覚えた。 そんなほっこりとする気分とは裏腹に、庇の向こうでは、逆撫でるような小雨が降り続いていた
2020年10月7日 07:42
青苗の朝は明るく眩し過ぎた。 窓から差し込む光だけでなく、階下で人が動き回る音すら眩しかった。 セットしたアラームが鳴るまで、もう少し眠っていようと思ったのだが、家族というものには、こういう音もあるのだろうなぁと思うと、俺は眠れなくなった。かといって寝不足ではない。近頃ずっと、早寝早起きなだけなのだ。 洗面所に行って歯を磨き、顔を洗った。 階下から北海道訛りのキツイ話し声が上がってきてい
2020年10月8日 07:53
小さな街に生活音が飛び交う中、それに混ざり込むように相棒を暖機しながら荷物を積み込んだ。 折角この旅のために買ったステンレスシルバーの予備タンクは、一度も使うことなく津軽海峡を渡ることになりそうだった。 山積みになった荷物は今日も安定している。本当は、もっと早く出発する予定でいたのだ。 昨夜の居酒屋には食いたいものがなかったので、少し飲んでから近くのコンビニで酒とツマミを買って帰り、部屋
2020年10月9日 07:47
とうとう朝はやってきた。 今日は一日、何時鳴るかわからないガラ携を気にしながら、函館の街を巡ることになる。 何故だかもう、津軽海峡を渡りたい。そんな気持ちが、俺の中の何処かにいることが不思議に感じた。まだ、函館山から夜景を眺めていないのにだ。 午前十時のチェックアウトを待ってホテルを出た。 今夜の宿は決まっているのだが、しかし、荷物を預かってくれるフロントがない。満載の荷物を積んだまま、
2020年10月10日 07:37
施設に必要書類を届けたあと、ともえ大橋のある海側の道を末広町へ向かっていた。 書類など迎えに来る前に提出して来いよ。そう俺は思った。 赤煉瓦の金森倉庫辺りは昨日と変わらぬ賑わいで、ベイエリアの歩道は人でごった返していた。 八幡坂の手前で右折する。今日も函館山は雲の中だ。趣ある建物が随所に建っていた。函館の歴史の豊かさを物語っている。 気になっていた市電の函館どつく前の駅は、「あ、ああ」と
2020年10月11日 08:51
ハネさんはドアを開けるなり訊いてきた、「どうだった?」と。 とんだ変わりようだ。 俺は取り敢えず、ここを出るように言った。 通りに出て直ぐ傍にあったスーパーの駐車場へ、ハネさんはハンドルを切った。野間が何を喋ったのか、余程気になっているのだろう。 俺はありのままをハネさんに伝えた。ハネさんはまた、一々感嘆の声を上げた。こういう癖なのだと理解した。 全部を聞き終わったあとハネさんは、暫く
2020年10月12日 07:32
寝る前の心ざわめく電話にも、俺の睡眠欲は負けてはいなかった。よほど身体が疲れていたのだろう。 目覚めは爽やかだった。が、起きる時に毎朝感じる疲労感が今日は二割増し、その上、身体のあちこちに軽い痛みが生まれていた。年をとった証拠だ。 今朝も湯船には湯が張られていて、ユラユラと湯気が立ち昇っている。シャワーを浴びながら、昨夜の美枝子の乱れようが頭に蘇ってきた。一度プールで触れて以来二十年近く憧
2020年10月13日 07:41
住宅街に降る雨が止んでも、空が青くなるわけではなかった。 赤い傘を畳み、灰色の雲が覆い尽くす下で、俺は野間のアパートまでカメラを見つけながら歩いて行く。 案外、防犯カメラは無いものだ。しかし、一つもないわけではなかった。 それに人通りも少しはあった。その中に、聞き込みに回っている刑事らしき人物がいたのも本当だった。 野間のアパートに着いた。今日もまたこの時間は、全体がひっそりとしていた。
2020年10月14日 07:32
目が覚めると、寝返りをうつことすらひと苦労だった。 やはり俺の身体に無理は禁物なのだ。 今日を含めあと三日しかないのに、とんでもないことだ。 俺は言われるまま身体を起こし、緑色した静江特製スペシャルドリンクを胃に流し込んだ。 暫くすると、ニンニクのような香りがするなぁっと思ったところで、俺は眠りについていた。 雨が降っているのだろう。 俺は暗く湿った場所に、身動きすら出来ずに静かに
2020年10月16日 07:59
俺を迎えに戻った長谷さんから、早川芽美は『La petite fleuriste』に戻ったと報告を受けた。つまりは、あの工場兼住居のような建物が、早川芽美の住処ということだ。 一人で住んでいるのか、家族がいるのか。どちらにしても違和感があった。あの内部がどうなっているのかわからないが、人ひとりを閉じ込めるのには、何の問題もない広さなのだ。 だが、久保奈生美を拉致して、早川芽美にはどんな得があ
2020年10月17日 08:10
何とも映える場所での待ち合わせになった。 駐車場から二の橋の袂へ向かう途中、五稜郭の堀と急角度に尖がった石垣が、俺の中にある観光したい気分の頭を擡げるのを後押しした。そして、五稜郭タワーから見下ろした時の景色を思い出し、今どの辺りにいるのかを把握した。 歩きながら、美枝子ではないが、とっとと情報を集めて白黒つけなければと考え、擡げた思いを抑え込む。 時間どおりにやって来た児玉は、俺と変わら
2020年10月18日 07:31
少しだけ開けたドアの向こうも薄暗かった。だが、薄明かりに慣れた俺の目には、廊下の奥のリビングからの微かなぼやけた光で、玄関全体の様子がハッキリと見えていた。 やはりクラシックが流れている。 対面には図面どおりにドアがあった。食堂から上ってくる階段の扉だ。本当は一階を先に潰しておきたかった。だが、この状態では仕方がない。 靴はなく、右手の作り付けの靴箱に入れる習慣か?その靴箱の上には、何か物