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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編   7

 施設に必要書類を届けたあと、ともえ大橋のある海側の道を末広町へ向かっていた。
 書類など迎えに来る前に提出して来いよ。そう俺は思った。
 赤煉瓦の金森倉庫辺りは昨日と変わらぬ賑わいで、ベイエリアの歩道は人でごった返していた。
 八幡坂の手前で右折する。今日も函館山は雲の中だ。趣ある建物が随所に建っていた。函館の歴史の豊かさを物語っている。
 気になっていた市電の函館どつく前の駅は、「あ、ああ」という感じだった。もっと観光地かと思っていたのだ。灰色が垂れこめた空が、俺にそう思わせたのかもしれなかった。
 急に記憶にある函館山から撮られた写真が、頭の中に浮かんできた。そういえば、俺は小学生だった頃、函館のこのギュッと左右を絞られた部分が、北海道の持つところだと思っていたんだ。
 そんな昔のことを、加齢臭が染みついた黒い軽自動車の助手席で、車窓に流れる函館の街並みをボーッと眺めながら、一人思い出していた。
 「中井戸のヤサはあの奥だ。あそこに久保奈生美はいなかった」
 車を停めるとハネさんは、人しか通れないような。斜面の際に通された道の途中にある一軒の家を指した。中井戸は三人の中で一番素行が悪い奴らしかった。
 今の時期、函館は漁火を焚いての真イカ漁が盛んらしい。夜の漁に備えて、今の時間、中井戸は家で寝ているはずだとハネさんは言った。
 俺がドアを開けると、「警察沙汰になるようなことはするなよ」そうハネさんは続けた。
 羽田と書いてハネダではなくハネタと濁らずに読むのだ。と、昨夜遅くにかかってきた電話口で、津田は俺に説明した。
 美枝子への来客は、登別の湯で会い、具多楽湖の湖畔で涙していた函館の男だったのだ。
 俺は、一人暮らしをしているという中井戸の家の前に立った。隣と二個イチになっている平屋だ。電気メーターが微かに動いている。中に人が動いている気配は感じられなかった。ハネさんの言うとおりのようだ。
 呼び鈴をこれでもかと鳴らした。
 少し待っても誰も出てこないので、再び呼び鈴を何度も押し続けた。
 中井戸より先に、隣に住む中年の男が玄関から顔を出した。
 「うる……」まで言葉にしたところで、俺にニヤケタ面で一礼して、すぐに顔を引っ込めた。
それは、中井戸がおかしな連中と関わり合いがあるという答えだ。
 鳴らし続けると、やっと中井戸が奥にある扉を開けた。北海道らしい二枚扉だ。
 「何ですか?まだ、支払いにはまだあるっしょ」
 それが、俺の目の前の摺りガラスを開けて顔を出した中井田の第一声だった。

 昨夜の津田の第一声は「どうしたんですか?何処かで頭でも打ちましたか?」だった。 
 俺は津田に文句を言った。こちらの弱みにつけ込むなんて、なんて奴だと思ったのだ。
 だが津田は、俺の居場所を推測して名指ししたわけではないと言った。それというのも笹森家は函館の古い名家で、今でも、この街の市や消防、そして警察にまで少額ながら毎年、寄付をしているというのだった。

 声が出ないように左手で中井戸の喉を掴み、俺はそのまま押し入るように無言で中井戸の家に入った。
 玄関に乱雑に置かれている靴の中に、女性用の靴はなかったが、家の中は綺麗に整頓されていた。
 赤い顔をして震えている中井戸に、俺は久保奈生美の名前をただ言った。
 黒目を左右に揺らせて、中井戸は何か言いたそうにした。
 俺は一層左手の握りを強めたあと、「知ってるよねぇ」って言ってから左手の力をスコンと抜いた。中井戸はボトンと床に尻餅をついた。

 今年も、昨年初めに亡くなった美枝子の母親・美佐代名義で寄付がなされていた。
 美枝子は一切表に出ることはなかったのだが、この春、こども食堂設立にあたって笹森家へ寄付の陳情に訪れたのが、警察を定年退職して保安員をしながら、街の子供達の見守り活動も行っている羽田だった。陳情は上手くいき、羽田は美枝子から寄付を満額せしめた。
 津田は、そういう素晴しいところには良い人材がいるだろうから、相談してみてはと助言しただけだと言った。

 雨が降りそうな空の色だった。
 昔は普通だったことが、今は異常だったのか?と思わせる。
 やっぱり俺は変ってしまったようだ。後味の悪さを引き摺っていた。
 人家が密集しているのだが、誰も歩いてはいなかった。車までが遠く感じられる。
 俺が助手席に乗り込むと、ハネさんは無言で車を発車させた。次の野間という男が勤めている鉄工所へ向かう。

 何とも偶然は重なるものなのかと感心させられた。
 全ては、内容も訊かずに引き受けた俺が悪いのだ。
 津田は、笹森家のことについても話してくれた。
 笹森家は明治から続く名家で、函館を中心に海運業や道内の輸送業で財を成した。あの立派な屋敷は、美枝子の母親・美佐代の曽祖父の時代に建てられたものだった。

 野間が働く近藤鉄工所に着いた。溶接音が閉まったシャッターから僅かに漏れ出ていた。黄色く色付いた半透明のプラスチック製の板が、覗き穴のように嵌め込まれているところから中を覗いた。
 「あの右側で、点付けしてるのが野間だ」
 ハネさんが横でそう言った。
 野間は俺が見たところ、何の変哲もない真面目な男のように思えた。だが、そういう類の人間がいとも簡単に罪を犯すことを、俺は知っている。
 車に戻って野間の住むアパートへ向かった。

 笹森家の繁栄も、美佐代の父親が早くに他界したことで一変した。男手のなくなった笹森家は事業を売却する他なかったという。その事業を買い取ったのが、北海道の名士と言われ名高い、故・中之島是行だった。そして、美佐代は、是行の愛人になった。美枝子は、その中之島是行の隠し子なのだという。
 どうしてそんな名家の娘が愛人なんかに?そう俺は思ったのだが、津田が言うのには、美佐代は是行に惚れて惚れ込んで、今でいうシングルマザーの道をいくことに自ら決めたらしいのだ。
 美佐代は情熱的な女だったのだ。だから美枝子がヤクザの女になることを許したのだろう。その辺りは俺にも何となく理解出来た。

 五分もしないうちに、ハネさんは車を停めた。
 周りは新しいマンションやアパートや住宅が建ち並んでいて、野間の住むという頑丈そうなアパートだけが、時代を遥かに越えたコンクリート製の昭和感を醸し出していた。
 ハネさん曰く、この時代の建物のは冬場温かいのだそうだ。
 車が三台停まっている駐車場を含め、アパートの敷地内には、ゴミ一つ落ちてはいなかった。駐輪場に停められている二台の自転車も、左側に寄せてキチンと真っ直ぐに整列されていた。直ぐ隣かこの建物の一室にでも大家が住んでいるのだろう。そうじゃないと、此処まで綺麗に管理されるわけがない。
 前の道から見える階段の手摺の縦棒には、不動産屋の入居者募集の看板が半透明のインシュロックで取り付けられていた。
 二階に上がると直ぐ目の前にドアがあって、あとは左右に二部屋ずつ振り分けられている。左奥の野間の部屋に人気はなかった。勿論、オムツを履かされ身動き出来ぬよう縛って転がされていれば、俺にはわかるはずもないのだが。
 階段を下りて郵便受けを見ていると、どの箱にも名前は書かれてなく、上下合わせて十個ある箱の半分には白いテープで封がされていた。人が住んでいる部屋は五つということだ。
 一つだけ郵便物が溢れそうになっている箱があった。一階の駐車場に一番近い部屋のものだ。摺りガラスの窓にはしっかりとカーテンだかブラインドだか目隠しがされていて、人は住んでいないのかと思っていた。何処にでもいるのだこういう手合いが。もしかしたら、倉庫代わりに使われているのかもしれなかった。

 無論、中之島是行の遺産は美枝子にも権利はあった。だがそこは名士と言われた男、トラブルにならぬよう、生前に美佐代と美枝子の母娘には、相当額の金や証券を生前贈与していた。だから、美佐代が亡くなった今も笹森家として寄付を続けられているのだ。
 俺が作った十億近い金の大半を、沢木がガッサリと持っていったと思っていた。だが、そんな金などなくても、充分に生きていけるだけの財を美枝子は持っているのだ。では、あの金は何処へ消えたのか?

 建物全体をベランダ側から見渡した。二階の野間の部屋の窓は透明ガラスで、紺色の遮光カーテンが閉じられていた。
 助手席に俺が乗り込んでも、ハネさんは何も訊かなかった。元警察官で、一時期は刑事でもあったハネさんが、態々素人の俺に一々感想を訊くはずもなかった。素人風情に何が出来る。そう思っているのかもしれない。
 「ちょっと遠くなる」
 そう言ってハネさんが向かった先は、函館空港の奥にある牧場だった。
 小雨が降ってきた。
 最後の紀田は、東京から来て函館に住み着いた者らしい。元はバンドマンだったという紀田の写真を見ながら、俺はハネさんに訊いた。
 「なんでここまで、あのガキのために動けるんや?」
 ハネさんは何も言葉を発しない。
 「もしかして、具多楽湖が関係してるん?」
 「津田が何か言ったか?」
 「いいや、津田から聞いてたら、改めては訊かん」
 「そうだな」
 「別に話したくないならええけど、ハネさんが引っ掛かってることが何なのかわかれば、ちょっとは何か浮かぶかなぁって思てな」
 ワイパーが景色を見せると、直ぐに水の膜が景色をぼやけさせる。
 雨の中、俺は何をしているのだろうと思う。
 「どうもな、似てるんだわ……」
 唐突にハネさんは口を開いた。
 「十年前、俺の娘がいなくなった時と、どうも、似てるんだわ」
 俺は写真の束から、いなくなった久保奈生美が失踪した直後だという部屋の写真を見た。とても物が多い上に乱雑に置かれていた。他の写真には洗濯した服だろうか?部屋の隅に山になって置かれていた。ツバサというガキの机が置かれた部屋の写真はまだマシな方だ。最後のキッチンも酷かった。テーブルの上には食べたあとの箸が飛び出たカップ麺が幾つも並んでいて、床には捨てられていないゴミ袋が幾つも置かれていた。これでよく子育てが出来るものだと普通なら思うような現状だった。けど、俺がテンポイントという名のヒーローに出会った時の部屋よりも、随分整理されていてまだ綺麗な方だと思った。
 しかし、これでは何がどう似ているのか理解出来なかった。
 「勿論、俺んちは、そんなに汚くはしてなかった。ちゃんと娘が、毎日、綺麗に掃除してたもの」
 「ほな、何が似てるっていうの?」
 「先ずは、前兆が何もなかったことだな。そして、何も痕跡がないこと。あとは、俺もツバサも、相手から愛されていた実感があったことだ」
 俺には理解出来ない言葉だった。
 (愛されていた?)
 そんなものが、女が子供一人残し姿を消したことに、他者が介在しているという証明になるのだろうか?それに、娘は羽田の知らない何かに不満があって、姿を消しただけではないのだろうか?それを認めたくないから、こんなよくあることに乗じて自分を慰めている。オナニーってやつではないのか。
 小雨降る普通の生活のある街並みを見ながら、施設に向かう道中に聞いたハネさんの話を思い返してみた。俺の中の何処かが、必ず探し出せと命じているようだった。
 久保奈生美は、俺がツバサと会った日に姿を消している。一昨日、ハネさんがツバサに、俺からのプレゼントを渡しに行って、事が発覚した。
 ハネさんは翔から仕入れた情報を基に、先ず、奈生美の勤め先の食品加工の工場に向かった。
 工場長は、今日、久保奈生美は無断欠勤をしていて電話にも出ないと言った。昨日は朝からいつも通りに出社して、夕方定時で退社していた。
 次に奈生美の友人達を当たり、そのあと、夜働いているスナック美穂のママから、奈生美と仲が良かったと思える三人の男の名前と、住んでいるところを訊き出した。
 急ぎ三人の男達に話を訊いたのだが、誰も奈生美が消えた先はわからないと言ったのだ。
 まだ事件性のハッキリしない、これくらいのことで失踪人捜索に本腰を入れるほど警察は暇ではない。そのことを知っているハネさんは、取り敢えず函館署に一報を入れたあと、津田に相談したのだという。そして昨日の笹森家訪問となったのだ。

 俺が関わる以上、一人一人に直に当たってみたいと思った。人は、出会う人物によって顔を変えるものなのだ。
 俺が修道院に導かれるように曲がった交差点を過ぎて、空港の姿を横目に道はまだ続いていた。
 人家がなくなり、道は下り坂に入った。 
 紀田が住み込みで働いている牧場の看板があった。牛乳やソフトクリームの販売所も併設されているようだ。
 雨が降っているのに店は開いていた。
 「今日、俺は中へは行けない。俺が元警察だってのを知っている従業員もいるから、昨日の今日じゃ、ちょっと都合が悪い。紀田に迷惑かける」
 そうハネさんが言うので、俺は一人、笹森家を出る時にお手伝いの関根静江から手渡された、赤い傘を咲かせて向かった。
 ソフトクリームを一つ注文して店の中を覗き見た。働いているのは、俺のソフトクリームを作っている女性と、奥で拭き掃除をしている女の子だけだ。
 「紀田君は元気にやっていますか?」
 俺は商品を受けとりながら、奥にいる女の子にも聞こえるぐらいの声で女性に尋ねた。勿論、標準語でだ。
 「は?」
 女性は俺に手渡しながら不思議な顔をした。
 「紀田さんのお友達ですか?」
 奥から女の子がやって来て言った。
 「もしかして、バンド時代のお友達ですか?」
 「はい。といっても、何度かライブハウスで対バンしたぐらいで、友達というか、知り合いって感じ」
 俺は軽そうに言った。
 「なぁにぃ、エッちゃん、その人知ってるの?」
 「当たり前でしょ、ウチの従業員なんだから」
 「へーっ。そんな派手な人いたっけ」
 「派手ではないけど、ほらぁ、パライゾンバータってバンドでギターやってた人。ギターが巧いんだけど、歌が下手くそだって人よ」
 「あーっ、あの人。そお~。去年の忘年会は私出てないから」
 「そっか、マミさん、コウタ君が熱出しちゃったもんね」
 「よく覚えてるねぇ」
 「当たり前よ。私の可愛いコウタ君なんだから」
 「ありがとう」
 俺はソフトクリームを舐めながら、女二人の会話を眺めていた。そうなのだ、今の俺は白いロンTに黄色いアロハを着て、真っ赤な傘を差している。派手なのだ。
 「あっ、そうだ。紀田さんでしたよね」
 「そうよ、嫌だぁ、忘れてた」
 「今の時間なら、こっちに呼べると思いますよ。呼びましょうか?」
 「ええ、いいの。じゃあ顔だけ見たいな。お願い出来ます?」
 「ちょっと待ってて下さいね」
 そう言って俺の名前も聞かずに女の子は奥へ入ってしまった。
 俺は牛乳を一本買って、車の奴に届けるからと女性に告げてハネさんの元に戻った。
 「ハネさん、急いでスマホで東京のライブハウス探して、早く」
 俺に急かされたハネさんは、目をしかめながらスマホをいじくった。
 俺はハネさんからスマホを取り上げて、新宿と渋谷にある老舗ライブハウスの名前を三つ覚え、それからパライゾンバータというバンドを検索した。
 パライゾンバータというバンドは四年前に解散していて、俺が覚えた渋谷のライブハウス・タックスでライブをしたという書き込みも見つかった。
 バンドは五人編成で、キーボードとドラムが女だった。紀田は「トーキー」という名前で呼ばれていたようだった。
 俊夫・紀田で、トーキーか。これだけ情報が残されていれば、過去を隠すのは至難の業だなぁと俺は思った。
 それらを頭に叩き込んで、俺はソフトクリームのコーンを胃に収めながら店に戻った。店のカウンターには女の子しかいなかった。
 「紀田君、来てくれるって言ってました?」
 「ああ、もう直ぐ来ると思いますよ。あっ、あれが紀田さんです」
 女の子がガラス越しに指した方向には赤いサイロが見えていて、そちら側から駐車場にあるゲートまで続いている砂利道を、透明のビニール傘を差した男が歩いて来ていた。
 「ああ、紀田君、少し太ったのかなぁ」
 「自分でも太ったって言ってますよ。フフッ」
 「ゲートの所までは近寄っても大丈夫ですよね」
 「はい。でも、中は駄目ですよ」
 「ありがとう。ソフトクリーム美味しかったです」
 「いえ、こちらこそありがとうございました」
 気持ちの良い笑顔で見送られると、今の俺の心には少しチクリとする。
 さて、紀田にはどんな手で事実と真実を吐かせるか?
 俺はハネさんの黒い軽自動車の横で、紀田がやって来るのを待った。最初はゲートで待とうと思ったのだが、彼女の「中は駄目」という言葉で、其処から引き出した方が得策だと思い直したのだ。
 紀田がゲートまでやって来た。俺は赤い傘の下で、紀田に手を振った。そして、紀田がゲートから出て駐車場に入ったところで声をかけた。
 「トーキー、久し振り」
 傘に落ちる雨音で聞き取り辛かった様子の紀田は、小走りにこちらにやって来た。元来がオープンな性格で気の良い奴なのだろう。誰だかわからない奴に対して、何の疑問も疑念も持たずに会いにくるなんてどうかしている。その上小走りで寄ってくる。コイツが久保奈生美の失踪に関与しているとは、俺には到底思えなかったが、念には念を入れるのが俺の性分だ。
 「渋谷のタックス以来かな」
 「えーっと……」
 それは当然の反応だ。だって、全くのアカの他人なのだから。雨足が強まった。
 「トーキー、ちょっと太った?濡れるから中で話そうよ」
 俺が軽自動車のうしろのドアを開けると、紀田は促されるように車の中へ身体を入れた。ドアを閉める時に、チャイルドロックをかけるのを忘れなかった。
 反対側の後部ドアに向かいながら、紀田は本当にどうかしている。絶対にコイツが関わっているとは考えられない。俺はそう思った。 

 久保翔。かけると書いてツバサと読ませるのだ。奈生美の下に翔とマジックで書かれていた。
 まだ新しいアパートの周りには、吸い殻や空き缶やペットボトル、何故と思ったのが、ひび割れたジャガイモが一つ落ちていたことだ。
 停めるところがないので、近くのスーパーの駐車場にハネさんは愛車を停めた。「帰りに買い物をして帰るから」と態々理由付けした。
 翼がランドセルに揺られながら帰ってきた。あれが例のアレか。学童は昼までのはずだった。
 「あっ、関西弁のオジサン。〇×△の、××△◇〇〇□×◇、ありがとう」
 俺には翔が言った言葉の意味が理解出来なかった。多分、礼を言うところを見ると、あのハセストで買ってやった食玩がたいそう気に入ったのだろう。それらしき物を右手に握りしめていた。
 それよりも、やはり俺はオジサンなのだと思い知る。何となく、目元が奈生美に似ているような気がした。
 翔からじっくりと話を訊いた。小学一年生のガキと話すのには骨が折れた。だけれども、翔から訊かないとわからないこともあるのだ。
 「何で夏休みにランドセル背負ってるんや?」
 「ぼく、これが好きなの」
 「そうか、重くないの?」
 「重いよ。でもそれがランドセルでしょ」
 やっぱり俺には、ガキの頭の中がわからない。
 そんな翔の言葉を聞いて喜ぶ大人は、一人いるのだが。
 「オジサンってお笑い芸人なの?」
 「違うよ。大阪弁なだけや」
 「大阪弁?ふーん」
 興味は失せたようだ。
 「翔は、お母さんのこと好きか?」
 「うん。大好き」
 「そうか、どこが好き?」 
 「えーっとねぇ。いっつもギュってしてくれるところ」
 「そうか、ギュってしてくれるんか」
 「うん。こわい夢をみた時も、ギュって。それでね、大好きだよって言ってくれるんだ」
 「なにぃ。お前、まだお母さんと一緒に寝てるんか?」
 「えーっ、だって……」
 翔は生意気にも、恥ずかしがって顔を赤らめモジモジしている。
 「なぁ、翔はお母さんが彼氏にするんやったら、誰が良いと思う?」
 俺はまだ野間と話せていなかった。だから、先入観を持ちたくなかったので訊くかどうかを躊躇ったのだが、思い切って翔に訊いてみた。
 「うーーん。えーっと……」
 俺は三人の写真を、ハネさんが片付けたキッチンのテーブルの上に並べた。翔がチラチラと見ているのは一人の男だった。この男が久保奈生美のお気に入りか。
 「ないしょ。ママが二人だけのヒミツって言ってたもん」
 ハネさんが言ってた「愛されていた実感」というものの意味がわかった気がした。
 「ねぇ、オジサンもママのこと好きなの?でも、ママは、お笑い芸人さんはチョットって言ってたよ」
 誰がお笑い芸人じゃい。此処は話の方向を別に向けないと、子供は調子に乗って突っ走り、俺の知りたい情報が訊けなくなる。
 「なぁ翔、お父さんは何処に住んでるの?」
 「それは……、ちょっと言えない」
 奈生美の口癖なのだろう。
 「翔はお父さんのことが嫌いか?」
 「うーん。わかんない」
 俺は翔をジッと見た。
 「だって、ぼくにパパはいないから」
 俺はハネさんを見てニヤリとした。ハネさんは不思議そうな顔つきのまま頷くだけだった。
 そのあと、奈生美の女友達のことを翔に訊いてみたが、一番近くに住むケイタ君のママと、少し離れている鈴木君のママが出て来て、最後にお花屋さんのメグミさんと言った。
 この家には愛が存在しているのだろう。キッチンの窓のところには牛乳瓶が一本置いてあって、そこには黄色い花が一輪挿されてあった。近づくと、それは向日葵のようだった。だが、俺が北竜町で見た向日葵よりも一回りも二回りも小さな向日葵だった。
 それを見ながらハネさんは、「花屋か……」と呟いていた。

 数日分の着替えとランドセルと、俺が買ってやった何とかの何とかを大事そうに持った翔は、加齢臭が染みついた軽自動車の後部座席に収まった。
 紀田を降ろした時に、チャイルドロックは解除してあった。
 雨が降っていて窓を開けられないのが、俺には苦痛だった。
 保護施設で翔を降ろしたハネさんは、少し涙ぐみながら運転席に戻って来た。年をとると涙腺が緩くなるのは仕方がないことなのだ。
 こんなことに巻き込まれてしまうとは、つくづくだと俺は思う。そして、何か抜け殻になったような気分だった俺に、翔の笑顔は眩し過ぎた。この人生の懺悔の念ではないが、本気で母親を見つけてやりたいと思った。
 「なぁ、ハネさんは、翔の父親が、中井戸竜一ってことは知ってたんやんなぁ?」
 「えーっ」
 車輪が四つ共弾け飛んでしまったかと思うほど、急に車が停まった。
 俺は思わずフロントガラスに手を突いた。住宅街の狭い道でうしろに車がいなかったのは幸いだ。
 「危ないのう。何、急ブレーキ踏んどんねん」
 「その話は本当か?」
 「なんや知らんかったんかい。ほらぁ、早よ先進み」
 ハネさんは、誰が翔の父親か本当に知らなかった。
 俺は、中井戸から訊き出した話をしてやった。
 中井戸と奈生美は、中学の時の先輩後輩で、奈生美が中二の時に一つ上の中井戸と付き合い始めた。中井戸は高校へ進学したのだがドロップアウトし、奈生美が高校二年の夏に翔を腹に宿した。
 子供が産まれたら入籍する予定でいたのだが、年少から出てきた中井戸は、どう頑張ってみても子供に触れることが出来なかった。それどころか、子供と共に暮らすことを考えるだけで眠れなくなってしまった。
 奈生美はシングルマザーになって翔を育てることを決心し、中井戸が父親であることも隠し、中井戸にも、中井戸の家族にも他言しないように釘を刺していた。
 中井戸は金銭的援助を申し出たが、それも奈生美は突っぱねた。
 だが、翔のお気に入りのランドセルは、中井戸がプレゼントしたものだった。それに、借金はあるが、翔のためにずっと貯めている貯金には手を出さないのだと中井戸は言った。
 中井戸は、奈生美が働くスナックに時折顔を出していたのは、やはり二人のことが心配になるからだった。
 ハネさんは、一々感嘆の声を上げた。
 「ねぇ、ハネさんは、中井戸から何を訊いたの?」
 「何って、ちゃんとバンカケしたよ。久保奈生美が何処にいるか知らないかってさ。俺があそこでハコバンだった時に久保奈生美から聞いた話では、父親は東京からの旅行者で、翔が産まれて直ぐに死んだって言ったもんだから」
 「なるほどね」
 それにしてもよく、バンカケやハコバンなど特殊な用語がポンポンと飛び出るものだ。俺を何者だと思っているのだ。俺は一般人だ。ちゃんと職質や交番勤務と言ってもらいたい。
 「それに、中井戸は凄く驚いてた。あれは嘘言ってる奴の表情じゃなかったもの」
 「そういうことか」
 「なぁ、あんたは随分慣れてるみたいだったけど、何処でそんな技術覚えたの?紀田なんて、あんたの一言で、俺が聞いた答えと違うことを話しちゃうんだもんなぁ。自分は奈生美に惚れてたなんて。それに奈生美には彼氏がいたんじゃないかって言うんだもん。大したもんだ。もしかしたら、あんたも元サツカンじゃぁねぇの?ヤクザだったらもっと簡単に力で喋らせるもん。違う?」
 俺は笑ってそれには答えなかった。

 もう野間は帰っているようだった。部屋のカーテンが開いていた。他にも二階と一階の二部屋のカーテンが開いていた
 ハネさんを車に残して、俺は野間の部屋に向かった。
 駐車場には車が四台停まっていた。自転車は二台増えていたが、それもキチンと並べられていた。
 俺は階段を上がろうとした時、誰かの視線を感じた。サングラスの中で視線を巡らせた。だが、何処から見られているのかはわからない。道の向こうに視線を向けた。家の前を掃き掃除しているおばさんと目が合った。不審者だと思われたのか?
 俺は構わずに階段を上った。
 上り切ったところで、ニンニクの良い香りが鼻に流れ込んできた。真ん中の部屋の換気扇口から排出されている香りだった。続けて肉が焼ける匂いだ。豚肉だった。
 足を進めて行くと匂いはなくなった。
 サングラスを外して野間の部屋のチャイムを鳴らす。直ぐに中から「はい」と声が聞こえた。
 俺は正直に名前を名乗り、ハネさんに頼まれて、久保奈生美がいなくなった件について話を訊きたいと、ドア越しに野間に伝えた。
 ドアは直ぐに開いて、野間が顔を出した。やはり俺の金髪の鶏冠に目がいった。
 「ど、どうぞ、中へ……」
 簡単に部屋へと迎えられた。玄関先でこんな風体と長話をするよりはと思ったのかもしれない。俺は「お邪魔します」と言って靴を脱いだ。
 入って直ぐのキッチンにはテーブルはなく、流し台やコンロには、鍋や調理道具があった。俺とは違い、自炊の出来る男のようだった。
 そして窓のところに置かれた一輪挿しには、同じ花が挿されてあった。
 外から見えた、カーテンが開けられていた部屋に通された。野間はお茶でも出してくれるのかキッチンへ向かった。
 フローリングの床にはラグが敷かれ、その上に炬燵テーブルが乗っていた。テレビ台にはレコーダーとゲーム機が何台もあって、壁際の本棚は全部漫画本で埋まっている。
 クッションも座布団もなくラグの上に直接座り、俺はぐるりと部屋の中を見て回った。引き戸が開け放たれた隣の部屋を見ると、ベッドがあって、その向こうの壁には、北海道日本ハムファイターズの球団旗が張られていた。
 ここにも久保奈生美はいないようだ。
 野間がお盆に載せて運んできたのは冷たい麦茶だった。
 久し振りに飲む麦茶は、こんな味だったなぁと、俺の昔を思い出させた。
 「あのう、まだ奈生美ちゃん……」
 「野間千春さん、恋人のあなたにも連絡はないんですか?」
 「恋人だなんて、まだ、そんなぁ……」
 「でも、身体の関係はあった」
 「それは……」
 なんとも語尾の歯切れが悪い男だ。翔がチラチラ見ていた男は野間千春だった。何故、こういう男を選んだのか。奈生美のセンスを疑う。あっ、そうか。こんな俺を選ぶなんてのも、センスを疑う話だ。可笑しかった。
 「キッチンの向日葵は、何時、久保奈生美が持ってきたんですか?」
 「向日葵ですか。多分、三日前だと思います」
 「その時あなたは、久保奈生美に会わなかったのですか?」
 「会えませんでした。その日の終業時間が過ぎた頃に、七飯町にある美容室の店舗前の屋根テントの直しの急な依頼が入って、大口取引先の工務店さんだったから社長も断れなくて、それで僕が行くことになったんです」
 「けど、その日のうちに帰ってきたんやろ?」
 「いえ、結局、現場が終わったのは午前一時を過ぎていて、会社に戻って来たのは二時半を過ぎていました。社長の奥さんが起きて待っててくれたので、車の鍵を返して、あとは此処まで自転車で帰って来て、風呂も入らずにそのままバタンキューです。昼から出勤で良いと奥さんが言ってくれたので、十一時過ぎまで寝て、シャワーを浴びて家を出ました。それは、羽田さんにもお話ししましたし、羽田さんは、社長や奥さんにも話を訊いていましたよ」
 野間は、ハネタではなくハネダと濁って言った。
 「そんな中でも、スマホで連絡は取ってたんやろ?」
 「急な出張が入った。とは入れたんですけど、わかった。としか返事がなくて。いつも短いんですけどね」
 そう言ってスマホの画面を見せてきた。
 「じゃあ、あなたが向日葵に気づいたのは?」
 「それは一昨日、仕事から帰って来てからです。前日に来ていたのは、朝干していった洗濯物が、乾いた洗濯物になって床で山になっていたのでわかりました。ナオちゃん、洗濯物を上手く畳めないんです。だからいつも取り入れるだけで……」
 どうしてコイツは、ハネさんに知らないと答えたのだろうか?訊いたのが会社というのがいけなかったのだろうか?
 「あなたは、ハネタさんに訊かれて、知らないと言ったそうですが、会社で話すと何か拙いことでも?」
 「それは……」
 やはりそうなのだ。奈生美が合鍵を持っている時点で、付き合っているのは明白だ。俺はジッと野間の目を見つめ放さなかった。
 「あのう、もしナオちゃんが見つかっても、内緒にして貰えますか?」
 そう言ってから野間は、俺が頷くのを待って、淡々と話し出した。
 「今、社長の奥さんから、一度、姪に会ってみないか?と言われているんです。社長のところには子供がいないのでゆくゆくは、みたいなことも言われていて。わかってます。わかってますよ。ナオちゃんがいながら金の為に他になびくなんて、いけないことだというのはわかっています。僕だってナオちゃんのことが好きなんです。でも、ナオちゃんには翔君もいるし、もし結婚して、僕の子供が産まれたら、翔君のことを同じように愛せるのだろうか?って思っちゃうんです。それに……」
 それに、何だ。ハッキリしろ。そう思いながらも俺は気長に待った。
 「他にも仲良さげな男が二人もいるらしいんですよ。ナオちゃんが働いている店のママがこっそり教えてくれたんです」
 これは、スナック美穂のママの作戦だ。客同士で競争意識を持たせ、来店回数と落とす金を競わせるのだ。
 とすると、ママは奈生美と野間の仲を知らないのだ。俺がやっていたキャバクラなら、客との関係性は全て報告させる。そうじゃないと、嬢のフォローも他の指名客への対応もスムーズに熟すことは出来ない。そう教育してきた。
 「僕、どうしたらいいんでしょうか?」
 最後は俺に泣きついてきた。野間という男は頼りない。

よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。