ここがタメになった「生きる 小野田寛郎」3/⑦
太平洋戦争が終わってからもフィリピンの離島で30年間サバイバルをしながらゲリラ活動を続けていた日本兵のお話です。
日記のような形で淡々と語っているので、盛り上がりのあるドラマチックな作品という形ではないのですが、誰も真似できない個性的な内容が目をひきます。戦前の日本人の価値観を持っているため、現代の私たちから見ると理解しがたい部分は多いです。
生きるというテーマにしたのは、日本に来て講演するテーマが毎回生きることについてだからです。野生同然の生活をしてきた自分自身の体験から何かを汲み取ってほしいとのことです。
新聞ビラをまかれたり、フィリピンまで毎年親族が投降呼びかけにきていたのに、著者らはなぜ投稿しなかったのかという疑いがもたれています。ニセの情報であると思い込んでしまうからですが、それ以上にスパイ教育が大きいようでした。過去の戦争でニセ情報でスパイをおびき寄せを多用されている以上、上官命令である「おびき寄せの誘惑に負けずゲリラ活動のチャンスを待て」と教え続けられればしかたないのかもしれません。現代でも親や学校からの狭い情報で失敗することがあるので似ています。情報収集はいろいろな範囲から集めるのが重要です。
最後の弾はとっておくつもりのない本人でしたが、別の本では「体の動かない60歳になったら全ての弾を撃ちながら基地に特攻する」と決めていました。日本兵の本は時々見ますが、自分が死ぬところまで計画立てているのは見たことなくて具体的に死ぬ行動まで考えていなかったです。
横井正一さんのように潜伏した日本兵は他にもいるのですが、たいてい栄養失調でした。著者だけが肉体労働できるくらい健康でした。本を読むと食に気を使ってるのがわかります。栄養第一なため味つけや調理は二の次であるため「食事」ではなく「エサ」と仲間内で呼んでいたくらいです。
しかしつらいのは食ではなく、雨に濡れることだったと強調しています。見つかるのを防ぐためしっかりした住居を作れないので濡れてしまい、熱帯なのに寒くてつらいです。そんな時に一番「もうだめだ」と弱気になるそうです。その時気力に必要なのが「目的に近づく」ことであり意識していたそうです。生きることに必要なのは目的を持つこと、ということをいつも第一に述べているのはここからきているそうです。
目的を持っていないと衣食住がマシな現代でもあっさり挫折してしまうので今でも大事にしたいです。
~~以降は内容説明~~
日本軍では「最後の一発の弾は自決用にとっておけ」と言われていましたがそのつもりはありませんでした。自決しなくとも敵が自分を撃ち抜くから必要ないからと考えていたためです。
日本兵捜索はよくありましたが、昭和34年の捜索は大規模でした。著者の兄が山の中まで来て呼びかけていました。著者は遠くから眺めていて「似てはいるが別の人物ではないか」と疑っていました。兄が途中で感極まって声の調子が狂ってしまったのを見て変装と信じてしまいました。
山に新聞を撒かれたことがあり、復興した日本の様子も描かれていました。それを見て日本は健在で戦争の準備が再び進んでいると解釈しました。そのためゲリラ活動は続けようと考えました。ベトナム戦争や朝鮮戦争で爆撃機が島の空をたくさん飛んでいるのもあり戦争が終わって平和になっていると考えづらい状況でした。
サバイバル生活の食料のメニューはバナナ、放牧されている牛でした。牛は住民が帰った夕方から日が暮れるまでのわずかな時間でしか射殺するチャンスがありません。撃ち殺したあと血抜きして解体して夜のうちに片付けます。居場所を教えることになるので数十 ㎏ ある肉を持って夜通し遠くへ移動します。牛を殺した2、3日はステーキや焼肉で腹一杯食べます。肉を食べ過ぎてのぼせるため未熟なヤシの水を飲んで野菜代わりにします。
肉の保存は試行錯誤を重ねていて、最終的には小さめに切って一晩かけて燻製品になりました。ある程度燻製されているため腐りません。
栄養の知識がないため自分の体で試行錯誤しながら食べ物を工夫しました。毎日の自分の太り具合をチェックして食事の量を決めました。食事を作るのは敵に煙を発見されないため夜明け前に行います。
米は盗んできたもので病気の時の非常用となりました。元旦のみおかゆにしてお祝いとしました。基本味付けはしなく塩は貴重で薬としての扱いでした。
衣類は帽子や軍服含め3年以内に駄目になるので裁縫をして直しながら使っていました。終戦後30年目で最後に着ていた服は作り直した軍服で、住民から盗んだジャンパーの裏地で直してました。衣類を盗む時はナイロン製品が重視されました。雨を防ぐためにビニールも重要でした。
雨が降らない時期はテント小屋を作らずそのまま寝ました。視界がきく斜面にメンバーが並んで寝ます。ずり落ちないよう足元に荷物か倒木を置いて銃を抱いて寝ます。30年これを続けていたため、日本に帰った当初は寝床を傾けなければ眠ることができないほど染み付いていました。
雨季の間は木を切ってヤシの葉で小屋を作ります。それでも雨が激しいので濡れてつらかったそうです。