ここがタメになった「生きる 小野田寛郎」6/⑦
太平洋戦争が終わってからもフィリピンの離島で30年間サバイバルをしながらゲリラ活動を続けていた日本兵のお話です。
日記のような形で淡々と語っているので、盛り上がりのあるドラマチックな作品という形ではないのですが、誰も真似できない個性的な内容が目をひきます。戦前の日本人の価値観を持っているため、現代の私たちから見ると理解しがたい部分は多いです。
生きるというテーマにしたのは、日本に来て講演するテーマが毎回生きることについてだからです。野生同然の生活をしてきた自分自身の体験から何かを汲み取ってほしいとのことです。
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今まで30年の間何度も投降よびかけがあり疑って姿を見せることさえしなかったのに、一人の青年が投降よびかけしながら歩いていたら姿を現わすというのが意外性があって面白いです。服装みて判断を変えたのが理由だそうですが、肉親が投降よびかけても疑って姿を現さない人にしては理由が弱いです。1年半孤独に過ごしてきたので、人前に姿を現したい欲求に勝てなかったのが大きいと思います。ホモサピエンスが知らない人に対面したがる欲求はあまりにも強いです。すべての動物、ネアンデルタール人含む他の人類には一切なかったホモサピエンス特有の欲求とされています。
仕事なので投降には上司の許可がいるという意見も衝撃的でした。愛国心や自主性で戦っていたと思いがちですが、本人は仕事として冷静にとらえていました。ゲリラ活動を共にしたメンバーに強要することがなかったのもそこに基本があったような気がします。
著者は2年も日本にいることなくブラジルで牧場経営に挑戦して10年で軌道にのせてしまいました。日本政府から渡された補償金は靖国神社に寄付してしまって最低限の生活費だけでスタートしたのにものすごい速さです。その間をぬって日本語の新聞も読んでいたので日本への関心は常にありました。普通バッシングされて嫌いになった国のことに貴重な時間を割かないのですが、何か思うことがあったのではと思ってしまいます。
冷静に具体的に分析をしようとする著者なのに、潜在能力は確かにあるという結論が出るのは面白いです。コラムでは自分の考え方を述べているので他にもいくつかみられます。現代とは事情が違うと思いつつも参考にしたいと思わせます。
~~以降は内容説明~~
著者一人でゲリラ活動を始めて1年半後、一人の日本人探検家が山の中を捜索に来ました。
フィリピン軍の兵士と思い射殺するために接近しましたが、著者は銃口を向けながら声をかけてしまいます。服装が日本の庶民の感じがしたからです。一晩かけて日本人の青年と話をし写真を撮ってもらって青年を帰しました。上官の命令があれば山を降りると約束をしました。相手のことは信じてはいませんでしたがもしかしたらと思ったからです。半月ほどで山に書類が届けられました。約束を果たすために山を降りて当時の上官に会い命令解除をしてもらいます。
現地のフィリピン政府にも連絡をしました。当時のフィリピン大統領は任務のために戦ったことでありすべてを許してもらいました。
日本に帰ってきたら日本の人々がとても驚きました。30年間の行動を証明する証人も証拠もないため憶測が飛び交っていました。何を言われても耐えるしかありませんでした。ある時「30年何をしていたのかわからない。戦っていたというのは綺麗ごとである」と対面で言われ、今まで耐えていたのが我慢できず怒ってしまいました。
常識を学ぶために、お金のコインからまず学ぶところからはじまり、睡眠時間を削って必死に勉強しました。
当時の日本の平和ボケの雰囲気と理不尽なことを強制する権力者に馴染めなく、日本以外で自分の力を試したくなりました。帰国後の自分に身についていたものは戦前の知識、あと牛の生息状況を観察してきたおかげで知識があり牧畜ならば経験が活かせるのではないかと思いました。牧場経営するには広い土地が必要で日本ではとても無理でした。兄の一人がブラジルへ移民していたため親身にアドバイスしてもらいブラジルへ牧場を経営しに行きました。ブラジルでの仕事も困難でしたが、ルバング島での自分を否定された人々に「人間は困難に打ち勝つことができる」と示してみたいと言う思いでくじけず働きました。
戦争の時、絶対絶命の時に突然感覚が鋭くなり逃げることに成功した経験があったので、人間には潜在能力というものがあると信じていました。
ブラジルで数年不眠不休で働いていたら牧場経営が見通し立つようになりました。
日本が嫌いでブラジルに行きましたが多くの日本人たちにたくさんお世話になっていたので何らかの形で恩返しをしようと考えていました。
ブラジルで新聞を見て、日本の浪人生が親をバットで殴り殺した事件を見て衝撃を受けました。経済的に豊かになったはずなのに子供の心がおかしい、子供たちに本当のたくましさやさしさ、生きる目的を見つけてもらうためにできることがあるはずと考えました。