ふでむら から千乃家へ
蕎麦店主のひとり語り・1
初めて自分で営んだ「そば処ふでむら 大中山店」は、私の成長の場でした。
手始めに、同店の開業から現在の「千乃家」を開くまでを記します。
◆埼玉から函館へ移住。そして独立開業。
私が親元の埼玉から祖父母のいる函館に来たのは1989年、26歳の年だ。2歳下の弟がそば店「そば処ふでむら 五稜郭店」を開くことになり、それを手伝うためだった。経営もそば作りもぶっつけ本番のような状態で、2人とも店の2階の6畳1間に寝泊まりして働いた。当時はバブル景気の数年後で景気はよくなかったが、開店早々からお客様に来て頂くことができた。店が多忙で1年目から売り上げが立ったのは、祖父母が築いてくれた「ふでむら」の看板のお陰だ。当時は当たり前のように感じていたけれど、今思えば本当にありがたい。
その後、社長である弟が結婚して家庭を持ったことや、埼玉で暮らす母が亡くなったことで、私は独立を意識し始めた。そばを作り始めて6年経った1996年、私は一人暮らしの父を埼玉から呼び寄せて、函館市郊外の七飯町に「そば処ふでむら 大中山店」を開店した。
店を開いてからは、今までの二番手とは違う立場で責任を痛感することになった。開業当時のスタッフは、全員私より年上の女性たち。料理の手際だけでなく、細やかな心配りや人との関わりにも長けた人ばかりだ。それまでフワフワ生きてきた新米社長の未熟さは、すぐに悟られたと思う。そんな私の人間力不足と経験不足を、お客様、取引先、スタッフ、家族、関わってくれた皆さんが補って下さった。開業当時の営業時間は11時~20時、定休日は月1回だけ。33歳の若さだからできた事だ。資金は200坪の土地と店舗兼自宅の新築のため、相当の借り入れをした。その重圧もあって夢中で働き、2010年、48歳で完済した。目標のなかった20代とは違い、30代は仕事という打ち込むべきものができた。経営者として、大中山店に育ててもらったと言える。若いうちに経験できうる他のことは手放したけれど、この頃の経験が今の自分らしさに繋がっている気がする。
大中山からの移転と千乃家の開店
同じルーツを持つ2つの「ふでむら」だが、徐々に別々の店になっていた。メニューも原料も違うので、同じ屋号ではいかにもお客様にわかりづらい。開店から20年目に父が他界した事も気持ちに拍車をかけた。このままではいけない、心機一転したい。そこで店を移転し、改めて自分自身のブランドを作ることにした。屋号を変えるのは挑戦だったが、たくさんのお客様と長く勤めてくれるスタッフたちが、気持ちの上でも現実にも大きな力になってくれた。
新屋号兼ブランドは、自分の名前から一文字取って「千乃家」。計画を立て始めたのは2018年、コロナウイルスの流行前だ。旧店舗から車で15分ほどの函館市桔梗(ききょう)に土地を取得して店舗を新築し、コロナ対策期間の2020年にリニューアルオープンした。
コロナ禍は、私の店主としての意識を変えた。千乃家以前はずっと仕事中心の生活で、広い視野から自分の立ち位置を見る意識も余裕もなかったように思う。コロナでかつてないほど売り上げが落ち込んだ時、ようやく外に目を向け世間の風をはっきりと感じた。世の中の健康な食へのニーズは、韃靼そば製品(麺)の開発モチベーションのひとつになっている。時代を踏まえより広い視野を持ちながら、今までの仕事から生まれた商品、そして頂いた信頼をしっかりと形にしたい。現在はそんな思いで海外輸出も見据え、インバウンドのご来店が増えるような取り組みも考えながら、ひとつひとつ物事を進めている。