ヤマ・ニヤマより慈悲の瞑想
はじめに
ヨーガスートラは瞑想のガイドブックであり、瞑想という手法は佛道修行の根本でしょう。それに対し、バラモン教やヒンドゥー教は、瞑想よりも[ヴェーダの]知識が重要視されていました。これは現代の保守本流とされるヴェーダーンタの人たちでも変わりませんね。梵我一如の思想とかジュニャーナヨーガが重要であり、アーサナやプラーナーヤーマ、ハタ・ヨーガは一段低い扱いです。
ヨーガスートラはヒンドゥー教に瞑想を取り込みなおした。という意味でエポックメィキングな哲学書と言えるでしょう(ヒンドゥーに瞑想が無かったわけでなく、重要視されていなかった)
さてヨーガ・スートラの瞑想に行く前に佛教瞑想の話しをしておきましょう。
瞑想の種類として『止』と『観』とがあります。
『観』とは、いわゆるマインドフルネス/ヴィパッサナー瞑想のことで、身体が感じるすべての感覚機能が起きていることを一つ一つ対象化して気づいていくことをいいます。
『止』とは、日常的な心の働きを静め、心を一つの対象に結びつけ集中することです。
ヨーガスートラの瞑想は『止』の集中瞑想ですね。
『止』とはパーリ語でサマタ(samatha)、サンスクリットでシャマタ(śamatha)、漢語で奢摩他と記述されます。
出家修行者が瞑想修行を行うためには、ヤマ・ニヤマによって修行者を守る[精神的]結界が必須でしょうが、我々のような在家のヨーガ愛好家程度には重すぎませんか?
(やりたい人、やれる人はやればいいけど、やれないからと言って卑下する必要もないってことね)
ヨーガスートラの第一章をちゃんと読むと[初期]佛教そのものです。そして、心の活動を止めるためのガイドメッセージの宝庫なのです。少し書き出してみます。
1-12.心の活動を止める方法として修習と離欲がある
1-13.修習とは何度も反復努力して精進する習慣のこと
1-14.継続して鍛錬することで堅固な境地に至る
〈中略〉
1-32.ヨーガに対する障碍を除去するには、ひとつのことに集中せよ
1-33.[集中の例として]慈悲喜捨[の行]は幸福・苦痛・善・悪のいずれの人でも簡単に習得できて心を鎮められる
1-34.〜1-39. [その他の集中の例]
この1-33. の「慈悲喜捨の行」として上座部佛教で行われている『慈悲の瞑想』があまりに素晴らしくて、それなのに八支則のヤマ・ニヤマより重要視されていないことが残念でならないのでご紹介しておきます。ちなみにこれは『止』の瞑想に分類されています。
慈悲の瞑想
まず、慈悲の瞑想はその文言や順番、イメージの使い方が異なるバージョンがいくつもあるので、以下に紹介するやり方は、そのうちの一つであってコレが正解というものではありません。座ってやっても良いし寝転んでやっても歩きながらでも大丈夫です。
1.自分自身に対して
目の前に巨大な“鏡”が在るとイメージします。その中に写る自分の姿は未来の姿なのか過去の姿なのかわかりませんが、嘆き悲しんで、身も世もなく悶え苦しんでる自分の姿です。過去に負った苦しみなのかこの先の未来に待ち受ける悲しみなのかはわかりませんが、そんな自分をそっと抱きしめて、大丈夫だと伝える気持ちで鏡の中の自分に以下の言葉をかけてあげます。
・私が幸せでありますように
・私の悩み苦しみがなくなりますように
・私の願いがかなえられますように
・私に悟りの光があらわれますように
・私が幸せでありますように
2.大切な人に対して
上記の1.と同じように自分の大切な人を思い浮かべながら唱えます。
・私の大切な人が幸せでありますように
・私の大切な人の悩み苦しみがなくなりますように
・私の大切な人の願いがかなえられますように
・私の大切な人に悟りの光があらわれますように
・私の大切な人が幸せでありますように
〈オプション〉
『大切な人』は『友人』でも『ご近所さん』でも『〇〇の被害者』でも誰にでも、何にでも変更可能です。
3.私がきらいな人
この3と次の4は、苦しくなってしまう場合にはパスして5に進んでもかまいません。また上記の1だけ、1と2だけで終わりにしてもかまいません。許すことの出来ない思いや、憎しみがよみがえって心の傷をえぐられるようなことがあれば、「今はこれくらいでやめておこう」としてください。
いつかブッダのように無量の慈悲心が溢れるようになってから唱えるくらいの気持ちで大丈夫です。
・私がきらいな人が幸せでありますように
・私がきらいな人の悩み苦しみがなくなりますように
・私がきらいな人の願いがかなえられますように
・私がきらいな人に悟りの光があらわれますように
・私がきらいな人が幸せでありますように
4.私をきらっている人
理由が有って嫌われるようになったのかもしれませんし、虫がすかないという理由で嫌われているのかもしれません。どんなに謝っても許されないことをしでかしてしまったのかもしれません。自分の言葉が相手に伝わらないかもしれませんが、それでも以下の言葉を唱えます。
・私をきらっている人が幸せでありますように
・私をきらっている人の悩み苦しみがなくなりますように
・私をきらっている人の願いがかなえられますように
・私をきらっている人に悟りの光があらわれますように
・私をきらっている人が幸せでありますように
5.生きとし生けるもの
人間だけでなく全ての生命にむけて唱えます。
・生きとし生けるものが幸せでありますように
・生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
・生きとし生けるものの願いがかなえられますように
・生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように
・生きとし生けるものが幸せでありますように
6.もう一度自分自身に対して
我々の住むこの宇宙は、最初は非常に小さな高温高密度の一粒の光でした。それが大膨張して相転移して低温低密度の現在のかたちになったと言われます。宇宙のガスや塵が永い時間をかけて一つにまとまり、やがて太陽のように高熱を発する星が出来て、その星も寿命をむかえて超新星爆発で散り散りになり、そのガスや塵がまた集まり‥
という超新星爆発を最低3回は繰り返した結果により産まれた物質で、我々の地球やそこに生きる生物は成り立っています。
逆に言えば最初の光の粒以来、この世界に自分でないものなど存在しない、とも言えるのではないでしょうか。
・私が幸せでありますように
・私の悩み苦しみがなくなりますように
・私の願いがかなえられますように
・私に悟りの光があらわれますように
・私が幸せでありますように
・私が幸せでありますように
・私が幸せでありますように