Jordan Petersonの12 Rules for Lifeを読んで思ったこと。(読書感想文)
人生の目的とはなんだろう。ずっとそのことだけを考えて生きてきた。
私は希死念慮者だ。生きてることがしんどい。だが、ケチな男である。「せっかく生まれたからには、ただで死ぬのは面白くない。この命は何かの為に遣いたい」と思ってきた。これは「どうせあぶく銭ならつかわなな」という発想に近い。
こういうといかにもケチんぼであるが、換言すれば「死に場所を求めて彷徨う」ということである。そして「死に場所を求めて彷徨う」とは、ケチんぼということだ。
では私たちは何処へ向かっているのだろうか。目的地は。
その一つの有力な候補として「幸せになること」があることは二言を待たないと思う。私たちは誰もが幸せになりたいと思って生きている。
だが、世の中には幸せになれる人となれない人がいる。人生の途中で「私はもう幸せになれない」と確信を抱いたとき、「なれない人」は何処へ向かえば良いのか。
ジョーダン・ピーターソンは、であれば、人生の目的は「幸せになること」ではなく「意味づけ」だという。ここまでは私も同意だ。
私は、人生に意味を持たせるために自分の死を使って良いと思っている。
しかしジョーダン・ピーターソンは意味づけによって自死(に至る程の絶望)を回避しようという立場だ。その為に、標題の12のルールを設定している。
私はSNS(見栄を張って”SNS”と言っているが、大体Twitterのことだ。ルール⑧)で結構な頻度で冗談半分に「今日も徳を積みました!」と報告している。現実でもよく口にする。
例えば、後輩のミスを自分のことのように報告して庇う。路傍でスマホや財布を拾って持ち主に電話した上で交番に届ける。車を運転するときは道を譲る。ムカつくことがあっても罵声は浴びせない。職場で他の職員の悪口は言わない。赤ちゃんがいたら取り敢えず慈愛のまなざしを向ける。妻への1ハグ5キスを欠かす日はない。
お前、いま私を笑ったのか? いいだろう。しかし勿論前述のとおり、半分は切実に、本気で報告をしている。
ジョーダン・ピーターソンは、利己主義を脱却することが人生の意味を形成すると主張する。
「徳を積む」、しかし私は有名人でも何でもない市井の詰まらない男なので、私のしたことは誰も見ていないかもしれない。この世に神は存在しないので、勿論God Is Watching Youもあり得ない。
しかし「私自身」は見ている。私自身は、私自身を監視することから逃れることが出来ない。
私自身は、私が自分の命をどう遣うのか監視し、ときに徹底的に追及する。罪の意識の全くない人間はごくごく稀で、私も、あなたも、そうではない。
背筋を正してシャキシャキ歩いて、通り過ぎる猫に挨拶した日は、自分に〇をつけてやりたくなる。背筋を丸めて憂鬱な言葉を巻き散らしながら、猫にさえその陰険な視線を向けたときには、自分は一体何をやってるんだという自己嫌悪に陥る。
こういう小さいことから逐一我々は逃げられない。
しかし憂鬱になる日は必ずやって来る。そういう日に敢えて背筋を正して猫を撫でる振る舞いを採るということは、自分のやりたいことをかなぐり捨ててご機嫌に振舞うという社会的責任を果たして利他に徹するということだ。つまり自己犠牲だ。
上述の12のルールは全て、私がタルくて省いた項目も含めて内的で自己満足の未来へ向けた自己犠牲へと至る。
繰り返すようだが、私はその自己欺瞞の自己犠牲を含めて自分の死を遣って良いと思っており、その点でジョーダン・ピーターソンと立場は異なる。しかし「いざ生きると腹を決めたのなら」、道を同じくする。
自己犠牲の精神を忘れるな! という物言いはコンテンポラリーな考え方ではいかにも昭和的で反発を覚えるが。私は平成生まれである。「ふざけるな」と思う。ジョーダン・ピーターソンについては、衒学的で宗教的でありスピリチュアルな頭の固いジジイだという評価はいくらだってある。
自己犠牲? くだらない。見方を換えたら鼻につくヒロイズム、ナルチシズムとしか言いようがない。
だが、どんなに反発を覚えたところで、自己犠牲をしない自分自身に対して、我々は、我々自身が、肯定的に評価することが本当に出来ない。これもまたほとんどの人にとって偽らざるところだろう。
ならば受け止めなければいけない。そのいかにも衒学的で宗教的でありスピリチュアルな倫理のような何か。それがもたらす自己欺瞞のくだらないヒロイズム。
だがこのヒロイズムだけが、何一つ上手くいかず、誰にも愛されないクソみたいな人生を肯定し、人生に意味を与えてくれる。