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おじいちゃんの最期の授業。長生きを寿(ことほ)ぐ言葉たち。

社会人になって、あまり祖父に会う機会もなかった。
でもある休みの日に
ふと、
会いに行こうとおもった。
亡くなる、3カ月くらい前の、春の日だった。

小さいころ、親が働きに出いて、私は祖父に育ててもらった。
足し算、割算、九九、漢字、理科の実験、夏休みの日記、俳句、世界地図、感想文、工作、自転車の乗り方、
すべて、
わたしは祖父から教えてもらった。

というのも、わたしはあほだった。
学校の授業にはまったくついていけなくて、ただぼんやりしていた。

勉強の仕方をしらなかった。
担任からも この子は社会人になれないです といわれ、親がひどく落胆していた。

そんな落ちこぼれの私を、以前小学校で校長先生をしていた祖父は根気強く毎日毎日熱心に指導してくれた。
祖父は国語が専門で
家には古い本がたくさんあった。
日本や中国の歴史書を読んだり、書道をしたり、毎日日誌を書いたり、とにかく古風でまじめで、勤勉。

そしてわたしにやさしかった。


会いに行くと、祖父は喜んで迎えてくれた。
90歳になるところだった祖父に、
「90歳になるなんて、すごいね」といったら、
昔はこんなに生きられなかったからね、
とつぶやくと、
「歳をとると年齢に別の言い方があるんだよ」
と話をつづけた。

そして、立ち上がると、
自分でカッターでけずったであろうきれいに尖った鉛筆と、
広告の裏を利用した切りそろえたメモ帳をもってきて、
綺麗な几帳面な文字で、
子供のころのように私に書きながら説明をはじめた。

これが、おじいちゃんから私への最期の授業だった。


「60歳はね、還暦っていうだろ。
12の干支が60年たって元に還ってくるだろ。
だから、暦が還ってくるとかいて、還暦。

70歳は、古希っていうんだよ。
中国の古い言葉からとってきてて、古来稀にみる、、ってね。
ほら、昔の人は70歳なんて生きられなかったからね、稀な出来事でおどろかれたんだよ。

次は77歳。喜寿。
喜寿は、77歳まで生きられたなんて、喜ばしいということと、七十七という字を上から重ねると、喜ぶ、という字に似てるだろ。だからなんだ。

そして80歳は傘寿という。
これも八十という字を上から重ねると、傘という字に似てるだろ。そこからきてるんだよ。

そして米寿の88歳。
これはきたことあるだろう。これも八十八という文字を上から重ねたときに米という文字に似ているから。」

「見た目がにてるばかりだね。」
私は笑った。

祖父も微笑みながらつづけた。
「そして90歳が卒寿。
これももうわかるだろ。れもんがいうとおり、九十という文字を上から重ねたら、ほらね。昔の卒の字にみえるからなんだ。」

「おじいちゃんはじゃあ、もう卒寿じゃん。すごいね。
卒業の卒なんて、なんか悲しい感じだけど」

「つぎは99歳で、白寿(はくじゅ)という。
百って文字をかくと、こうだろ。この一番上の一をへらすと、99だろ。だから。
そして100歳は百寿(ひゃくじゅ)という。」

わたしはわくわくした。
祖父の落ち着いた優しい声でなにかを教えてもらうのは、小学生のときを思い出す。
「じゃあ、つぎはおじいちゃんは卒寿だけど、白寿もめざさないと。」

「・・・そうだなあ。
おばあちゃんはもう14年も前になくなってしまって、
おじいちゃんはほんとに長生きしたなあ。」

祖父はすでに他界していた祖母をいつも懐かしむ言葉をかならず私にいう。
その頃は理解できてなかったけど、ほんとうに愛していて、恋しかったのだろう。


この会話を最後に、わたしは祖父にあうことはなかった。

祖父は大往生でなくなった。
体調がわるくなって、その日に病院に運ばれて、その日のうちに、親族に囲まれてこの世をさった。
体中に癌が転移していたから、きっと体はとてもつらかったはずだ、とお医者さんがいっていた。

でもおじいちゃんはとても寡黙で、弱音をはかない、しっかりしたひとだから、だれもきがつかなかった。


あの日の会話が最後だったんだとあとできがついた。
ほかの日の会話はそこまで覚えていないのだけど
あの日、祖父の声できいた長生きを寿(ことほ)ぐ言葉については、いまだに忘れたことがない。

(記載した言葉はわたしの記憶だけでかいているので、もしかしたら記憶違いがあるかもしれません。)

あの日おじいちゃんに会いに行ってほんとうによかった。







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