一度へばりついたレッテルを剥がすのは難しい

僕たちは多かれ少なかれレッテルを貼りながら生きている。好む、好まないに関わらず。レッテルという表現そのものがネガティブな感じはあるから、嫌だなという感じは否めないけど、実際、いろんなレッテルを貼っているもの。

例えば、
・あの人っていつも話がわかりづらいよね
・あの人の発言っていつも嘘ついている
・独りよがりの考え方で部下の人生をもてあそんでいるんだ、あの上司は
・●●さんって、いっつも話長いよね
・△△さんって、話し始めると止まらないからなあ
とかもろもろ。

こうしたレッテルは最初に出来上がったときに、そのレッテルにつながる行動や発言が目に見えたものがあったからなのだろう。そうじゃなくて、具体的な出来事がなくなんとなくで作られることは少ない。

そして、その最初の出来事は些細なことでもあったりする。それがどんどん時間と共に大きくなっていったり、そのレッテルを疑うような逆の事象が起こらなかったりすると、どんとんそのレッテルは強固になっていく。そして、それを剥がすことは難しくなっていく。

信念、芯、軸、価値観、あり方、想い、志…
「自分が信じていること」とひとくくりにしてみる。

この自分が信じていることというのが、ある種のレッテルでもあったりする。レッテルによって形成されてしまったら、それはそれでありなのかもしれないが、怖さも感じる。

ここでレッテルとは何かを考えてみたくなった。レッテルとは、ネガティブな固定観念という言葉とおいてみることとする。ネガティブな固定観念は、対象に対して攻撃的に出やすい感じがする。

レッテルから作られた想い
=ネガティブな固定観念からつくられた自分が信じていること

とおいてみると、レッテルから想いをつくるのは危険だ。事実とは違う感じになるし、相手に対しても攻撃的になりやすいし。しかし、当の本人はレッテルをはっているという感覚は持ち合わせていないことも多い。それは世界の真実だと思っているから。つまりは、一度レッテルがついちゃうとはがしにくいというわけだ。経験したことであればなおさらのこと。成功体験も失敗体験も、自分が体感してしまったら、知らなかった頃には戻れないから。

そうした経験がどんどん自分の中に持論として積み重なっていく。どんどん経験を重ねていくこと、経験値をためることは大事なことで、正解なんてないんだから、とにかくいろいろやってみて正解を生み出していけばいい。だからこそ、どんどんいろんなことをやってみることは必要なこと。自分の成長のためにも、人生という荒波を乗り越えていくためにも。

一方で、こうした経験値は自分の中にたまっていくけど、それが自分にとっての世界の真実という風にもなっていきやすい。それは覆しようのない大前提のようなものになってしまう。経験値は重ねながら、新しいことにもどんどんウェルカムで持論は常に更新し続けるもの。そう思っている。

世界の真実として大前提を自分の中につくってしまうと、その上に成り立っていく色々な持論や価値観が生み出されてしまうから、その大元になっているものを覆すようなことなんて到底受け入れられるわけがない。簡単じゃない。

だからこそ、大事になるのは、強力なレッテルとして出来上がってしまう前に、自分の考えていることや感じていることが事実か否か?を疑うという自分自身と向き合う「内省」と、それおかしいよ!とか疑問を呈してくれる仲間からの「フィードバック」が必要になる。これが本当に大切なことだと思う。

唯一、肉眼で捉えることのできない自分自身の姿。自分自身がどうみえているか?そして自分自身が自身のことをどう思っているか?。自己認識の領域を拡大していくことが必要になる。そして何よりも大切なのは、謙虚さと勇気だと思う。

おごらないこと。
そして恐怖と向き合うこと。

これは人間の本能とは相性が悪い。だからこそ、トレーニングが必要になる。これからの時代、過去の正解があてにならない時代だ。正解だと思うことをつくりだして突き進むことが大事な時代。

タフな時代になるからこそ、この時代を生き抜いた私たちはすごい進化を遂げるのではないかと少しワクワクする自分もいる。

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