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レオス・カラックス『アネット』感想

恐らく、現役で活躍している映画監督の中だったら、レオス・カラックスが一番好きだ(以前、その地位を占めていたのはゴダールだった。映画史に深く、そして美しく名前を刻んだ伝説的人物といえる彼が、昨年まで生きていた事実に驚嘆するものの、この喪失感は一生拭い去れないだろう。一方で、彼の死に方が安楽死だったというのは、あまりにもジャン=リュック・ゴダール監督らしい)。彼の作品はすべて観たし、ソフトも持っている。とはいえ、彼のフィルモグラフィは両手で数えられるくらいなのだが。
カラックスが新作を制作しているという話は、タイトルが決まる前から知っていた。同時に、それがミュージカル映画であることも。私は計り知れない喜びとともに、一抹の、いや、極めて重たい不安を覚えた。何故なら、昔からミュージカル映画というのがどうにも苦手なのだ。それでも知らずに観てしまったり、知った上で敢えて観てみたりはしているので、いくつかミュージカル映画の名前を挙げることは出来る。結句、唯一好きなのが『ロッキー・ホラー・ショー』(大好きなビョークが主演を務める『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のミュージカルシーンも良いのだが、如何せん中盤以降が胸糞悪すぎて……)。

しばらく経ってから日本での上映が決まり、舞台挨拶の為にカラックスが来日することも報された。私は行かなかった。「行けなかった」という書き方も出来る。行けなかったことも含め、行かなかった。
私がカラックスを知ったのは、『TOKYO!』というオムニバス作品だ。それからアレックス3部作と『ポーラX』を続けて観、『ホーリー・モーターズ』公開時には劇場へ足を運んだ。どの作品も大好きだ。そんなことをする必要は無いが、強いてベスト1を決めるなら、『アネット』の直前(といってもほぼ10年あいだが空くが)の作品である『ホーリー・モーターズ』だ。
歳を重ねるごとに優れた作品を生み出す人、魂の色彩をまったく失わない人というのは、案外しばしば居る。他方、早々に手持ちが足りなくなり、目的地より遥か手前の停留所で降ろされてしまう人も大勢居る。カラックス監督は、明らかに前者の人間だ。『ポーラX』までの作品は、まさしく“映画”だった。『TOKYO!』でその片鱗を見せ、『ホーリー・モーターズ』は見事に“映画についての映画”へと進化した。“映画についての映画”は、傑作が多数ある。トリュフォー『アメリカの夜』、ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(他にもいくつか、あるいはほとんど)、カサヴェテス『オープニング・ナイト』、川島雄三『しとやかな獣』、ウディ・アレン『カイロの紫のバラ』等々。『ホーリー・モーターズ』は、その中でも特に優れた作品の一つだ。
包み隠さず述べてしまえば、私は恐れていた。この新しいミュージカル映画が、私のカラックス監督に対する信頼を損なって、あまつさえ失望にまで繋がってしまうことを。だから舞台挨拶の回は行かなかった。それどころか、上映期間中に、インターネットで各映画館での上映時間を調べることすらしなかった。誰かから嫌われるより、誰かを嫌うほうが余程苦痛を感じる。好きな人であれば尚更。

昨夜、酷い悪夢を見た。耐え難い心の痛みから逃れるべく、CBN入りのクッキーを貪った。すっかりハイになった私は、今なら大丈夫かも知れないと半ば確信しながら、Amazon Prime Videoのアプリを開き、検索窓に『アネット』と入力、レンタルダウンロードのボタンをクリックした。
映画というのは、体験することだと思っている。「映画を観る」という体験では無い。「登場人物の誰かに自己投影し、その人生を体験する」という意味でも無い。「映画」という体験、つまり動詞なのだ。『アネット』という体験は、未だかつて無いものだった。こんなミュージカル映画は知らない、身に覚えが無い。『アネット』は“映画についての映画”でありながら、“映画という詩”でさえあった。最初から最後まで。台詞、歌、演技、カメラワーク、背景、その他すべてに至るまで。私がしばらく抱えていた不安は、たんなる、それもとびきり馬鹿げた杞憂に終わった。歳を重ねるごとに優れた作品を作る人、魂の色彩をまったく失わない人、それがカラックスだ。私如きから心配されるような人物では無い。
また同時に、カラックスの分身ともいえる名優ドニ・ラヴァンが登場せず、舞台もフランスからアメリカへと移され、私小説ならぬ私映画を大きく踏み越えた、彼の新境地ともいえる作品だった。カラックスがミュージカル映画を撮ったこと以上に(彼は映画の中で音楽を鳴らすのが好きだ)、敢然と社会問題を取り扱ったことに驚いた。彼が選んだテーマは「トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)」。公益財団法人日本女性学習財団(そんな団体があるのか)からの引用。

Toxic masculinity。有害な男性性とも訳される。アメリカで使われ始めたとされ、ニューヨークタイムズの記事「What Is Toxic Masculinity?」(2019)が引き合いに出されることが多い。有害な男らしさとは、「感情を抑えつらいと言わない」、「表面的なたくましさ」、「力をはかるための暴力性」だと記事にあり、銃乱射事件など凶悪事件の犯人が白人の男性に多いことから定義された背景があった。職場や学校、家庭、地域などの慣習の中や、男性としての特権をもつことで、有害な男らしさを身につけるという構造がある。その結果、男らしいとされないマイノリティの排除や横暴にふるまうことでの力の誇示、また、女性へのDV・性暴力、あるいは過度な配慮など、さまざまな弊害が挙げられる。近年では“男性はこうあるべき”という古い価値観も指し、男性自身を苦しめるという視点からも語られている。

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Metoo運動が盛んになったきっかけは、映画界だった。2017年、ミラマックスの創業者であり、ハリウッド界の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインの行った悪辣極まる性暴力が告発された。それ以降、数々の女優たちが、数々の著名な映画関係者を相次いで告発した。

私は、大学生のある時期、2年間ほどシネコンでアルバイトをしていた。そのアルバイト仲間の中に、駆け出しの──ポレポレ東中野で上映されるような──映画監督の女性が居た。もぎり(入場時にチケットをミシン目に沿って切る仕事)では、1作品につき男女一人ずつのペアが配置されるのだが、たまたま私とその女性監督が同じ作品のもぎりをやったことがあった。封切りからしばらく経った平日の昼間は、どんな話題作であっても人の入りは疎らになる。自然とバイト同士で雑談が生まれる(だから、女性のほうが話しやすい私は嫌いな業務だった)。本業もあるので、彼女がシフトに入っていること自体珍しく、二人きりで会話をするのは初めてだった。私はナチュラル・ボーン・人見知りだが、映画監督をやっている人と話せる機会なんてもう二度と訪れないかも知れないと思い(実際、彼女以降出会っていない)、自ら率先して、監督業について質問しまくった。会話というよりほとんどインタビューだった。あれだけ貴重な話をしてくれたのだから、対価を支払うべきだ。払えないなら天気の話でもするしか無い。若さというのは恐ろしい。
とりわけ印象に残っている話がある。それは、映画界がいかに男性社会であるか、という話だ。映画制作には、一にも二にも体力が求められる。重たい機材を運ぶこともあるし、何ヶ月間も、時にはほとんど1日掛かりで、どんなに暑かろうが寒かろうが、休まず耐えねばならない。月に1度生理が来て、男性に比べたら体力も少ない女性には本当に大変なこと、というかほとんど不可能に近いと彼女は言っていた。つまり、ジェンダーで差別される以前に、セックスとして女性であることは、映画界に於いて非常に大きな障壁なのだ。
彼女へのインタビューを終えてから、映画界に携わる女性たちのタフさを心底尊敬するようになった。それとともに、世の会社員であれば、疾うの昔に定年退職をしている年齢で映画監督をこなす男性たちの持つ体力に舌を巻いた。きっと、今のウディ・アレンですら私より体力旺盛に違いない。

Metoo運動により“有害な男らしさ”はある程度弾劾されたものの、残念ながら未だ男性社会的な業界であることも確かである。かくいう私ですら、自己紹介記事に好きな映画監督の名前を挙げたが、女性の名前は一つも無い。思い出せる監督……ソフィア・コッポラ、ジェーン・カンピオン、ミア・ハンセン=ラヴ、蜷川実花くらいか──たった4人!(私が無知なだけであるのは承知の上で)
“映画”から“映画についての映画”へと変貌を遂げたカラックスが社会問題を扱うならば、映画界から端を発したといえるトキシック・マスキュリニティについて言及することになるのは、その意味では必然的だったと言える。自分自身に向いていた視線がやがて映画へと移り、とうとう社会を見つめるに至った。生粋のフランス人である彼が、英語で、アメリカで本作を撮影した意図にも得心がいく。

今、他の人のレビューを検索してみたところ、「序盤のアダム・ドライバー演じるヘンリーのコメディが一つも笑えなかった。海外ではあれが笑えるのか?」とツイートしている人が居た。それは当たり前だ。カラックスも最初に、上映中は笑うなと注意していただろう。あの舞台と客席こそが現代まで続く男性社会そのものであり、その社会は下品で、野蛮で、差別的で、暴力的なのだから。そして私たちは、それらに何ら違和感を持つこと無く、笑顔で以って受け入れ、称賛さえしてきた。女性はといえば、精々、露出の多い衣装を纏い、隅でコーラスをするだけだ。それも、「男性」のやることに笑え、拍手しろ、と促すのだ。
後半、「男性」であるヘンリーのコメディは観客からウケないどころか、ブーイングの嵐に巻き込まれる。そして、とどめに「娘」であるアネットの告発により刑務所へ送られる。そこでようやくアネットは人間の姿を現す。彼女はヘンリーに対し、冷めた目つきで歌う──「もう誰も愛せないね」。

本作のストーリー自体は、極めてシンプルだ。大雑把にいえば、偶然にも同じミュージカル映画である『ラ・ラ・ランド』をより悲惨に、グロテスクに、そしてホラーテイストも少し加えたもの、と説明すれば分かりやすいだろうか。あるいは、シェークスピア的な悲劇である。ちなみに、貶すつもりは毛頭無いのだが、『ラ・ラ・ランド』は劇場で観たもののあまりにも私の感性と合わず、生まれて初めてエンドロールの途中で席を立ってしまった作品だ。そしてこの件がきっかけで、ミュージカル映画はもう金輪際観るまいと誓った。幸いにも、自分の好きな映画監督で、今後ミュージカル映画を撮りそうな人は見当たらない。そう思っていた矢先の、まさかのカラックスだったものだから、心の底から「なんてことだ!」と嘆いたのだが。
創作というのは、それぞれ作者個人に著作権があるとはいい条、“パターン”に著作権は無い。だから王道パターンがある。同じミュージカル映画で、ストーリーも似ていながら、ここまで評価に差が出るのは面白い。王道パターンの中に、カラックスらしいエッセンスが随所に散りばめられた本作は──『ラ・ラ・ランド』と違って──とてもじゃないが、万人に受けるエンタメ作品とはいえない。

『ホーリー・モーターズ』を超えるとまではいえないが(「お前の罰は、お前がお前として生きることだ」という台詞が刺さったきり抜けない)、目を瞠るほど素晴らしい映画だった。2022年という近未来的な西暦に、ここまで詩情溢れる新作映画が作られたことに感謝したい。
マリファナでハイになっていた人間の感想なんて、と思われるかも知れない。確かに、ハイになっていなければここまで長文で感想を書いてはいなかっただろう。ただ、評価には関係無い。素面でも間違いなく傑作だ。面白かった。カラックスは現在62歳。映画監督でいえばようやくベテランの域に達したところか。彼は凡そ10年に1度くらいの頻度でしか映画を撮らない。次は2035年くらい?早く観たい。楽しみだ。

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水川純
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