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私の茶道の原点

 人それぞれ、茶道を始めたきっかけや、理由というものは違うだろう。
 
 なんの気無しに始めた人も居るだろうし、高い志を持って始めた人も居るだろう。和菓子が好きで始めた人や、私の母のように着物を着ていく場所が欲しくて始めた人(それだけではないのですが)もいる。骨董好きが高じて始めた人もいる。

 そんな中私は「黄金の茶室」に魅せられた口である。
 
 これを言うと大抵「黄金の茶室だって?成金趣味が」という顔をされる。十人が十人そういう顔をする。しないのは、余程詳しい茶人だけだろう。

黄金の茶室との出会い

 私と黄金の茶室との出会いは小学校2年生で読んだ講談社火の鳥伝記文庫の『豊臣秀吉』であった。
 
 現在、手許になく、どんな文章であったかも定かではないが、私は秀吉に憧れた。そしてその黄金の茶室が欲しかった。私にとって黄金の茶室は秀吉の象徴となっていた。
 
 一年後、大阪城へ連れて行ってもらい、黄金の茶室を見たのだが、全く印象がない。それは蛍光灯に照らされて、だだっ広いホールに置かれており「なにも伝えることなくそこに置かれていた」のである。
 
 意外にも、ガッカリした覚えもない。ただ、「コレジャナイ」と感じたのだ。

茶人も知らない黄金の茶室

 驚いたのは、茶人であっても茶道家であっても多くの人が「黄金の茶室=秀吉の成金趣味」という誤解を持っていることだ。
 
 私の知る限り、私の身近には黄金の茶室が秀吉の成金趣味でないことを理解している人は二人しか居ない。これは一体どうしたことなのか。
 
 そもそも黄金の茶室とはどういったものなのかがあまりにも知られていないのではないだろうか。

 黄金の茶室とは、秀吉が作らせた平三畳の黄金が施された茶室で、千利休の設計であったと伝承されている。ただし、明確な史料は残されていない。

 天正十四年(1586)一月の献茶や、北野大茶湯でも披露されており、特に正親町天皇への献茶では、利休が後見を務めている。もし、利休でない茶人が監修していたのだとしたら、この後見は利休ではなく、監修した茶人が行ったのではないだろうか。天下人の茶室を天下一の宗匠が作らないなどということがある筈がない。

 壁・天井・柱・障子の腰を全て金張りにし、畳表は猩々緋、縁は萌黄地金襴小紋、障子は赤の紋紗が張られていた。そこに黄金台子に黄金皆具、黄金天目・天目台、黄金棗、黄金火箸に黄金柄杓、そして黄金鬼面風炉釜という組み合わせである。

 これを蛍光灯の下でみると、単なる成金趣味に成り下がるのは事実であり、長らく「成り上がりの成金趣味の象徴」のような扱いを受けていた。

 しかし、実際に復元された茶室を使った人たちがその評価を変えていく。これに不可欠なのは時代の目――当時の環境で使うということだ。

 東大の教授が丸木舟で台湾から与那国島まで渡る実験をしたのと同じである。

現代の茶の湯は偽物

 私がしている毎月の「お茶会へ行こう」「お茶事へ行こう」は稽古茶会なので偽物も本物もない。だが、本来茶会とは「電燈がないところで行われていた」ことに注意が必要なのだ。厳密には「日常生活すべてが」であるが。江戸時代になるまで夜に庶民が油で火を付けるなどということは行われず、豪商らでさえ和蝋燭中心であり、油は煤が出るので敬遠されていたのである。

 つまり、当時の家屋の中は昏いのである。

 その昏い中で使われていたものを「蛍光灯という至極明るいものの下でみたらどうなるのか」を考慮せず、成金趣味と断じていいのだろうか。

 これは普段の稽古から、明るい電燈の下で稽古しているからこその弊害である。本物とは自然光の中で行われなければならず、黄金の茶室の真価とは自然光の中か、燭台の燈りの下でしか発揮されないのである。黄金の茶室が設計された当時蛍光灯は存在しないのだから。

「窓を開けた広間に据えられた黄金の茶室に日光が差したとしたらどうなるのか?」「燭台の燈りの中では黄金の茶室はどのように見えるのか?」という状態は想像できるだろうか。
 
 この状態を再現したNHKの番組があった。タイトルなどは失念したが、まばゆいばかりの黄金の茶室は、まるで極楽浄土のようであり、燭台の燈りの中はねっとりとうねる炎に照らされた艶めかしい黄金の美しさが幽玄の世界を現出させていた。

 そう! これだ! 私はこれが見たかったのだ。

 私は小学校の時以来の黄金の茶室への憧憬をやっと目にすることができたのだ。

 いつか、燭台の燈りの中で照らされる黄金の茶室で茶を喫することができたならば、私は本望である。

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