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利休時代の点前再現を目指して

 私はライフワークとして、利休時代の点前を再現したいと考えています。それは利休の小説である「数寄の長者」を書こうと思う前からのことでした。

 何故そんなことを考えたのか?というと、各流派の流祖は何を考えて手を変えたのか?が、知りたかったからなんです。

 いや、そう、これ、どうでもいい違いなんですよ?(笑)

 表千家の即中斎(表千家先々代)宗匠も、而妙斎(表千家先代)宗匠も、猶有斎(表千家当代)宗匠も「どうでもいいことが違います」とおっしゃいます。

 どうでもいいことであっても、変えたからには理由がある筈なんですよ。でなければ変える必要がありません。変えるには変えるだけの理由があるはずなんです。

明治時代の変革

 例えば、明治時代に変わった規矩としては、十六目置きというものがあります。

 これは背の低い女性が主体的にやるようになったため、道具を近づけたんですね。それまでは台子大を廿一にじゅういち目に置いていたことが知られています。

 勿論、他の棚物は置く位置を水指の位置に合わせますので、それぞれ変わるので、一概に何目に置くということはできないはずなのです。

風炉の点前と炉の点前は別物だった

 実は、茶道の歴史は省略化の歴史でもあり、元々の点前から二つの流れに分類されます。

 遠州流や石州流の点前は「炉の点前を基本として風炉の点前に統合された体系」と言えます。これは「風炉の釜に水を差さない」という形であることに象徴されます。

 また、千家流の点前は「風炉の点前を基本として炉の点前に統合された体系」と言えます。これは「炉の釜に水を差す」という形であることに象徴されます。

 但し、両者とも、茶巾の置き方は逆の点前の置き方を残しているのが面白いところです。

 遠州流や石州流は長板や台子などで、板の上に茶巾を置く手が残っています。千家でも、利休百首に「小板の上」とあるので知っている人はいらっしゃるでしょう。ただし、千家ではその手は絶えています。

 裏千家の方で利休百首の解説をされている方は「荒目板だけの手」とされていましたが、武野紹鷗が真塗大板でも右端に置いているので、荒目板だけの手ではないことも分かります。

 千家系では、茶巾を水指の上に置いています。

 この水指の上に茶巾を置くというのは、利休時代の風炉点前にはないことが織部の書付から分かります。

 元々、炉の点前を行うに際して、茶巾の置き場がなく水指の上に置いたのが始まりだからです(風炉では台子や長板、大板、小板の上に置けた為)。

 加えて台子や長板で真ん中に蓋置を置いて釜蓋を置き、茶巾を載せる手というのは竹台子に茶巾を置くとシミを作ってしまうことからそれを避けるために生み出された手だと考えられます。

 そして「炉では風炉と違い、茶を点てる点てる時に水指の水を釜に差さない」ことが古田織部の残した書付で証明されています。

 つまり、元々風炉点前と炉点前は別の物であったということになります。

二つの点前の意味

 では何故二つの点前があったのか。
 
 そもそも、炉の点前は風炉の点前から発展したものであり、炉の位置や水指の位置が変化しています。
 位置が変われば点前も変わるのが当然です。それが合理です。

 これはあくまで推論ですが、利休時代は「道具本位」で点前が組み立てられていたように思います。戦国時代の気風といいますが、人の命は儚い――からこそ、道具に思いを仮託して残す――そんな風に感じます。

 ところが江戸時代になると泰平の世になって、命あっての物種という気風に変わる――つまり、「人本位」の合理になっていったのではないでしょうか。

 それでもまだ、男性主体であったからこそ、「物理的な規矩に変化はなかった」と思われます。

 それが明治時代になって、向き直りの回数を減らすために道具をお点前さんに近づけることによって使い取りの際正面に向き直る必要がなくなる訳ですね。

 これに気づいたのは「当流の長板と台子では他流と違って向き直ることが多い」からです。なるほど、これでは置く場所が近くなくてはやりにくい筈です。

 しかし、炭手前をする段になるとその近いことが「おかしい」ことに気づくのです。

 それは避けている目数と釜の大きさが合わないということです。二目で約一寸弱ですから、十六目だと約八寸弱。炉の釜は八寸より大きい訳です。

 このままでは釜が台子につかってしまいます。風炉釜ならばなんとかなりますが、炉釜ではどうにもならないのです。

 道具は点前座に引き込まないようにするものなのに、釜を引き込まないと棚に当たってしまうのはどう考えてもおかしい。

 合理的な点前にどうしても不合理があります。納得いきませんでした。

 ですが、調べても調べてもなかなか答えの見つからない日が続きました。

点前の変遷

 そうして調べていく内に、本来口外してはならない奥秘がまことしやかに語られていることを知りました。
 
 勘のいい方はおわかりですね?
 そう、有料化したあのサイトです。
 そこから私は大日本茶道学会の奥秘に関する本を探し始めました。
 
 しかし、謎は深まるばかりです。
 
 それは有楽流の奥秘が四段(乱れ含む)で、当流の奥秘は三弾+七段+乱れで、表千家や江戸千家の奥秘が七段だったからです。
 
 これに対し裏千家の奥秘は十二段で、その中から真之行台子と呼ばれる点前(表千家の奥義、当流の真台子にあたる)と行之行台子と呼ばれる点前(各流派の乱れにあたる)が公開されているだけで、残り十段は秘匿されています。
 
 この数の差は何であろうか?と首を傾げたくなる気持ちは分かっていただけるかと思います。
 
 これこそが、点前の変遷の痕跡でした。
 そして、衝撃の事実が判明します。

江戸中期に整理された台子点前

 日本大百科全書(ニッポニカ)には「現在みられるような真・行・草の九段台子(裏千家では十二段)に整理されたのは江戸中期のことである。」とあり、真が三段あるように書かれています。

 如心斎がまとめた真の点前は一つであり(江戸千家系に伝わる台子七段)、当流にも類型が伝わっていまして、それは「道具の格が変わることで三段となっている」という、他の点前のように使う道具が異なるために点前が変わったように見えることもありません。
 
 この九段というのも、詳しく知りたいところですが、この整理されたというのは、南方録によって急激に増えた台子点前のことを指していると考えられます。江戸中期は南方録が茶道の奥義書のように崇められていた時代で、現在のようには偽書とはされていなかったのです。
 
 南方録を論拠にするのは危険で、表千家は南方録を否定しないまでも、肯定もしていないことで知られます。そして、歴史的には偽書とされ、この本は歴史的史料価値はなく、立花実山の思想書であり、彼の理想とする茶道の在り方を説いた本ということになります。
 
 南方録を取り入れているのは裏千家と大日本茶道学会、そして、石州流と言われています(事実かどうかは未確認)ので、利休の茶に迫るにはこれらの流派から南方録の要素を差し引いて考える必要があるでしょう。
 
 特に五行論は利休時代に茶道に取り入れられていないため、これを廃して考える必要があります。
 
 ただし、如心斎の時代というのは既に江戸中期で、台子七段も如心斎によって定められたと考えられます。
 
 その傍証が有楽流の台子が四段であるという事実です。織田有楽斎は利休が改めた台子を秀吉に許された台子七人衆以外の一人だからです。
 そして、台子七人衆に名を連ねる細川三斎、古田織部、十人衆に名を連ねる千道安、荒木道薫、織田有楽斎らは流派を立てます。
 
 細川三斎の系統は三斎流と肥後古流。
 古田織部の系統は織部流、御家流。
 千道安の系統は石州流、宗和流。
 織田有楽斎は有楽流、貞置流。
 荒木道薫は都流。
 
 千家とは違う茶道を現代に伝えている流派たちです。

火箸の位置・飾りの意味

 十哲流と私が仮名している利休・道安と宗旦の狭間に興った流派の内、三斎流・貞置流・都流に共通するのは「杓立の火箸が前」であるという点です。
 
 これは非常に面白いことで、私が他流の台子点前を拝見したときに奇妙にしか感じなかった理由がこれです。
 
 千家の人たちは後ろにある火箸を後ろに抜いてくねくねと道具を避けて火箸を抜いてきます。
 
 ところが、当流を含めた三斎流と貞置流は前に火箸がありますので、そのまま真っすぐ前に抜きます。飾火箸なら抜くことさえしないのです。「飾り」とつく道具は台子や長板から下ろさないものなのです。
 
 この辺りは久田流の伝書である凌雲帳にも「臺子(だいす)、長板(ながいた)用にて其他には用ひざるを可とす。」という記述からも理解できると思います。

最後に

 まだまだ、他にも様々な点で利休時代と変化している証左はあるのですが、どうであったか?ということの証明にはなりません。
 
 ただ、堀内家の先代兼中斎宗匠は「古い手は千家ではない地方の諸流に残っている」と仰ったとききます。
 
 こうした地方の諸流こそ大事にしなければいけないと考える次第です。

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