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ディズニー映画『ピーター・パン』のここが嫌だな

先日ディズニーの『ピーター・パン』を見返していて、「そういえば子どもの頃、この映画があんまり好きじゃなかったな」と思い出した。

理由はたくさんある。単純に可愛いプリンセスが出てこなくてつまらなく感じたのもあるし、なんとなく作品全体に漂う怖さ、ネバーランドの人々の野蛮さが嫌だったというのもある。

ちょうどディズニーシーの新アトラクションで話題になっているようだし、今回は「ピーター・パンのここが嫌!」について語ってみる。

○ロストボーイズがキモい


これが一番大きいかもしれない。動物の着ぐるみを被った迷子の男の子たち「ロストボーイズ」が気持ち悪くて嫌いだった。
なんか、子どもの頃近所に居た、貧乏子沢山家庭の男子を連想する。「手を掛けられてない子ども」特有の粗暴さと幼稚さと甘えたがりっぽい所、なんか色んなものが足りてなさそうな感じが生理的に無理。近寄らないで欲しい感じがする。
彼らがインディアンや海賊といった存在に軽率に憧れるところも、生育環境の悪い子が不良グループに入る過程を見ているようでゲンナリする。

○ウェンディをお母さん代わりにしようとする所


ピーター・パンは、3姉弟の長女・ウェンディを、ロストボーイズの「ママ」の位置に据えようとする。
これは控えめに言ってもゾッとする。私自身が長女だからだろうか。

自分自身も諸々不安定な年ごろなのに、どこの者ともわからない粗野な子どもたちのママ代わりをさせられるなんて、いくらピーター・パンの頼みとはいえ、私なら「は?なんで?」と突っぱねてしまいたくなる。

姉というのはただでさえ「小さなお母さん」を求められがちなのに、夢見ていたファンタジックな世界でまで“お母さん”させられるなんて、悪夢以外の何物でもない。

そういえば私は、『白雪姫』の小人達も苦手だ。共通するのは、「自分に母性や女性性を期待して群がってくる存在」への嫌悪なのかもしれない。

○ウェンディにムカつく


ウェンディもウェンディだ。求められるままにお裁縫したり、子ども達に(「ほんとうのママ」を思い出させるためとはいえ)子守唄なんて歌ってママ面してみたり、まんざらでもない感じがイラッとする。

いや、ウェンディという子は、本当に優しくて愛情深いお姉さんなのだろう。育ちが良く素直。何の打算もなく、「私が何とかしなきゃ」という責任感があるのだと思う。
しかし、そんないい子ぶりが鼻に付く。お姉さんだからってしっかりしなくていいのに。きょうだいで一番上とはいえ、まだ子どもなのだから。なんて思ってしまう。

これはきっと、先ほどの「ママ扱いへの嫌悪」にもつながってくる部分だ。ネバーランド自体は子どもの楽園のようなイメージがあるが、ウェンディはその中で子どもであることを許されず、「女」や「母性」を期待されている。ちょっと気の毒にさえなってくる。感情移入しすぎだろうか。

家の中では、ウェンディに期待されている「母性」とか「お世話」「子守り」の役割を、犬のナナが補おうとしているのが健気だ。

○ティンカーベルや人魚たちの凶暴さが怖い


ウェンディへの反感を募らせているのは、どうやら私だけではない。
作中では、ティンカーベルが激しく嫉妬しているし、入り江の人魚たちも、ウェンディに水攻撃を仕掛けている。

ウェンディは根っからのヒロインだ。いい子ちゃんで、周囲から慕われ、男から守られる。そんな子、同性から見たら「いけ好かない」どころではない。自分の地位をおびやかす、脅威の存在だ。
そんな負の感情を抱いているところに、ピーター・パンの気ままな態度。そりゃティンクも暴れるし、人魚も水をぶっ掛ける訳だ。

彼女たちは、ネバーランドの住人でありながら、「女」を凝縮したような存在でもある。共感もあるが、そのリアルさやヒステリックさに「怖っ」と引いてしまったりもする。
(そう考えると、作中の女性でマトモな人物って、ウェンディたちのママとタイガー・リリーくらいしかいないのではないか。)

○ピーター・パンに魅力がない


そもそも論になるが、ピーター・パンの何が良いのか全くわからない。あんな粗暴で生意気で自己中で人を小バカにした態度を取る奴のどこがいいのか。
ウェンディやきょうだいたちを危険にさらすし、嫌な目に合っても庇ってくれるでもなし。フック船長を過剰なまでに痛めつける残忍さも嫌だ。

何よりピーター・パンはブサイクだ。私は『ちびまる子ちゃん』の杉山君の顔も好きじゃないので、単に豚みたいな鼻をしたキャラクターが嫌なのかもしれない。
それを差し引いても、彼のとりえって本気で「空を飛べること」の一点くらいしか見当たらない。作中で女性キャラが取り合うほど魅力があるとは思えない。

――というわけで、『ピーター・パン』という作品の嫌な所を挙げ連ねてみたが、こうして見てみると、私は無意識にウェンディの目線で物語を見ていることに気づく。

タイトルに引きずられて、ピーター・パンが主人公だと思って見ていると、「何だこの話?」と疑問や違和感だらけになってしまうが、ウェンディ目線で見ると、「ああ、なるほど」と納得できる点も多い。

ウェンディが夢に見るほど憧れていたピーター・パンへの失望と、「いつまでも子どもで居たい」という願いへの失望が重なることが、彼女に「子ども部屋を出る=大人になる」ことを決意させるきっかけになる訳だから、子どもの象徴であるピーター・パンは、あれでいいのだ。

また、男尊女卑の思想を持つインディアンなど、あえてそういったキャラが出てくるということは、これは意図的に設定された「失望の物語」の要素なのだろう。私の抱いた嫌悪感は、ある意味正しいと言えるかもしれない。

だから、「夢あふれる冒険物語!」とか「ネバーランドは子どもの理想郷!」みたい扱い方は疑問だ。
ネバーランドを「楽しい場所」でなく「楽しかった場所」と捉えることで、ウェンディの成長を描いているわけだから、作品の結論とはズレている。

子どもの目から「夢や冒険」に見えたものが「失望と無謀」に思え、振り返った時に「それでも楽しかった思い出」に変わるのが、大人になるということ。この映画はそれを伝えたかったのではないか。

そう考えると、『ピーター・パン』は結構ほろ苦さのある物語だ。

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