激しく欲望したいという欲望
俺は長年かけて自分を壊してきたので、欲望するのが苦手になっている。なので、わざわざ他人の欲望を意識的にコピーしたりしている(どのように自分を壊したのかについて書くのがだるいのでそれは省略する)。
「ひとつの食べ物が食べたくなって、それを食べるまでひたすらその食べ物を食べたいと思いつづける」という持続的な欲望をコピーした。
これは本来は意識的にやることではないのだが、俺はすぐに自分が何をしたいのか忘れてしまうため、意識的にやった。というかその欲望は以前の俺の中には存在していたもので、たまにそんな感じになっていた気がする。なので、友人のおかげでそれを思い出したという感じなのかもしれない。忘れていてもずっと食べたいと思いつづけていたのかもしれない。基本的には米と味の濃いおかずが食べたくなるし、それがあれば満たされてしまうのだけど。
特定の対象を強く欲望する力は、複合的な能力だ。思い出す力が強くなければそんなことは起こらない。だから「その思い出す力ってすごいな、俺もそれが欲しいな」という思いもあり、この呪いをコピーした。
修行をやりたがっている。これは人生を「やりたいことだけをやるもの」と捉えていた時期にはなかった感覚で、何も見えなくなってからひとりで試行錯誤しつづけていたらこういう感覚が身についた。
そういう理由で労働をちゃんとやる気になった。そういう理由で人付き合いをちゃんとやろうとし始めている。それはいつも仲の良い友達といて苦しいというわけじゃない。仲の良い友達はとても社会的でいろいろと上手なので合わせてもらえるのですごく楽だ。
ただ、誰といても時々は何かしらの呪いが発生することがある。もうそれは俺の問題なので仕方がない。
その理由を突き止めて解呪していく。そして良い呪いをかけて楽しい時間を増やす。そういう流れが楽しい。
いまは、「激しく欲望したい」という欲望がある。
執着を手放すことがあまりにも簡単になってしまった。すべてが入れ替え可能になった。脱力に頼りすぎて、自動的に身体がそっちに流れすぎてしまうようになった。
でも、だからこそ、執着したいという欲望が生まれた。もっと激しく執着したい。欲望の対象を激しく求めたい。激しく嫉妬したい。身が引き裂かれそうになるくらいに。激しく欲望したい。全身が燃えあがるように。
ねこに激しい愛情を向けることと、音楽を聴いて心臓が止まりそうになるほど感情的になるのだけは簡単なのだけれど、他のことがからっきしだ。
執着のない人生は退屈だ。いつも楽で、いつもどうでもいい。身体が激しく何かを求めることがない。
そんな風になって初めて、自分は欲望することが苦手になったのだと気づいた。記憶力、集中力、思考力みたいなのってたぶん激しい欲望からくるんだろう。
それは、恐怖の対象から逃げ出したい感情でもいい。激しい嫌悪による殺意でもいい。ひとりの女だけをひたすら求める一途さでもいい。
悟りなんてつまらない。もっと激しく執着して苦しみながら生きた方がおもしろい。どうせ俺はまたすぐにそれを手放してしまえるのだろうから、いつかの狂った欲望をまた取り戻していい時期に来たのだと思う。
Xデイの呪いをうまく扱えるようになってしまったなと思っていたのだけど、キッカケは激しい嫌悪感情だった。死ぬほど嫌悪して、なぜかXデイの呪いまでたどり着き「あっ、あれってこういうことだったのか」となった。
Xデイの呪いは、この激しい異常なまでに一途な欲望だった。10年以上ずっとこの呪いに苦しんだ。よくわからない一途さが、俺を10年以上も停滞させてしまった(これは自分は一途であるべきであるという思い込みだったのかもしれないが、まだそれはわからない)。
緊張なくして脱力は生まれない。常にそれなりに脱力できてしまうことが、俺の人生から緊張感を奪っている。もっと激しく緊張して、その反動で溶けるくらいに脱力できたらもっと気持ちいいのかもしれない。そういう激しい波の中で生きていきたい。
必要な時だけ居着きたい。必要な時だけ思いっきり執着したい。そんなワガママは通らないのだろうか。いや、たぶんいまの俺ならできる。そんな気がする。
もう俺は執着することから逃げないでいい。後悔からも逃げないでいい。なぜなら、苦しむことの価値を知っているし、苦しみから解放されるための術も知っているから。
激しく欲望して、失敗していこう。そして激しく苦しんだのち、海よりも深いところに安らかに沈んでいこう。
そうやって生きていった先の死ならば、きっとどんな終わりであっても大丈夫なはずだ。