お前には誰かを救うなんてことはできない

救われていない人ほど他人を救いたがる。いつかのおれもそうだった。



いつだって苦しかった。どうやって生きていったらいいかわからない。どうやったらみんなとうまくやれるのかわからない。どうやったら自分が救われるのかわからない。

だからどうにか自分を救おうとするんだけど、バカなので何もかもが空回り。何もうまくいかない。



おそらくそういう理由で、自分を救えない生きづらい人は、他人を救うことで自分が救われようとするものだと思っている。

傲慢にもほどがあるよね。お前はお前のことすらまともに救うことができないのに、なぜか他人のことは救えるんじゃないかと思っているんだ。本当にお前は傲慢だね。

ちなみにおれは自分自身に向けてこの文章を書いている。決して「自分が救われないから他人を救おうとするバカなお前」に対して言っていない。だって、お前に語りかけてもたぶんお前はこの話を聞き入れるほどの余裕がないだろうから。おれがそうだったからなんとなくわかる。

まぁでも、いまおれが語りかけているのがお前のことだと思うなら、この記事を読んで自分のバカさ加減を思い知っていくのもいいかもしれない。おれはいつかのおれをクソ馬鹿野郎だと思っていて、その反省のためにこの文章書いている。お前もついでに反省していくといいかもしれない。



他人をコントロールしようとすることほどバカなことはないと思うんだよな。だって、そんな関係は長続きすることはないから。

友達がいて楽しくやっているやつが友達に手を差し伸べるのは「他人を救おうとすること」だけど、同時に「自分自身を救うこと」でもある。

だって、その友達がいてくれれば楽しいし、だからこれからも一緒にいて欲しいと思うから。そういう動機で他人を救おうとするのはたぶんいいことだと思うんだ。

だってそれは、その人によって自分に幸せがもたらされていて、それを守ろうとすることだから。幸せなやつが自分が幸せであるために必要なことをすることはなんの傲慢でもない。自分自身のために他人を救うことは正義だとすら思う。しょせん、人間は自分のためにしか行動することができないんだから、それでいいんだ。



だけどお前は愚かにも「不幸な自分を救うことができないから、他人を救うことで自分の不幸を埋め合わせようとしている」わけだよね。

これが傲慢でなくてなんなんだ?お前は不幸なバカのくせに、なぜ他人を幸せにできると思うのか。

どう考えても無理だろ、お前は不幸でバカなんだから。大人しく友達つくって自分の悩みを聞いてもらえバカ。それで自分の道を見つけて勝手に幸せになれ。



これは対談屋としてのポジショントークなんだけど、ちょっとその話をしよう。

実は、おれは色んな人と話し始めた時は、他人を救おうとして失敗し続けていた。というか何年もずっとそういうスタンスで生きてきた。

だから、おれはおれがバカだったなってよくわかるんだ。バカで不幸なくせに他人が救われるわけがないんだよな。だって、バカで不幸なやつに、幸せになるための正解なんてわかるわけないじゃないか。おれは何もできないくせに、自分のことすら救うことができないくせに他人を救おうとしていたんだ。本当にバカだよな。わからねえことを教えられるはずがないだろバカ。



そろそろ対談を始めてから1年8ヶ月くらいになるんだけど、やっていくうちに色々やり方を変えていったんだよね。

まず、基本的に他人はおれの話に興味がないんだ。なぜなら、インターネットで1対1のコミュニケーションを望んでいる人は、だいたいが変態か悩んでいる人だからだ。

変態はそもそも男ばかりでおれと話してくれないから、悩んでいる人ばかりが残るわけだ。

悩んでいる人は、当然自分の話をしたいんだよね。そんな人におれのやっていることとかおれの好きなことの話をしたってウケるわけがないんだよ。

それに気づいたおれは、ひたすら他人の話を聞くことにした。それが対談屋としての活動のベースになっているんだよね。



でもやっぱり最初は話を聞いた上で「こうやったら問題が解決する」みたいな話をしたがってしまうわけだよ。なぜなら、これまで言い続けてきた通り、自分が救われてないからその埋め合わせとして他人救おうとしてしまう感情的な習慣が抜けなかったからだ。

でもね、そうやって正しいことを言って他人をコントロールしようとすると、その人は逃げていってしまうんだ。

なんでだと思う?



逃げてしまった人の心のうちはおれにはわからないけど、なんとなくおれの中には仮説がある。

たぶん、悩んでいる人のほとんどは、誰かかのコントロール下にあってそれに苦しんでいる。それは職場の上司だったり、親だったり、クラスメイトだったりする。

もしかしたら、自分自身かもね。だけどうまくできないからコントロールしようとされること
に疲れているんだ。

それは現在進行形で続いていることだったり、過去の経験だったりする。親の呪いなんかはまさに過去の経験の話だよね。

だから、おれのコントロール下に置こうとすること自体が、その人の苦しみなわけだ。もうこの時点で他人をコントロールしようとすることがどれだけクソなことなのかわかるよね。



でもね、対談をやっていくうちに、相手をコントロールするのをやめたんだ。どのタイミングだったかはわからない。

いくつか理由はあると思うんだけど、まだ言葉にしたことがないから言葉にしてみる。



まずひとつ目は、おれが相手のカリスマ的な存在になってしまい、相手がおれに対して奉仕をしようとするキモいやつになってしまったことだ。信仰の対象になってしまった。

これは普通にキモくてイヤだったので、Twitterをブロックしたりして離れた。

本当にキモかったんだ。

おれはカリスマになってもまったくうれしくなかった。すごいやつになってみんなに認められたいと思っていた時期はあったけど、本当はこんなことまったく望んでなかったことに気づいた。

カリスマ的な立場になって、信者みたいな人に幻想と善意の押し売りをされるのが耐えられなかった。そして、信者は自分のことをちゃんと理解しようとしてくれないものなんだと気づいた。

だから、ちゃんと距離を取るようにしたんだよね。自分の考えを洗脳するように相手に教えることは、相手のためにならないし、何より自分がキモすぎて耐えられない。

だからやめた。



ふたつ目は、距離をとって話を聞いていくうちに、相手とうまく溶け合えるようになってきたことだ。

いつからどうやってそうなったのかはわからないけど、相手が勝手に救われたような気持ちになって感謝されるようになってきた。

そして、特に大したことを話さなくても、ただ通話をつないでいるだけで心地よいみたいな感じになったりする。

なんとなく具体的に説明できる方法論はあるけれど、言葉にしたところで他人に実践可能なものではないような気がするので、とりあえずいまは書かないことにする。

まぁそんなこんなで、他人が勝手に救われるような体験を積み重ねてきたわけだけど、それは同時におれのことを救ってもいた。

それを見て「ああ、美しいな」と感じるから、同時におれも勝手に救われるんだ。



つまり何が言いたいかというとこういうこと。

他人は勝手に救われるだけ

自分も勝手に救われるだけ

他人が勝手に救われることで自分も勝手に救われるのが気持ちいい

おれは対談でこれをずっと繰り返している。

まったく他人を救おうとしていない。コントロールしようとしていない。んなことしても悪いことしかないので。


相手の話を聞いて、問いを投げるだけ。

自分が楽しく笑いたいところで笑って話を聞いて、たまに必要最低限の話をするだけ。

それで勝手に他人が救われたりする。そして、勝手に救われる他人と溶け合って、おれが救われる。すごく幸せな気持ちになる。

だからおれは対談することが好きなんですね。



お前に他人を救う覚悟はあるか?他人のために金と時間を惜しみなく注ぎ込めるか?他人のために他人の家族の看護することができるか?他人がつらい時に泣き止んで満たされるまで慰め続けて抱きしめる覚悟があるか?

おれはないよ。そんな余裕はない。他人の人生に介入して他人を良い方向に導けるほどの力はない。そんな覚悟もないのに、言葉で他人を救おうなんて傲慢にも程があるよね。不幸でバカなお前の言葉には他人を救う力なんてないよ。

おれにできるのは笑って楽しく話を聞くことだけ。問いを投げることだけ。必要最低限の自分の話をするだけ。

そうやっていつか溶け合う時を待っている。おれにはそれしかできない。そして、おれはそれが最高に気持ちいいので大好きだ。



もう一度言うけど、最初の頃のおれは「不幸な自分を救うための埋め合わせとして他人を救おうとする」をやって失敗していた。

いまのおれは「自分が幸せになるために他人の話を聞く」をやっている。

「溶け合う」はオマケというか、おれが好きで勝手に目指しているゴールではあるけれど、必ずしもそこに到達する必要はないので、ただ楽しくあれるようにすることと、相手のことを知ることに集中している。



どうだ、いつかのおれ。自分がやってきたことがどれだけキモくて最悪なことだかわかったか。お前はクソだよ。ちゃんと反省しろ。他人をコントロールしようとするな。

お前は話を聞くだけで勝手に幸せになれ。そして、他人が勝手に救われる時を待て。そして、他人が救われることでお前が幸せになればいい。それ以上のことはできない。身の程を知れ。

お前には誰かを救うなんてことはできない。

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