進む道を見いだせそう
ここのところ、微熱が続いている。正確には、平熱を少し越えたところの僅かな差をうろうろしている。大台を越えると頭痛がしだし、身体に硬い棒が突っ張っているかのように肩や腰が張っていくのがわかる。どうやら冷えが要因のようで、シャワーや足湯で温むと改善する。だが、寒気も末端の冷えもないため、本当にどこが冷えているのかわからない。内臓なのだろうか。
頭痛が始まると考え事には向かない。優先事項は寝ることになるので、寝るためにも考え事は放棄。なので、なかなか文字を起こすこともままならない。時々、夢うつつの中で誰かと会話したり、連想ゲームのような言葉遊びをしているのを起きた時に思い出して走り書きしておくが、何度見返してもよくわからない。
微熱というのは、とても繊細な質のようで、しっかりとした発熱のように“もう身体が動かない!何もできない!”とはならない。
普段よりは少しのっそりとではあるが家事、仕事はそこそこできて、熱によって代謝が上がっているからなのか喉が渇き、お腹もすく。お腹がすくので、たぶん風邪ではない。だが、少し普段通りに行動してみると“そこまでは無理”と身体が言ってくる。
何か身体や心にとって、負担がかかったりオーバーワークが生ずると、発熱を起こすという心因性高体温症と呼ばれるようなものもあるらしく、状況としてはこれに近いのかもしれない。
このような症状は実は昨年秋頃から頻発していたことから察するに、身体や心の受け付け方が、今はこれが通常に変化したのかもしれないと思うことにした。
心が“違和感”を感じるより先に、身体の方が反応を起こすようになったということ。
これはこの5年くらいの暮らしの変化の流れで起きていることだと思う。
プラントベース、ヴィーガン…植物性のもので食事や生活を誂えるやり方には幾つか言い方があり、それぞれに少しずつ思想の差がある。一番わかりやすくノーマルなのはプラントベースだろうか、と思うのでプラントベースという言い方を使っているがこの言い方が伝わるようになったのは最近で、カフェやコンビニ、チェーン店でも目に付く様になるほど普及したからだ。
プラントベースを生活に取り入れる人の目的は様々で、思想だけでなくウェイトコントロール、食事療法などの方法の一つとしても選択される。
私はといえば、プラントベースを選択しているというよりは、禅・精進料理というところが発端となっている。精進の考え方から広がるとマクロビも絡まってくるし、アーユルヴェーダ、薬膳、漢方…そういうところにも通ずるところがあるので大きな括りでプラントベースという方が伝わりやすく、また“精進に生きています”というのは烏滸がましくてとてもそう称せなかったのもあり、プラントベース生活と称している。
だが、今回の発熱をきっかけに、改めて食事や暮らしを身体の常態から見直そうと、久しぶりに精進料理の本を取り出して見ると、精進料理の世界観が食を通して自分と自然(外の世界)を調和させるものであること、そしてそれは自分を見つめ律することなどの精神がやはり好きだということに気づいた。精進とは、心身を浄め慎むこと/一生懸命に励むこと 他とある。精の字には、こまかいこと/心身の力/魂、不思議な力 他 という意味があり。この意味を知った上で、精のつく熟語を並べてみる。精彩、精巧、精密、精霊、精神、精魂。精米から作る日本酒が神様のお酒だという意味にもにわかに真実味が増す。
精進料理にもそういう不思議な力があるような、人間の潜在的な力を引き出すような力があるように思えるのだ。精進料理は普段の食材でも手間をおしまないことや食べる人のことを思うことでどんな調理にするのかを大事にする。和食にもあるが“寄せる”という調理には作り手の心を、季節を食べてもらう人に寄せる、というようなイメージを抱かせてくれる、なんとも素敵な調理法だと思う。タイパやコスパを重視しないと生活が回らない、使える自分の時間をなんとか確保しないと息苦しくなってしまう世の中のなか、ものわかりの良いハーちんとのんびり屋のおじたんのおかげで幸い、私は精進の生き方を選択することができている。自分に合った、自分の好きな生き方を進めることができている。
なので、これをきっかけに、“精進料理が好き”ということを自分に良しとし、またその世界をもう少し掘り下げてみようかなと思ったり。
そんな気持ちでキッチンに立ち、剥いた野菜の皮はいつもよりもとても薄く剥けていた。