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エロゲ評「夏ノ終熄」~アフターコロナにおける「堕落論」昆虫食に対する忌避を添えて~

あらすじ(公式HPより引用)

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自然豊かな田舎の夏。たった2人の終末世界
大学卒業後に一度は就職したものの、ブラックすぎる職場だったために一年もたたず体を壊し退職してしまった、主人公『ユウジ』
悩んだ末に空き家になっていた田舎の祖父母の家に移り住むことを決める。
療養中は、田舎暮らしのあれやこれやを動画にし、
動画サイトへの投稿をする毎日を過ごしていた。
投稿した動画は運良くバズることができ、
ようやく動画の収入で生計を立てられるほどになったころ、世界的な伝染病が発生してしまう。
世界中の人間がバタバタと死んでいく中、幸運にもユウジは感染しなかった。
同じ村に住む人々は1人、また1人と病に倒れ、最後の村人を見送ってからは、
「いつか自分も死ぬのだろう」
とただ無気力に生きていた。
そんな中、ふらりとやってきた少女『ミオ』と出会い、再び生きる喜びを思い出していく。
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「夏ノ終熄」公式ホームページ
https://www.cuffs.co.jp/products/endofsummer/


総評
 本作の発売日は2022年8月26日。世界中で猛威を振るったCOVID-19が一定の落ち着きをみせ、日本でも「2回目のまん延防止等重点措置」が終了した数か月後だ。

 本作の重要な舞台設定として、「世界的な伝染病によって崩壊してしまった世界」が挙げられる。これ自体は古くから多くのフィクション作品で使い古されたモチーフであるが、現代に生きる多くの人にとって「単なるフィクションのできごと」ではなく「起こりえたかもしれない未来の一つ」としてリアリティを持って実感できることだろう。

 本作は「愛する人の死が避けられないものとなったとき、あなたは何をするのか?」「世界が崩壊したあとに、人は何を想うのか?」というフィクション的通俗さを持ちながらも普遍のテーマを描いている。それがつくりもの特有の陳腐さを伴わず、真に読者の胸に迫るのは、まさに「コロナ禍」が私たちの価値観を一変させたからに他ならない。

 突然、人は死んでしまうかもしれない。突然、当たり前に享受してきた生活は消えてしまうかもしれない。我々がそんな共通の認識を持てている現代だからこそ、本作の舞台は単なるフィクションでは片づけられない「起こりえたかもしれない未来」としての力を持っているのである。

 この作品が解決方法として提示したのは「堕落」である。一般的に「堕落」というと「怠惰」「怠慢」「建設的思考の放棄」などマイナスのイメージがつきまとうが、「堕落論」の中で著者の坂口安吾は「堕落」を次のように書いている。

 "我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、じつは案外、その程度でしかありえない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、その切ない人間の実相を我々はまず最もきびしくみつめることが必要なだけだ。"

 「堕落論」は、日本が敗戦国となった1946年、安吾40歳のときに上梓した作品である。国土は焼かれ、多くの若者が死亡し、GHQの戦後統治が始まり……と先行きのまったく見えない日本に、厭世ムードが蔓延していたことは想像に難くないだろう。かたちは違えど、コロナ禍で我々が感じていた不安と似た性質を持っているとは思われないだろうか。

 安吾は「堕ちた先の人間を見つめよ」と説いているが、これは安吾自身にも向けた言葉であろう。一個人の力でどうにもならない世界にあって、「堕落することは悪くない」「無限に堕落することはできない」「堕落したうえで、また前を向いていけばいい」という自己肯定を述べているのである。

 本作は、ユウジが世界を救う物語ではない。終わってしまった世界で、目の前の愛する人と、ただ二人で今を生きようとする物語である。

 「夏ノ終熄」の劇中において、ユウジは非常に達観している。「自分に世界を救うことはできない」「ただ、今を生きていく」という強い意志だけがある。当初は厭世的だったミオも加わって、二人の意思は交流を深めながらより強固なものとなっていく。それは、いつの時代も人間が連綿と続けてきた、愛と生の物語である。

2 飽食の時代における昆虫食への忌避」に続く

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参考文献
・「堕落論」/坂口安吾 集英社文庫 1990/11/25第一刷

・カフス「夏ノ終熄」 公式ホームページ
https://www.cuffs.co.jp/products/endofsummer/


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