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あしたのパスタはアルデンテ


#映画感想文

あらすじ

主人公はイタリアのとある田舎町にあるパスタ製造工場社長の息子である。息子には兄妹が数人いて、兄が跡取り息子として工場を仕切っていた。トンマーゾはカントーネ家の次男として兄と一緒に父親から共同経営を引き継ぐことになっていたが、トンマーゾには誰にも言えない秘密があった。
トンマーゾは作家になりたいこと、ローマに戻るつもりであること、最後にゲイであることを兄のアントニオに打ち明ける。共同経営に参加する気はないと伝え、兄のアントニオは何ともいえずその場の話は終わったかに見えたが、いざトンマーゾがカントーネ家の食事会にてゲイであることを家族に打ち明けようとすると、兄のアントニオが告白を横取りしてしまう。なんと兄のアントニオが自分はゲイであると告白したのだ。
アントニオは製造会社の従業員とゲイ同士愛し合っており、それをずっと隠して社交代行業をしてきた。自分としてはその恋人と共になりたい気持ちを持っていたが、弟のトンマーゾがローマの大学へ入学してしまうため、その間、会社を離れることは彼には許されなかったのである。
虚を突かれたトンマーゾだったが、最初は自身もゲイであると申し出ようと考えたのかもしれない。しかし、倒れてしまった父親のことを考えると、それはもう無理だった。兄の代わりにならなければならない。会社のこと、次男ではなく長男としての息子の役割、現実はトンマーゾの本来の思いとはかけはなれて進んでいく。

パスタ工場の共同経営者の一人であるアルバのおかげもあって、仕事はなんとか軌道に乗せることができた。父親も体調を戻しつつあるが、トンマーゾの心は晴れないままだ。アルバは両親公認のトンマーゾの婚約者として描かれる。アルバ自身にもその気があるかのような素振りも見せるし、実際に一緒に住んでいるシーンも流れるが、アルバは途中でトンマーゾがホモセクシャルではないかと気づき始める。
違和感は最初にあった。アルバが靴を履き替える姿をトンマーゾは見ていた。トンマーゾは作家志望である。アルバのことは前にオープンカーで激走し、わざわざ降りていって道端に停車してあるアウディにハイヒールで傷をつけるという奇行を見てしまったからだ。そういう女性をどこかで書く可能性はずっと自分の中で残っているものだ。もしかしたら家に帰ってからノートにメモしたのかもしれない。とにかくトンマーゾはアルバのことを覚えていて、アルバと初めて会話した時に「靴がきれいだ」と言った。イタリア男性はそんな美的感覚は持ち合わせていないし、普通靴を褒める男性はいないものだ。なぜなら靴は地面を歩くものだし、どんなに綺麗に履いていても汚れるものだからだ。汚れるからこそ綺麗に履こうとしてファッションも高まる箇所ではあるが、だからこそそんなに褒める人はいない。もし靴を褒めて違っていたら?という意識が自分にも生じるからだ。そこには「靴を見られることが恥ずかしい」という無意識が生じている。そういった意味で靴はエロスの対象であるともいえるかもしれない。
その靴をしかも初対面で褒められた。アルバはその時はそれほど気にしなかったかもしれないが、後々考えてみると、トンマーゾの美的感覚に違和感を覚えるきっかけになったと考えられる。アルバは自分が靴を履き替えていることをまさか見られているとは思ってもいないだろうからだ。

父親とリア王

父親はイタリアの典型的な家父長制を象徴している。全てをコントロールしていると思っているし、自分がいうことが絶対だと考えている、まさに現代のリア王である。リア王は自分の進退について三人の娘に領土を与えるという話をするが、その際、「それぞれの娘がどれだけ自分を愛しているか」を問う。その愛の大きさにより領土の分け前を決定しようというのだ。二人の娘はすでに結婚しており、父の言葉の意味がよく分かっていたし、何より「どうすれば利益を得られるか」という考えに対して、偽善ではあるけれども「父への愛」という交換要素を提示すれば良いという答えにたどり着いていた。しかし、一番下の子は違った。偽善である愛は愛ではないと考えたし、そこに実際には愛はないのはたしかなのである。コーディリアは父への問いに「何も答えない」という答えを出し、父からは勘当される。
兄アントニオもコーディリア同様、偽善の愛、それは父への服従という意味での愛と自身の性自認を偽るという意味での二重の愛ではあるが、どちらにも嘘をつけず正直に話すという選択をした。結果、リア王がしたように、兄アントニオは父から勘当される。そしてここから父の破滅が始まる。

父親殺し

「リア王」では、姉妹二人が、父がコーディリアを勘当したことがやり過ぎだという意見の一致から、父への反抗を試み始める。元来、神のごとき父の振る舞い、その権力をよく思っていなかったし、父が王の座を退く際は、父の領土、そして父の権力、この二つは各娘それぞれに振り分けられるものと思っていたのである。しかし、父はそうしようとしなかった。「王の二つの身体」のうち王としての権力は、リア王自身に留めようと思ったのだ。これが娘たちから反発を買い、リア王は王としての身ぐるみを剥がされ、挙句の果てに自然界へ投げ出されてしまう…。

王権

『あしたのパスタはアルデンテ』での父の役割はどうか。兄アントニオに勘当を言い渡すまでは『リア王』と同じだが、ここからが違う様相に転じる。
田舎町は小さく、兄アントニオがゲイであることがすぐに世間にばれてしまうだろう。父はカントーネ家、そして自分が周囲から奇異な目で見られ、馬鹿にされるのを恐ろしがった。血圧が上がり倒れてしまう父だが、体調を回復し外を出歩けるようになっても、「周囲が私を笑っている」という意識は消えず、精神を病んでいった。

なぜ周囲から馬鹿にされるのを恐ろしいと思うのか?

展開自体は違うが、理由は『リア王』と同じである。家父長制の最たる象徴は、父の権力、神のごとき統治の権力に他ならない。周囲からの奇怪な目は、自分自身に「裸の王様」であることを自覚させることになってしまう。王でなくなった自分にはもはやアイデンティティを維持する力はないのである。

  • リア王は、姉二人の領土から追い出され、周囲から父=王ではなくなってしまうと、自然界に曝され、精神を逸してしまう。

  • 父は、町の人びとから笑われている自分のイメージから逃れることができなくなってしまい、常々妄想病に陥ってしまう。

父のアイデンティティは維持することはできないが、リア王までには至っていない。家の中でなら、まだ王の権威が残っている。なぜか?

大親がいるからである。元々、祖母は駆け落ちしてきた身で、原題では「Mine vaganti」、「何をしでかすか分かったもんではない、危険人物」の意味のまさにその人である。映画の中ではうまく描かれているとはいえないが、大親の役割は、父の権威がなくなろうとしているその時に、それを留めている。

告白と自由

やはりゲイなのか?

トンマーゾの友人たちは、ローマへ戻ってこないトンマーゾを心配して、田舎町へやってくるが、その中にトンマーゾの恋人のマルコもいた。再会した二人は、当初こそうまく折り合いをつけられなかったが、ゲイ仲間とアルバと共に海水浴へ行ったことで、トンマーゾはマルコのところへ戻ることを決心する。
トンマーゾの心理描写の解釈は難しい。海水浴のシーンだけを考えると、アルバとマルコが仲良く遊んでいることにトンマーゾが嫉妬し、異性を通してマルコへの愛を再回帰するという単純な絵が描かれていることになる。しかし、トンマーゾがアルバのことをどう思っていたのか?これは見る人によって解釈が分かれるところである。アルバはトンマーゾのことが好きだった。何度も誘うような仕草を見せたが乗ってこないトンマーゾを不思議に思い、海水浴でトンマーゾとアルバが話している場面を見て、「やはりゲイなのか」とあきらめ笑いをする。

性の側面

ここで一つの問いが浮かび上がる。
アルバはイタリア人女性である。日本人と決定的に違う、愛には燃えやすいタイプなのは、冒頭のオープンカーやハイヒールの件で見てとれる。ではなぜ、トンマーゾのことを不思議に思いながら、トンマーゾに自分のことをどう思っているのかを聞かなかったのか。それは聞けなかったのだろうか。こわくて? たぶんそうではないだろう。聞かなかったのだ。なぜか?

アルバはトンマーゾのことはおそらくゲイであろうと思っていた。そして、トンマーゾにゲイではないかと聞くこともできた。しかし、トンマーゾは自分と一緒にいてくれたし、自分とのコミュニケーションは恋人のそれと同じものであると感じていた。もしかしたら、アルバはトンマーゾのことをゲイであるとは思いながらも、トンマーゾから恋人同士が思い合うような愛を感じていたのではないだろうか?アルバがそれを諦めきれなかった、だからなのかは分からない。しかし、少なくともアルバにとって、トンマーゾは男であり、アルバといるときのトンマーゾ自身も自分が同性愛者なのか異性愛者なのか、曖昧な状態で描かれているのではないだろうか?
そうすると、アルバとマルコのシーンを見て、自分の同性愛としての側面が再度確立するのはよく分かる。

最後の告白

そして、もう一つ。この前日、トンマーゾは兄アントニオと話している。それは自由とは何かということである。兄アントニオは親に勘当されようとも、自分自身に正直な人生を生きていきたいと願い、そして恋人との修復はできなかったが、それでももう家にも会社にも戻らないし、それで良いと考えている。物語終盤、兄の自由な生き方と自分の生き方が再び対比され、父への告白へと繋がる。
最後は、重い糖尿病を患っていたはずの祖母が、自ら命を絶つという選択をする。それが本当に自由なのか?という問いは最後に残ったように思うが、この神のごとき一撃は、リア王たる父へ最後の一手を打つ。祖母の死をきっかけに、二人の息子の自由を受け入れさせるのだ。



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