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迷いの雲を風に流せ!禅語「白雲自去来」
禅で教えられることに、「物事にこだわらず、あるがままの心を持つことで、自分を見失うことなく生きることができる」というものがあります。時には、無心でいることで答えが見つかることもあるのです。
「こうでなければならない」というのは、窮屈な生き方である、と禅は説きます。
例えば、「金剛経(こんごうきょう)」というお経には、次のような教えがあります。「お釈迦さまはいつもおっしゃいました。『修行をする人たちよ。私の説法は、筏(いかだ)のようなものだと心得なさい』と。」
意味は、筏(いかだ)は、川を渡るためには必要なものです。しかし、川を渡ったあとも、いつまでも大事に筏(いかだ)をかついでいるのでは、かえって荷物になるばかりです。病気が治ったのに薬を飲みつづければ、薬も毒になります。仏教もまた同じなのです。
たとえば、水があふれんばかりに入ったコップがあるとします。このコップで、別の飲み物が飲みたいとき、どうしますか。水をほかの容器に移したり、飲んだりして、とにかくコップの中を空っぽにすることでしょう。
コップの中の水は、人のこだわりや価値観です。この、こだわりや価値観を、いったん空っぽにしなければ、ほかの考え方を受け入れたり、ものごとを自由に考えることはできない、というのが「空(くう)」の教えです。
たしかに、こだわりや価値観は、ときに迷いをふりはらったり、行動の拠り所になったりする面もあるように思います。しかし、こだわりも価値観も、絶対に変わらないものかといえば、人の思惑や都合、意見によって変わってしまうこともあるでしょう。
こんなふうに、自分では確かなものだと思っていることでも、じつは案外たよりないものだったりするのです。頼りないものに、いつまでもしがみついていてはいけません。それは、川に流されているのに、自分で泳いでいると思いこんでいるようなものです。
禅に限らず、あらゆる宗教や無宗教であっても、人が追い求めているもの。それは幸せって何か、ということ
では、質問です。あなたにとっての幸せってなんですか?
まず、幸せとは何かを知るためには、自分にとって一番大切なものは何かを知る必要があります。
しかし、この「自分にとっての大切なもの」に気づくことが難しいのです。
例えば、病気になってはじめて健康の大切さを知るように、
あたりまえの幸せには、なかなか人は気づけません。
他人と比べることで、自分に足りないものを見ることはできるでしょう。でもそれは、あなたが本当に欲しい、一番大切なものですか?
長く生きてくると、知識とか経験が増えて、自分が一体どうしたいのか、何が必要なのか、分からなくなってしまいます。
「大切なものを探しはじめることが第一歩」
自分にとっての幸せは、本人にしか分かりません。だれも自分の代わりに「大切なもの」を探してはくれないのです。そして、それを見つけることは簡単なことではありません。しかし、まず探しはじめたことに意味があるのです。
幸せを探し求めた人の話です。
その1 「人に聞く」
探し回って疲れが限界にきたその人は、ついには自力で探すことをやめました。
そこで、いろいろな人から教えをうけて自分の幸せはなにかを知ろうとしたのです。自分にとっての幸せは、本人にしか分かりません。だれも自分の代わりに「大切なもの」を探してはくれないからです。しかし、人から教えてもらうことで、「大切なもの」探しの手がかり・ヒントを得ることはできるのです。
実際に人に聞くこともあるでしょうが、本やネットで探すこともできるでしょう。
結局一人で探し求めて気がついたのは、「こうなりたいという自分自身の姿になる生き方を生きがいにして生きる」目標が幸せを知る手がかりになるいうことです。
いろいろな人からの教えや偉人の生き様や他人の人生を参考にしながら十分に考えた「こうありたい」という自分だけの目標です。
目標が見つかれば、次にそのためにするべきことが何なのか、自然に分かるようになります。そして、その目標に近づくために必要なものは、自分の本来持っている感覚や日々の行いなどです。決して特別なものではありません。目標を追いかける自分は、やがて目標によって成長していきます。
(目標)に気づくきっかけは、人によって違います。それは日々の生活の中で気がつく、足あとだったり、においだったり、ひょっとして偶然かもしれません。でも、いずれにせよ、どんなに小さなヒントも聞きのがすまいと思っていたからこそ、聞くことができたのです。意思があってこそ、目標は探すことが出来るのです。
これを読んでくださっている人の中には、何か新しいことを始めてみようとしている方もいらっしゃると思います。
どんなことでも、最初のうちは成果を得るまでに時間がかかるものです。でも今までできなかったことが、当たり前のようにできるようになるためには、多くの課題や迷い、悩みを自分なりに解決しなければなりません。その道のりで得たものが本当に「身についたもの」になるのです。
しかし、目標を見つけて縄をかけてつかまえたとしても、まだ安心はできません。油断をすれば、目標に引っ張られて大ケガをしたり、時には目標を見失ったり、道に迷ってしまいます。
その2 「挑戦する」
何かを身につけたいと思うなら、まずは、挑戦し、なれることが大切です。はじめのうちはできなくても、何度もやってみるうちにできるようになるかもしれません。「いつかはできるようになる」と思いこめば、続けていくことができるでしょう。自分が成長したことは、自分が一番気づきにくいのです。
自分にとって大切なものを探す過程では、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、ことが大切です。
人は毎日の生活のなかで、さまざまなことを学びます。しかし、その学んだ知識や、つみ重ねた経験があればあるほど、自分の目指すものが本当にそれでよいのか、迷いが出てきてしまうこともあるでしょう。生きているかぎり、不安や悩みはついてくるものです。
大切なのは、「できるか、できないか」ではなく、「そうなりたい」と思う強い気持ち、意思であり志なのです。
ある旅人は、自分のやるべきことは何か、幸せとは何かを探していました。そして「悟り」に気づくのです。「さとり」とは、その答えが自分のなかにすでにあったと気づくことです。
しかし禅ではは、その「さとり」でさえ忘れなさいと説いています。ひとたび目標や幸せに気づくことができたなら、もはやあれこれ考える必要はないからです。
戦争が、震災が、身近な場所で不幸な事件が、多忙な生活に紛れて、不幸せを感じたり、目標を見失ったりすることがあります。
また、知識や経験が増えてくるにつれ、あれこれ考えをめぐらせてしまいます。そんなときは、悩みや迷いだけでなく、幸せや目標のことも忘れればいいのです。
幸せってなんだろうと、考えることさえも、忘れましょう(笑)。
苦労して苦労してようやく手に入れたものは、そう簡単に失うものではありません。風が吹けば花びらは散ります。でも、だからといって木が枯れるわけではありません。花にこだわるより、根をしっかり張ることのほうが大切なのです。
幸せを考えること、そして悟りを得ようともがくこと、外国の紛争に心を痛めること、なにもかもを雲のように自然にまかせて流れるままに、しておきましょう。
あれこれ考えすぎて生じた迷いや悩みや息苦しさは、風が流してくれるのです。
無心で物事に向き合う大切さを禅語では「白雲自去来」(はくうんおのずからきょらいす)と表現します。
時には無心になりましょう。
無心でいることで、あなたの悩みを解く答えが、見つかるのです。