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運命の延長線上を塗り替える女〜椎名林檎「歌舞伎町の女王」をベリーダンスで踊ってみて〜

「歌舞伎町の女王」を初めて聞いた時の興奮は、なんとも表現し難いものだった。そして、今でもその魅力は色褪せることがない。

20年以上も好きなこの曲を、今年、シルクロードカフェさんで踊らせていただく機会があった。

https://youtu.be/Hinv4SDtXdM

師匠であるRHIAさんに要所要所改善していただきながら、この曲と向き合って拙いながら振付を考えた。こんなに長い間聴き続けてきた曲なのに、数ヶ月向き合っていると新たな発見があった。

それは、この曲の主人公の、運命との向き合い方だ。

これまでは、「蝉の声を聞くたびに、目に映る九十九里浜」という出だしにも象徴される、まるで小説の一節のような雰囲気の歌詞に酔い、

歌舞伎町という、自分が生きてきた中で交わることのない淫靡と喧騒の響きのある世界観を、楽しんで聴くだけだった、

別世界として。

でも、踊るとなると、振付を考えるとなると、曲に入り込んで理解しないと曲に失礼だし、
それに無限に振付が浮かんでくる師匠のようなタイプでないので、そうでもしないと作れない。
この曲の主人公の心の動きを詳細に想像できなければならない。足らない頭と経験ながら、想像を重ねた。

曲に込められたストーリー

主人公の女性は、「皺皺の祖母の手を離れ、一人で訪れた歓楽街」に自ら引き込まれ、そして「ママはここの女王様、生き写しのような私」であることが、その世界で自らも生きてゆくことが定められた運命であることを示唆している。

煌びやかな世界の表面だけを知る幼少期から一転である。

「15になった私を置いて」、「毎週金曜日に来てた男」と共に「女王は消えた」のである。
母ではなくただの女であることだけを選んで私を捨てたのだ、という失望と憎しみを、娘の心に残して

そんな中、運命に導かれるように、再び彼女は歓楽街に足を踏み入れるのだった。

もちろん「消えていった女を憎」んでいる彼女だが、自分がとって変わった女王という座を誇ってもいる。それは、かつての女王であった母への、復讐でもあるかのようだ。

「女になったわたし」は、かつての女王と同じように自分を売る。誇りを持つ一方で、「売るのは自分だけで」という一節には、暗に自嘲のニュアンスも感じる。アンビバレントな感情が彼女に内在している。

でももし、このどうしようもないさだめを嘆いて、「同情を欲し」てしまったなら、「全てを失う」とわかっている。
彼女は決して生ぬるい覚悟ではないのだ。

そして、最後こう締めくくる。「JR新宿駅の東口を出たら、そこは私の庭。大遊戯場歌舞伎町」と。

運命に翻弄されながら、憎しみと誇りと自嘲と諦めと覚悟と、全てをないまぜにしながら、頂点に君臨するその自分の世界で、今をただ強く生きているという女性の姿が浮かんでくる。

彼女はどう運命と対峙したのか

女を売るという世界でてっぺんを取った母、そして女であり続けるが故に自分を捨てたその人との別れ。母への憎しみの中、自らも女を売るという生き方を選んだ主人公。彼女は翻弄されたその運命とどう向き合ったのか。

受け身でただ受け入れたのでもなく、
そこから逃れるようにまったく違う人生を歩んだでもなく、
きっと完全に乗り越えたわけでもなく、
運命に絡め取られながら生きつつも、その延長線上を自らの意志でより濃い色の絵の具で塗り替えていこうとしたのだと思う。

自嘲気味であるが故にどこか退廃的でいながらも、力強い意志を感じるこの曲が多くの人の心に残るのは、彼女のこの運命との対峙の仕方にあるんじゃないかと思う。

ヒーローじゃないからこそ

誰もが多かれ少なかれ、
弱い自分をもち、強い自分でありたいと願い、
でも思い通りにいかない人生に負けそうになりながらも、
なんとか生きようと奮闘している。

私も本当にそうだ。
決して強くない体に、弱い精神に、
自分に失望しながらも、なんとか前よりは良い自分に明日はなっていたいと願っている

完全に何もかもを乗り越えて完璧な強さを手に入れるヒーローが描かれることもよくあるけれど、
それもかっこいいけれど、
私のような一般の人間にはそんなヒーローは、遠すぎる
闇を抱えたり、乗り越えられないものを抱えながらも、
強くあろうとする、その姿
には、そのリアルさには、
切実に込み上げるものがある。

ベリーダンスを通して、この曲の魅力を、自分が表現できたとはとても思えないけれど、踊りを通してこの曲の魅力をさらに深く知れた気がして、そして踊っていた数分間に少しだけ、この曲の主人公の心に触れられたような気がして、とても幸せだった。


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